徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

【秋イヴェント≠本土沖】を史実的に見るっぽい

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

秋イヴェントは終わりました。
海月が去って、赤福………もとい、赤服のサンタさんが悪いコはいねがぁ~とプレ箱持ってお宮参りする今年最後から2番目のイヴェントが来るわけです。
今年最後のイヴェントはなにかだって?
Oh! 味噌か、ではありません。

冬コミでしょ( ゚ω゚ )

さて―――
秋イヴェントも終わったので、かますネタもないので、今回の前段作戰のモトとなった、史実戰について、カルくさくっとご紹介させていただきます。

もっともっと詳しく………といふ方は、wikiなりほかの戦史研究家のところへ行ってください☆ミ

ちなみに―――

艦隊作戰第三法
とは、本土に接近する米艦隊迎撃を目的とした作戰のことです。
戦前、日本海軍は米太平洋艦隊が空母と巡洋艦を主軸とした機動部隊をもって、高速を活かして本土周辺海域で奇襲的作戰を展開するだろうと予想していました。
聯合艦隊司令部は對米開戦が迫った昭和16年11月5日付けの機密聯合艦隊命令作第一號で、《對米國艦隊作戰第三法》を指示しました。
米機動部隊が蠢動する場合、先遣部隊(潜水艦部隊)、機動部隊(空母部隊)、第四艦隊(南洋部隊)と第五艦隊(北方部隊)を迎撃に当て、所要に応じて主力部隊(戰艦部隊)を支援に当たらせるといったものでした。


洋上補給
161209

東京空襲を目的とした米艦隊は、爆撃機B-25とそのクルーを載せて昭和17年(1942年)4月1日にカリフォルニア州アラメダ基地を出港しました。
出撃を急ぐあまり、B-25用の部品が不足するなど任務遂行に支障が生じかねないため、米海軍は飛行船『L-8』を派遣、太平洋上で飛行船から空母への洋上補給を行ないました。


荒天下の『ホーネット』
161209b

USS『ホーネット』CV-8は『ヨークタウン』型空母の3番艦で、開戦前の昭和16年10月に就役したばかりの新鋭艦でした。さらに1番艦『ヨークタウン』CV-5や2番艦『エンタープライズ』CV-6とくらべ、飛行甲板が8米ほど長い造りになっていました。
この飛行甲板の長さがB-25爆撃機發艦に有利に働くため、彼女がB-25搭載空母に選ばれました。


『ホーネット』上のB-25
161209c

陸軍航空隊が運用するB-25は、当然ながら空母からの發艦は想定していない構造、性能になっています。
米陸軍は空母から發艦させる双發爆撃機としてB-18、B-23、B-25、B-26の4機種を候補としました。このうち、B-18とB-23は最大巾がそれぞれ27.3米、28.1米と大きく、『ホーネット』の飛行甲板巾33米で運用するには巾がありすぎるとして除外されました。
B-26は新しい爆撃機で、2,000馬力級エンジンを2基積んでいました。しかし、航続距離がほかの3機種よりもかなり短いため落選しました。
空母はできうるかぎり日本本土に接近してから爆撃機を發艦させる予定でしたが、日本側に早期に発見された場合は、予定よりも遠い位置からの發艦となるため、航続距離は重要な要素でした。


『ホーネット』艦首で警戒準備中のF4F
161209d

米艦隊は『エンタープライズ』、『ホーネット』の2艦の空母を運用していました。B-25は格納甲板に下ろせないため、『ホーネット』の飛行甲板に16機全部が置かれていました。当然、空母機の運用はできなくなるため、上空直衛や對潜哨戒は『エンタープライズ』が担当しました。
『ホーネット』は格納甲板に自前の空母機を搭載しており、艦首カタパルトを用いて戰鬪機の發艦は可能でした。


『ホーネット』艦首で待機中のF4F
161209e

カタパルトを用いてF4F戰鬪機の發艦は可能ですが、飛行甲板はB-25でぎっしり塞がれているので、着艦回収は不可能でした。
『ホーネット』の艦首エレヴェータは下ろされたままのため、縦孔の周囲には手すりが用意されています。荒れる洋上を航行する際、この穴から転落する事故はときおり発生しました。


出撃前のB-25
161209f

画像の機体は第11號機、機体ナンヴァー40-2249、ロス・グリーニング陸軍大尉の乗機で、機体のニックネームは《ハラキリ》。
東京空襲任務のために、米陸軍はB-25Bに改修を加えた特別仕様機を用意しました。
この特別仕様機に施された改修は―――
▼胴体下面と後部機銃座を撤去し燃料タンクを追加
▼後部銃座跡に木製のダミー機銃を設置
▼ボイゴー式爆撃照準器を日本側に奪われないため撤去し簡易照準器と交換
▼爆彈倉に5ガロンのガソリン罐10個を増備


搭載前の500ポンド爆彈
161209g

B-25は改修により爆彈倉にも航続距離延伸のためのガソリン罐が置かれたため、搭載容量が低下しました。各機には500ポンド爆彈4發だけが搭載されました。


マーク・ミッチャー艦長とB-25クルー
161209h

東京空襲任務のために選ばれたクルーにとって、この作戰への参加は非常に栄誉なことでした。人員選抜の折り、ドゥーリットル中佐が候補クルーらに對し、「この極秘任務は、非常に重要で、危険で、しかも面白い。誰か、志願する者はいないか?」と問いかけ際、ひとりの辞退者もでませんでした。


爆彈に勲章をつけるドゥーリットル中佐
161209i

東京に落とす爆彈に取り付けられた勲章は、日本から勲章を授与された米軍人が真珠湾攻撃の後、《日本に付き返す》ために米海軍当局に届けていたものでした。
この行為に対し、機動部隊指揮官ウィリアム・フレデリック・ハルゼーJr.中将は、「諸君、利息を付けて、この勲章を返してやれ。成功を祈る」とクルーに伝えたといいます。


B-25發艦開始
161209j

『ホーネット』飛行甲板には、B-25用にガイドラインが左舷寄りに新しく引かれていました。そうしないと、主翼が艦橋にぶつかってしまうからです。
米軍は4月19日に發艦予定でしたが、日本側は予想よりも遠くに哨戒線を引いていたため、哨戒線に引っかかってほどない18日0815時に1番機ドゥーリットル中佐機が『ホーネット』から飛び立ちました。最後の16番機は1時間後の0916時に發艦しました。


『ホーネット』から發艦するB-25
161209k

短距離離陸の猛訓練を繰り返し、『ホーネット』の飛行甲板が長いとはいえ、長大な陸上滑走路での離陸を想定した爆撃機を發艦させるため、『ホーネット』乗員も労力を惜しみませんでした。
發艦前に、回転するプロペラに腕を切断された乗員もいました。
機体間隔を詰めすぎて、16番機は機首に15番機の翼が当たり、大きな穴が開いてしまいました。
4月18日朝、この日は激しい風が吹いていましたが、それがかえってB-25の發艦に有効に働きました。1番機は艦首をこえると大きく機体が沈んで見守る乗員らをひやっとさせましたが、1機の事故もなく、全16機が無事に發艦しました。


日本本土に達したB-25
161209l

画像の機体は、トラビス・フーヴァー中尉の2番機から撮影されたと思われるドゥーリットル中佐の1番機、機体ナンヴァー02344。
B-25は日本側に撃墜された機はないものの、全機が失われたために日本本土爆撃時の写真は少なく、13號機エドガー・マクエロイ機が横須賀上空で撮影した、海軍施設を爆撃している2枚だけが日本本土上空で撮影された唯一のものです。


日本軍の捕虜となったB-25クルー
161209n

16機のB-25は本土空襲後、1機が針路を誤って蘇維埃極東地域のウラジオストクに不時着し、乗員は拘束されました。
15機は大陸まで達し、11機はクルーが落下傘で脱出、4機は不時着しました。
80名のクルーのうち、戦死者は1名、行方不明が2名。
8名が日本軍の捕虜となり、3人が児童銃撃などの罪により処刑、1名が病死しました。
上の画像は東京へ移送中のフェロー中尉操縦の16番機副操縦士ロヴァート・ハイト中尉。


空襲下の横須賀に碇泊中の『朝潮』
161209m

4月18日0630時、日本本土東方およそ700海里(約1,296.4粁)で第三哨戒隊と交代し、本土に帰還するところだった第二哨戒隊『第二三日東丸』からの、[敵飛行機3機見ユ 針路南西 サラニ敵飛行機2機見ユ 0630]の情報を受けた日本側は、艦隊作戰第三法を発動できる態勢にはありませんでした。

このころの日本海軍は南方作戰がひと段落し、兵力部署の改訂が行なわれたばかりでした。
この時期の聯合艦隊の主要な配備状況は以下の通りでした。

主力部隊は新鋭艦『大和』を第一戰隊に迎え、第二戰隊の旧式戰艦とともに内海西部・柱島泊地に碇泊中でした。
母艦航空兵力は、第四航空戰隊の『鳳翔』と『瑞鳳』が内海西部にいましたが、『龍驤』と第三水雷戰隊は印度洋から本土に帰還途上にありました。

横須賀には第四戰隊の『愛宕』と『高雄』がいるだけで、しかも『高雄』は高角砲の換装工事中でした。
『金剛』型を擁する第三戰隊や新鋭の『最上』型で編成された第七戰隊も南方要域に展開中および印度洋から帰還途中でした。

第一航空艦隊はパラオで座礁しその修理中の『加賀』をのぞいた5艦が、印度洋作戰を終えて台湾沖を本土へ向けて帰還途上でした。

第四艦隊はすべての艦艇が南方に展開中で、第五艦隊は一等巡洋艦『那智』が室蘭、第二一戰隊が北海道の厚岸に在泊していました。
第六艦隊(部隊名:先遣部隊)は所属の主力潜水艦はその大半がトラック泊地やペナン基地に展開中で、第三潜水戰隊の一部が本土東方700海里の哨戒線へ移動中でした。

このため、米空母部隊とその搭載機に即応できる戦力はわずかな潜水艦隊と基地航空部隊の第二六航空戰隊だけでした。

それでも、聯合艦隊は對米國艦隊作戰第三法を發令し、各部隊が動き出しました。

發令前に第五艦隊が一番槍で動き出しており、哨戒隊を支援する特設巡洋艦『粟田丸』、『淺香丸』に敵機動部隊への接触が命じられ、その援護のために『那智』、第二一戰隊の『木曾』、『多摩』が出撃しました。

横須賀には近藤信竹第二艦隊司令長官が在籍しており、近藤長官は第二艦隊旗艦『愛宕』を主軸に前進部隊を編成し、横須賀を出撃しました。
横須賀から『愛宕』、『高雄』、水上機母艦『瑞穂』、第四驅逐隊の『嵐』、『野分』が出撃。
呉からは『羽黒』、『妙高』、『神通』が前進部隊所属として出撃。
三河湾に碇泊中の『摩耶』も前進部隊配備となって同灣を出撃、カムラン灣から帰投中の『鳥海』、訓練を中断した『祥鳳』も前進部隊配属となりました。

第一航空艦隊も米空母撃滅を命じられて針路を東に変え、第三潜水戰隊に米空母捕捉と撃破が命じられました。
トラック泊地へ移動中の巡洋艦『香取』、水上機母艦『千代田』といった小部隊にも、米空母捜索が命じられました。

しかし、残念ながらB-25を發艦させたあと米空母部隊は速やかに東に針路を変えて退却していったため、日本艦隊の出撃は空振りに終わってしまいました。

B-25は東京、川崎、横濱、横須賀、名古屋、四日市、神戸を空襲し、少なからぬ被害を日本側に与えました。

東京では早稲田大学講堂、西大久保の住宅地、赤羽方面が爆撃されました。
川崎では日本鋼管が爆撃され、横濱では市内が機銃掃射されました。
横須賀では鎮守府裏手、工廠機械工場、空母へ改造中の『大鯨』が爆撃されました。
名古屋では東邦化学、三菱の工場が爆撃され、四日市では第二燃料廠が銃撃されました。
神戸市では兵庫区が爆撃されました。

これら一連の空襲被害は、死者45名、負傷者153名、全焼家屋160、半焼家屋129、全壊家屋21、半壊家屋21に達しました。



壁|'-')ノよいお年を。
関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメント投稿

管理人にだけ読んでもらう