徒然なる戰藻錄

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日本海軍潜水艦

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

DMMにログインできなくなって久しいので、今回は四方山編として日本の潜水艦についての画像をちょこっと載せてヒマつぶしあてようかと存じます。

DMMも、これを投稿し終ったころには復旧していることでせう。
そう願いたいところです。


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これは昭和17年3月下旬ころのペナン。
ペナンはマラッカ海峡北部に面した馬來(マレー)半島西部に位置する都市で、21世紀の今日では東南アジア有数の観光地になっています。
ペナンは開戦から10日ほど経過した12月19日に日本軍に制圧され、以後は印度洋方面の潜水艦作戦の策源地として活用されました。
獨逸海軍の潜水艦もペナンの日本海軍施設を補給・整備拠点として活用したため、ペナン市街では日獨両軍の海軍将兵の姿を見ることができました。


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ペナンを出撃する『伊號第一五九潜水艦』。
昭和17年2月21日の模様で、当時、ペナン地区には『伊一五九潜』のほかに『伊一六二潜』、『伊一六四潜』の3艦が在泊していました。

『伊一五九潜』は昭和5年(1930年)に竣工した海大3型bに分類される艦で、開戦当時は旧式化しつつありましたが、南方作戰に従事して複数の船舶撃沈戰果を挙げました。
ミッドウェイ海戰に参加したのを最後に第一線を退き、練習潜水艦として終戦まで生き残りました。


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昭和18年8月ごろ、ペナンに碇泊中の巡潜乙型潜水艦。
手前が『伊號第二九潜水艦』、奥が『伊號第二七潜水艦』で、ともに開戦後の昭和17年2月に完成しました。
画像が悪くてわかりにくいかもしれませんが、2艦の塗粧は異なっています。一説によれば、潜水艦に施す迷彩塗粧の効果を試験するために2種の塗粧が行なわれたといわれています。
最終的には、『伊二九潜』のような全体を黒く塗るタイプになりました。

※塗粧:海軍では塗装のことをこう呼びました。


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昭和18年秋ごろに印度洋で作戰中の『伊號第三七潜水艦』。
巡潜乙型の1艦で、零式小型水上機と呼ぶ潜水艦搭載用小型機を1機搭載しています。
上の画像ではそれを射出させようとしているところで、右主翼の手前にある細長い棒状のものは、帰還して潜水艦の至近に着水した零式潜偵を揚収するためのクレーン。

艦体には敵味方識別用のケンバス製の日章旗が結ばれていましたが、戦争中盤以降にはケンバス製から艦体へペンキで直接描く方法に変わりました。ペンキで描かれた識別用の日の丸は、作戰海面に近づくころには消されます。
このほか、友軍機による誤爆を防ぐため、甲板上に識別用の白い帯布を敷いたりもしました。


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零式水上機を射出した『伊三七潜』。前方に射出された零式水上機が写っています。
画像手前の円筒部分は水上機格納庫で、ここに水上機は分解されて格納されます。浮上してから、分解された水上機を組み立てて射出するまでの所要時間はおよそ30分でした。
この種の潜水艦搭載用水上機には潜水艦大國である獨逸海軍は非常に興味を抱きました。


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『伊二九潜』より撮影の獨逸海軍Uボート『U80』。
昭和18年4月28日、マダガスカル島南西洋上において、『伊二九潜』と『U80』が会合しました。
このとき、『U80』から印度独立運動の指導者の一人であるスバス・チャンドラ・ボースと秘書のハッサンを受け入れ、『伊二九潜』からは日獨技術研究のため2名の海軍士官が酸素魚雷、金塊およそ15瓩とともに『U80』に乗り込みました。


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『伊二九潜』上で『U80』を見送るチャンドラ・ボースたち。
中央の聯裝機銃の銃身の左に立つのがハッサン、その左の眼鏡をかけたのがチャンドラ・ボース。ボースの手前に立つのは第一四潜水隊司令官の寺岡正雄大佐。
『伊二九潜』は『U80』と別れたあと、5月8日にスマトラ島サバンでボースらを下艦させ、内地へと帰還。獨逸訪問の準備に取り掛かることになります。


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『伊號第三三潜水艦』を巡察中の山本五十六聯合艦隊司令長官。
『伊三三潜』は『伊二九潜』や『伊三七潜』と同型の潜水艦で、開戦後に竣工した新鋭艦でした。『伊三三潜』は昭和17年9月26日、トラック泊地内で修理中に浸水事故が発生し沈没。航海長である阿部鐡也大尉ら33名が殉職しました。
同年12月29日に引き揚げられた後、山本GF長官の巡察を受けました。


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幌筵泊地に碇泊する『伊號第一七一潜水艦』と特設潜水母艦『平安丸』。
昭和18年6月ごろのもので、キスカ撤収準備が潜水艦を中心に行なわれつつありました。『伊一七一潜』は6月12日、キスカ等へおよそ16噸の物資を届け、キスカ守備隊の一部およそ80名を収容し帰還しました。
『平安丸』は『伊一七一潜』をふくむ第一潜水戰隊の旗艦を務めています。
画像ではわかりにくいですが、『平安丸』には北方迷彩が施されています。


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『波號第一〇一』型潜水艦。
『波一〇一』型潜水艦は潜輸小とも呼ばれた輸送専門潜水艦で、『波號』からわかるように、排水量370噸という小型の潜水艦で、ろーちゃんこと『呂五〇〇潜』よりも小さい潜水艦です。
『波一〇一』型潜は輸送用のために魚雷兵裝はもたず、搭載武裝は機銃のみでした。昭和19年11月から終戦までに10艦が完成し、戦没艦はありませんが輸送特化のために目立った戰果もありませんでした。

輸送物件の搭載量は60噸と、小型艦ながらその搭載量は大型の輸送潜水艦である『伊號第三六一』型潜水艦に匹敵しました。
『伊三六一』型潜水艦は排水量1,400噸級の大型輸送潜水艦でしたが、搭載量は艦内62噸、艦外20噸でした。


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獨逸占領下の仏蘭西ロリアン基地に入港する『伊號第三〇潜水艦』。
『伊三〇潜』は昭和17年2月に完成した新鋭の巡潜乙型で、『伊二九潜』や『伊三七潜』と同じ『伊號第一五』型潜水艦の1艦です。
本艦は就役してほどなく、1回目の遣獨潜水艦に選ばれて出航。米英軍の厳しい哨戒をかいくぐってロリアンに到着。その後、無事に日本側勢力圏まで帰還することができましたが、そこで運が途絶えたのか、昭和17年10月13日、新嘉坡(シンガポール)港内で機雷に触れて沈没しました。


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昭和18年8月31日、第2次遣獨潜水艦作戰に選ばれて歐州へ派遣された『伊號第八潜水艦』。
上の画像は仏蘭西ブレスト基地に到着しつつあるところ、もしくはブレスト港を航行しているものですが、詳しいところはわかりません。

日本海軍は合計5回の遣獨潜水艦作戰を実施しましたが、沈没せずに任務を全うしたのは『伊八潜』だけでした。
第1次:『伊三〇潜』/『伊一五』型潜水艦
 歐州より帰還後、昭和17年10月13日に新嘉坡港内で触雷沈没。

第3次:『伊三四潜』/『伊一五』型潜水艦
 歐州より帰還後、昭和18年11月13日にペナン沖で英潜水艦HMS『トーラス』の雷撃により戰没。

第4次:『伊二九潜』/『伊一五』型潜水艦
 歐州より帰還後、昭和19年7月26日に呂宋(ルソン)島北方で米潜水艦USS『ソーフィッシュ』SS-276の雷撃により戰没。

第5次:『伊五二潜』/『伊五二』型潜水艦
 歐州へ向かう途中の昭和19年6月24日、大西洋上で米空母機の攻撃を受けて戰没。


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ブレストに碇泊中の『伊八潜』。
画像左の『伊八潜』の甲板上に設置されている二聯裝砲は、日本の伊號潜水艦の標準艦砲である14糎砲の二聯裝砲タイプで、日本の伊號潜水艦のなかでも『伊七潜』と『伊八潜』の2艦にのみ搭載された希少な潜水艦搭載艦砲です。

『伊八潜』は昭和18年12月22日に無事、呉軍港に帰還しその任を全うしました。
遣獨潜水艦作戰における『伊八潜』の総行程はじつに3萬5000海里(約6萬4820粁)に達しました。


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ペナン港を出港する『呂號第五〇〇潜水艦』。
この潜水艦は獨逸が283艦も完成させた『UボートIX』型の1艦で、獨逸は日本海軍にこの種の汎用小型潜水艦を増産させ、印度洋方面の通商破壊戰を肩代わりさせようともくろみました。印度洋における日本潜水艦の活動が活発になれば、獨逸は印度洋に配備した潜水艦を北大西洋に戻すことができ、米英軍の強力な對潜部隊に対抗できると踏んだからでした。
残念ながら、日本はこの種の潜水艦を量産することはありませんでした。


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ペナン港に並ぶ獨逸海軍潜水艦乗員。
シュネーヴィント大尉を艦長とする獨逸側回航要員の士気は旺盛で、日本側関係者を感服させました。日本への回航要員のほかに、『呂五〇〇潜』にはエルンスト・ヴェールマン大使、野村直邦海軍中将が便乗していました。

乗員の背後に《ロ500》と書かれた『U511』が写っています。この画像は昭和18年7月のもので、この時点では正式には『呂號第五〇〇潜水艦』とはなっていませんでした。


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昭和18年8月、米軍が撮影したキスカ島の日本海軍特殊潜航艇基地跡。
キスカ島には昭和17年7月、甲標的とも呼ばれた特殊潜航艇が6艇配備され、キスカ島をふくむアリューシャン方面の防備に就きました。配備後は悪天候と空襲で3艇が喪われ、残る3艇はキスカ撤収時に破壊・放棄されました。


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昭和19年8月17日、呉港外の大浦崎基地で『第五號輸送艦』に搭載準備中の甲標的甲型。
甲標的は真珠湾攻撃で目立った成果を挙げなかったものの、シドニー攻撃やマダガスカル島のディエゴ・スワレス攻撃、ガダルカナル島をめぐる攻防戦で幾度となく投入されました。


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昭和35年、布哇・真珠湾の湾口で沈没している特殊潜航艇を米軍が引き揚げました。
真珠湾攻撃時、特殊潜航艇は5艇が出撃しました。
岩佐直治大尉、佐々木直吉一等兵曹の乗った艇は真珠湾内で米驅逐艦に撃沈されました。
横山正治中尉、上田定二等兵曹の艇は攻撃成功の報告後、消息を絶ち未帰還。
酒巻和男少尉、稲垣清二等兵曹はオアフ島海岸に座礁、酒巻少尉は米軍の捕虜となりました。
古野繁実中尉、横山薫範一等兵曹の乗った艇と、広尾彰少尉、片山義雄二等兵曹の乗った艇は真珠湾口で米艦艇により撃沈されました。
この画像の特殊潜航艇は古野中尉もしくは広尾少尉の艇のどちらかです。

この甲標的は日本に返還され、江田島に置かれています。



壁|'-')ノよいお年を。
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