徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

6月15~16日の防空戰鬪

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

すでにたっぷり日数も経過しておりますが、6月15日、16日は全日本的にB-29本土初空襲の日です、ごきげんよう。

といふわけで、今回の四方山話は昭和19年(1944年)6月15日から16日にかけて戦われた、本土防空戰における初の対B-29戰鬪についてご紹介します。

艦これ基地航空隊で、空母機でない陸軍機の三式戰が登場しているので、今後も陸軍機の追加はあると予想できます。
ifイヴェント的に、本土空襲をもくろむ深海棲艦高々度爆撃機に対する邀撃戰鬪。その策源地である飛行場姫への突入撃滅。敵が基地化をもくろむ島嶼部への逆上陸戰―――
そういったことも期待できますね。

実行はされませんでしたが、昭和19年6月の米軍サイパン島上陸に応じ、海軍は増援兵力および物資を載せた艦隊をサイパン島に送り込む計画を立てていましたしね。

それでは、本土防空戰についての駄文拙文、流し読み程度にでも目を通してやってくだしあヾ('ヮ'*)ノ


◆電探情報

蒸し暑さを感じ始めた昭和19年6月15日、この日も山口県下関市の小月飛行場(現:海上自衛隊小月基地)に展開する飛行第四戰隊では、ちかい将来予想される米軍新型爆撃機による本土空襲に備え、1800時より夜間訓練を開始していた。
第四戰隊は昭和15年から北九州の防空任務に就いており、昭和19年の5月からは夜間専任部隊に指定されてもいました。

第四戰隊の裝備機は、双発複座の二式複座戰鬪機35機。
川崎航空機の開発した長距離侵攻用戰鬪機で、機体番號キ45改。屠龍の名でも知られている。
新基尼(ニューギニア)方面で戰鬪機や爆撃機として使用され活躍していたが、本機がその真価を発揮するのは本土防空戰においてでした。
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飛行第四戰隊第二中隊の二式複戰甲型/昭和19年春ごろ

本機は發動機を2つ備えた関係で出力が單發機より大きく、重武装を実現している。
その最たるものが、歩兵砲を改造した37粍機関砲ホ203で、このほか斜め上向きに20粍機関砲を2門搭載している。
この上向き砲は、操縦席の前席と後席のあいだにあった燃料槽を撤去し、30度の角度をつけて搭載し、大型爆撃機の下方を平行飛行しながら射彈を送り込むことを狙ってのもの。
海軍の夜間戰鬪機《月光》が同様の斜銃を装備し、南方戦線でB-17を相手に大きな戰果を挙げている武裝であった。

米軍の新型爆撃機が本土を襲うとなると、進撃途中で見つかりにくいうえに、目標付近の對空警戒が鈍く、戰鬪機が活動しにくい夜間になることが予想された。
昭和19年当時、日本陸海軍戰鬪機隊の機上電探は開発途上にあり、頼りになるのは空中勤務者の肉眼だけであった。
しかし、操縦員のほかに機上通信を担当する同乗員を載せられる二式複戰では、地上からの無線指示を受けて活動することが可能で、さらに簡単な航法も行なえるので、当時は夜間戰鬪にうってつけの機体であった。

ちなみに―――
海軍ではパイロットなど航空機に乗り込む乗員を搭乗員と呼ぶが、陸軍では空中勤務者と呼んでいた。

2200時ごろには夜間訓練を終えた二式複戰が、翼端燈を点けながら1機また1機と小月の飛行場に帰還してきた。
飛行場の一角には、夜間の緊急出動に備えて、濃緑の斑迷彩を施した二式複戰8機が並べてある。これは警急中隊と呼ばれ、夜間戰鬪可能な伎倆甲の認定を受けた熟練勤務者が交代で搭乗する。
この日の警急中隊の指揮官は第一隊長小林公二大尉と第二隊長佐々利夫大尉で、佐々大尉は戰隊本部の待機所仮眠室で仮眠中。小林大尉は飛行場営門ちかくの空中勤務者用宿舎で、南方の戦況に気をもんでいた。

南方の戦況。
それは―――
6月15日未明、空母機による大空襲と艦砲射撃のもと、米海兵隊の大部隊がマリアナ列島のサイパン島に上陸。
夕刻1730時には本州、四國、九州に警戒警報が発令され、陸海軍の各基地の緊張は高まっていた。
サイパン侵攻を援護するため、米機動部隊が本土近海に進出することが予想されたほか、この年の春ごろから大陸奥地に進出が始まったと伝えられる米軍新型爆撃機による攻撃の恐れもあった。

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昭和19年当時の本州太平洋岸對空監視体制/地図はクリックで拡大可

米機動部隊の北上に関しては、海軍が本土南方に索敵機を繰り出しており、その動向を把握できる体制が整いつつあり、空母9艦を主力とする第一機動艦隊も"あ"號作戰に基づいて行動を始めていた。

大陸からの爆撃機については、大陸に展開している陸軍第五航空軍および支那派遣軍が逐一、情報を内地に送る手はずになっていた。

2331時、福岡市にある西部軍司令部に無線連絡が入る。
それは済州島南西部に位置する摹瑟浦(もしっぽ)の電波警戒機乙からの緊急電であった。

『彼我不明機290度60粁および120粁付近を東進中』

西部軍司令部は緊張に包まれた。
ほぼ西方から済州島へ向かっているので、もしこれが大陸奥地を飛び立った爆撃機であるなら、北九州が目標の公算が大きい。
もちろん、友軍機の可能性もある。
長崎県大村基地の海軍哨戒機が、帰還時にとるコースに似ているからだ。

この夜、当直にあたっていた羽場光中佐は第一報を受けて、海軍機ではないかと考え、済州島付近で活動中の航空機があるか関係各部隊への照会をはじめた。
15分後、摹瑟浦から再度の入電。

『彼我不明機 済州島北50粁』

非常事態の可能性があるため、西部軍参謀長の芳仲和太郎少将ら幕僚も司令部に集まってきた。
この探知目標が米軍機であれば、九州空襲の恐れがある。
日本本土は開戦から間もない昭和17年4月18日の、ジェームス・ドゥーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機による帝都空襲以後、今日まで空襲を受けたことがない。
この探知目標が米軍機であれば、それは新型爆撃機もしくは長距離仕様の既存の爆撃機であり、ただちに邀撃態勢を整えねばならない。
敵爆撃機による攻撃意図を鈍らせるには、第一回目の邀撃戰鬪で大きな戰果を挙げる必要がある。

空襲警報を出すべきと主張する幕僚がいるが、問題があった。それは北九州最大の最重要防護目標である八幡製鉄所。
空襲警報を出せば、決まりにより溶鉱炉の火を落とすことになる。しかし、もし誤報であれば………
炉を再稼働させるために莫大な費用と時間がかかり、國内銑鉄生産量の3割を担う製鉄所の機能は再稼働まで失われてしまう。

西部軍司令部が空襲警報発令に慎重になっているあいだにも、済州島の電探基地からは情報が次々に送られてくる。
日付がかわり、6月16日0008時に、

『済州島東20粁に4箇編隊』

0015時に入電したのは、

『済州島西方150粁から170粁に探知目標。一部は旋回中』

電波兵器の要である真空管の性能の劣悪さから、精度の高い観測は不可能な陸軍の電波警戒機乙だが、これほどの探知情報から不明機は相当数にのぼっていると予想された。
西部軍司令部ではまだ警報発令に二の足を踏んでいた。

大陸から飛来する爆撃機については、支那派遣軍から事前に情報が入るはずだった。しかし、大陸からは一切の情報が来ない。
大陸奥地を飛び立った爆撃機は、どうやっても支那派遣軍の活動域上空を通過しなければならない。当時はまだ、多数の航空機へ燃料を給油する技術と空中給油機は存在しないため、爆撃機は自前の燃料でやりくりする必要があった。そのため、支那派遣軍占領地を大きく迂回してやってくることはできない。
漢口を中心に11箇所の電探基地を持つ支那派遣軍と、常時偵察機を出し、敵の無線通信を傍受する特種情報部を持つ第五航空軍から連絡が来るはずなのだ。

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昭和19年当時の九州對空監視体制/地図はクリックで拡大可

0015時には済州島以外の電探基地からも目標捕捉の情報が入り始めた。
長崎県平戸~対馬の厳原~五島列島の福江を結ぶ電波警戒機甲からの情報。

『不明機の干渉音を認む。東進中なり』

0020時には、済州島の電探基地は捕捉目標の飛行速度の算出を行ない、時速400粁程度と伝えてきた。
この速度は哨戒機が哨戒中や帰還時に出す速度ではない。

このころには、九州や朝鮮の各基地への照会も終わり、捕捉目標は友軍機ではないという結論に達していた。
捕捉目標は米軍機であり、大陸奥地を飛び立ち、支那派遣軍と第五航空軍の警戒監視網を突破した爆撃機であるのは間違いなかった。
0024時、西部軍は空襲警報を発令した。

※電波警戒機甲
昭和15年に陸軍が開発した電波兵器。ドップラー効果を応用したもので、送受信所間に流された電波の直接波と、空中目標に当たって戻る反射波との干渉により唸りを生じさせ、侵入機を探知する。
唸り―――干渉音―――は、航空機が送受信所間を結ぶ線(警戒線)に近づくか横切るかしたときに出て、その音にちなんでワンワン方式と呼ばれた。
目標までの距離が測れないので、正確にはレーダーではないが、実用価値はそれなりにある兵器であった。
量産型は4型式が生産され、最大のものは出力400ワットで警戒線長350粁、最小は出力10ワットで警戒線長80粁。
探知範囲が狭く、目標の位置や規模を知ることは不可能で、また取り扱いも不便で設置場所も限られるため、海軍は試作にとどめ、おもに陸軍が主として運用した。

※電波警戒機乙
昭和16年10月に陸軍が完成させた、指向性アンテナを用いてパルスを応用したメートル波レーダー。海軍が千葉県勝浦に設置したメートル波レーダーである一號一型電波探信儀と同じ要地用對空捜索電探で、昭和17年6月に千葉県銚子に第一號機が設置され、運用が始まった。
Aスコープと呼ぶブラウン管上に送受信パルスと距離目盛が映り、距離と目標の大小を判断でき、方向探知はアンテナを回転させて感度の最も高い位置を見つける最大感度方式を採用している。
探知距離はおよそ300粁で、精度は高いとは言えないが、しかし実用に足る性能を持つレーダーであった。


◆第四戰隊出撃

北九州の防空を担当するのは、防衞総司令部西部軍管区の指揮下にある第一九飛行團で、南方帰りの古屋健三少将が指揮を執っている。
飛行團は小月基地に司令部を置き、おなじ小月基地に展開する飛行第四戰隊と飛行團司令部偵察中隊、福岡県芦屋基地の飛行第五九戰隊を掌握している。
第四戰隊は昭和15年から防空任務に就いていたため戰鬪損失の被害もなく、裝備する35機の二式複戰も常時25機が稼働状態にあった。
空中勤務者についても、夜間戰鬪可能な勤務者15名をふくむ相当数の熟練勤務者をかかえ、南方で鹵獲したB-17を用いた対大型機襲撃訓練を重ねるなど、その錬度は内地の飛行戰隊でも指折りであった。

一方、第五九戰隊は地獄の新基尼戦線から戻ったばかりで、実戦経験を持つ勤務者はマラリアなどの療養中で、若手を中心に部隊は再建途上にあった。新鋭の三式戰を25機装備していたが、發動機の不調から稼働機数は10機に満たず、夜戦可能な勤務者と機体はわずか4機しかなかった。

九州方面にはこのほか、新編成の第一六飛行團指揮下の飛行第五一戰隊が山口県防府基地、飛行第五二戰隊が福岡県芦屋基地に展開していたが、両戰隊は最新鋭の四式戰鬪機を裝備しているものの、南方派遣へ向けて錬成途上で、防空戰鬪命令は受けていなかった。

九州地域には西部高射砲集團が展開し、主力の31箇中隊が北九州に展開していたが、裝備するおよそ150門の高射砲の大半は旧式の八八式7糎野戦高射砲(実口径75粍砲)が大半で、この砲は最大射高9,100米、有効射高およそ7,300米と性能が振るわず、野戦防空としては有効ではあったが、対B-29用としては明らかに性能が不足していた。
射撃用レーダーである電波標定機もわずか5基ほどしか配備されておらず、訓練も十分には行なわれていなかった。

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飛行第四戰隊所属の二式複戰丙型
機首から突き出ているのは37粍機関砲ホ203


空襲警報発令を受け、古屋飛行團長は0027時、飛行第四戰隊長の安部勇雄少佐に戰鬪機発進を命じた。
安部戰隊長はただちに警急姿勢―――全機がすぐに発進可能な状態―――への移行を伝え、飛行場各所に取り付けられた拡声器からは警急中隊発進が伝えられる。

警急中隊の8機の二式複戰には整備員がとりつき、燈火管制のためヘッドライトに赤い布をかぶせた始動車が、發動機のスピナーに始動機を接続させ、プロペラを回転させている。
小林大尉はすでに機上の人となり、発進準備を素早く済ませる。
樫出勇中尉は同乗員の田辺軍曹に無線の調子を確かめさせている。
佐々大尉は操縦席に飛び乗っているが、同乗者がやってこない。夜なので佐々機を見つけられないのかもしれない。胴体下面の20粍機関砲の弾倉装着は後席でなければできない。
発進までもう時間がない。佐々大尉は地上員に合図し、代わりに弾倉を装填してもらう。
警急中隊の8機は0052時までに小月基地の滑走路を離れた。夜間訓練を重ねてきただけあって、暗夜の緊急発進にもかかわらず、全機が無事、離陸していった。

中隊は4機ずつの2隊にわかれ、1隊は小林大尉が、もう1隊は佐々大尉が指揮を執った。
訓練時には点燈している翼端燈と尾燈は警戒のため消してある。そのため、いつものような編隊飛行は無理だった。各機ごとの單機行動を採らざるを得ない。
出撃機の操縦員は小林大尉、佐々大尉、樫出中尉、木村准尉、内田曹長、森本曹長、村田曹長、藤本軍曹と、夜間飛行可能な腕っこきばかりであったが、それでも夜間の編隊行動は困難であった。

飛行高度は2,000~4,000米。待機空域は小林隊が倉幡(小倉・八幡)方面、佐々隊が関門海峡東側と決められている。

上空から眼下をみやれば、燈火管制のため墨一色。どこにも明かりは見えない。
月があればある程度判別はつくのだが、今夜の月の出は0055時と遅い。わずかな星明かりと、これまでの訓練で覚えてきた土地勘だけが頼りだ。
さいわい、風はあまり強くないので機体が流されることがないのが救いだ。

そのころ、小月基地に1輛のトラックが突っ込んできた。
トラックから飛び降りたのは西尾准尉。この夜は非番で外出していたのだが、空襲警報を聞いてあわてて帰隊したのだった。
熟練者が多い第四戰隊でも夜間戰鬪可能な勤務者は少ない。ひとりでも欠ければ戦力に響く。
自身の待機空域は把握している。細かな情報は飛び立ってから聞けばいい。
西尾准尉は夏服の上に飛行服を羽織り、待っていた同乗員の原田曹長とともに昼間用の二式複戰に飛び乗り、先発隊のあとを追ってただ1機、小月の滑走路を飛び立っていった。


◆会敵

佐々大尉は関門海峡方向へ機体を上昇させていく。緊急発進で基地を飛び立ったため、僚機はどこにいるか判別がつかない。夜間ゆえに水平飛行を維持する目安が見つからず、飛行姿勢の保持に苦労する。

『来襲機は対馬東方海上上空を旋回しあるもののごとし』

飛二號無線機に一九飛團司令部からの情報が断続的に入ってくる。
日ごろから無線機の整備に力を入れているおかげで、この夜の出撃でも無線機の感度、明度は良好だ。
本当に敵機は来るのか………そんな疑問が頭から離れない。
旋回しつつ上昇することしばし―――
突如、無線機の受聴機にジャズ調の軽快な音楽が流れてきた。
深夜の放送は行なわれていないし、このような敵性音楽を流すことは禁じられている。
敵編隊から流れてくるのか、敵の基地の放送だろうか?
佐々大尉は感じ取った。
今夜は本当に敵機がやってくる、と。

一方、倉幡地区上空の小林大尉、樫出中尉らは、一定の高度まで上昇すると海の方角へ機首を転じ、37粍機関砲の試射を行なった。
搭載弾数はわずか15發しかないので、試射は1~2發にとどめる。弾丸は貴重だが、イザというときに故障で発砲できなければ意味がない。この機関砲が搭載され始めたころはよく故障していたのだ。
引き金を引くと、ドンという音とともに機首から青白い炎が噴き出し、機体が一瞬止まるような反動を受けた。その反動の強烈さこそ、複戰乗りにとって頼もしい衝撃だった。

今夜、出撃した8機のなかで、実際に敵機とやりあったことのある勤務者は樫出中尉しかいなかった。
ノモンハンでの空戦経験を持つ樫出中尉以外の、小林大尉をはじめ第四戰隊の勤務者のほとんどは、連日連夜の猛訓練で実戦未経験というハンデを補っているにすぎなかった。

一九飛團司令部からの情報が、目標機の接近を的確に伝えてくる。敵機群は意を決したかのように要地へ向かって進撃している。

『六連島北方に爆音』

六連島は倉幡地区からおよそ10粁。あとわずかで敵機は侵入してくるはずだが、いっこうに照空燈が光らない。
照空隊はなにをしている! 樫出中尉は焦りを感じていた。目視のみではとうてい敵機は捕捉できない。

関門海峡の東側で、佐々大尉は旋回を続けていた。
海峡上空で待機しないのは、照空燈を誘導する聴音機の聴測をジャマしないためだ。

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聴音機は爆音を捉えて方位と高度を測定する

敵機接近中の情報に続いて、地上にいる安部戰隊長の声が入った。

『命令。敵機は要地上空に侵入。各機は攻撃すべし!』

その瞬間、夜空を切り裂いて、150糎照空燈の光が走った。光の線はみるみる数十条に増えていく。その光芒のなかに、1機の大型機が浮き上がった。
日本軍本土防空戰鬪機隊が初めてB-29を捕捉した瞬間であった。時に6月16日0111時。

おあつらえむきに、敵機の高度は佐々機より1,000米以上低い。
2本目、3本目の照空燈がこの敵機にからみつく。位置は小倉北方。

「佐々、アカ発見!」
アカとは敵機を意味する符牒。ほかにも四戰隊は松屋、高度はヤマ、八幡は饅頭、下関を雲丹などと決めてあった。

敵機の進行方向を見定めると、佐々大尉は發動機を全開にして機首をめぐらし、降下接敵に移った。地上から撃ち上げられる高射機関砲の曳光弾が噴水のように押し寄せてくるが、みな、途中でタレてしまう。怖いのは高射砲による味方撃ちだ。高射砲弾に曳光弾はないので、いきなり炸裂するから避けようがない。
佐々大尉は20粍機関砲の上向き砲攻撃に決めて、敵機の後下方にもぐりこもうとした。
操縦席を覆う風防硝子の頂上にポッと光の輪が点る。上向き砲用の照準環で、計器盤上についた一〇〇式射爆照準器から反射投影させているものだ。
二式複戰はいきおいよく降下して敵機を追う。しかし意外にも敵機の速度の方が速く、ともすれば引き離されがちになる。これでは十分に射撃距離を詰めることができない。このままぐずぐずしているとこの敵機を取り逃がしてしまう。

「佐々、ただいまより第一撃!」
意を決した佐々大尉はそう地上へ送信するや、操縦桿に付いた上向き砲發射釦をグイと押した。
敵機の尾部から曳光弾がサーッと向かってくる。佐々大尉は二撃、三撃と撃ち続けたが、どうしても距離が縮まらず、ついに照空燈圏外へ抜けられてしまった。

しかし、この敵機を別の照空隊が八幡南方で捕捉した。
すかさず攻撃に入ったのは、1機だけで遅れて離陸した西尾准尉だった。准尉が高度をとったとき、すでに敵機は北九州上空にあった。
西尾准尉は小倉南から敵機に向かってまっしぐらに突進。機首裝備の37粍砲を発射した。照空燈の明かりを反射する敵機の外鈑を目にして離脱する。
撃破か? 西尾准尉がそう思うと同時に、左耳の伝声管から後席の久保伍長の声。
「敵機、照明弾を投下します!」

ひとつ、ふたつ………
敵機の腹の下から投下されたまばゆいばかりのフレアが、いくつもゆっくりと地上へと落ちていく。それまで明かりひとつ見えなかった倉幡地区が、一気に浮かび上がった。
敵機は照明弾を投下後、南西方向へ去っていった。この敵機は爆撃編隊に先行して侵入し、照明弾で目標を照らすパスファインダー(先導機)だった。
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◆深夜の防空戰鬪

佐々大尉は攻撃後、待機空域の関門海峡東側へ戻ろうとしたが、若松上空に差し掛かったあたりで、六連島方向から侵入してくる敵機2機を発見した。その敵機は、間隔を大きく開けて飛行しており、編隊を組んでいるようには見えなかった。
今度こそ! と巧みに機を操って後下方にもぐりこみ、ふたたび上向き砲からの射撃を浴びせた。
二式複戰のオレンジ色と敵機の青い曳光弾の流れが夜空に交差する。
数秒後、敵機の右翼内側發動機から細長い火焔が噴き出した。火は見るまに広がっていく。
佐々大尉は火焔に浮かび上がる敵機を観察した。写真でよく見知っているB-24によく似ている。
もう一撃、と思い至ったが、敵機は照空燈の光芒から逃れていってしまった。
「佐々、1機撃破。八幡北方、高度2,000」

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米陸軍爆撃機コンソリデーテッドB-24リヴェレーター

手負いの敵機は門司南方上空にいた森本曹長の目に留まり、小倉付近で攻撃を行なったが、またも照空燈の照射圏外へ脱出していった。
森本曹長は小月の戰隊本部に、「敵機はB-24なり」と報告を送った。

遭遇し、しかし取り逃がしたり撃破にとどまっていた戰鬪も、0140時ごろについに初の撃墜戰果が挙がった。

最初に撃墜を報じたのは、芦屋南方で待機中の木村准尉であった。
木村准尉は八幡上空を飛ぶ敵機を確認し、距離200米にまで接敵し、37粍砲の射撃を開始した。
ドン………ドン………と間をおいて発射される37粍砲。照準器からたちまち巨大な胴体があふれだす。木村准尉はさらに肉薄し、目測50米ほどにまで接近した。
そのとき、敵機は逃れるためか、急な角度で上昇に移った。
木村准尉は追躡し、さらに37粍砲を撃ち続ける。發射速度の遅さがもどかしい。
ぎりぎりまで食い下がって急反転し、下方へと避けた木村准尉は、敵機が大きく傾き、すぐに機首を下げてコントロールを失ったまま落下していく姿を確認した。
「木村、木村、1機撃墜 敵は錐揉み状態となって落下中!!
この無線電話は第一九飛行團司令部、第四戰隊本部だけでなく、在空の二式複戰全機に響きわたった。

木村か、よくやった―――
八幡上空にいた小林大尉はこれを聞いて、いっそうの戦意がみなぎるのを感じた。小林大尉はいましがた、西尾准尉と1機ずつ攻撃したばかりだった。
照空燈の照らす範囲は限られており、そのうえ敵機の速度が大きいので、後方から追いかけての攻撃では致命傷を与える前に照空燈圏外へ逃げられてしまう。
第2の目標を探していると、おあつらえむきに照射を浴びた敵機がいた。
「あいつをやるぞ!」
伝声管で後席の田川准尉に伝え、小林大尉は後上方からまっすぐ降下して敵機の腹の下に潜り込んだ。その勢いで機首を上げてぐっと近づき、50米の至近距離から左主翼付け根に37粍砲彈を撃ち込んだ。
一瞬、体当たりかと思うあたりで急旋回し、後方を振り返ると乗機はまばゆい閃光につつまれた。
どうやら燃料槽を直撃したようだ。敵機は大爆発を起こし、空中分解した。いくつかの炎の塊になって、敵機は北九州の大地へと落ちていく。

敵機の爆撃が始まった。
倉幡地区の各所に火の手が上がった。
そのまわりから、照空燈の白熱色の帯が放たれ夜空をはしる。
上空で断続する敵味方の射撃音をかき消すように、高射砲、高射機関砲がうなりをあげる。
そのなかを、各機から發する電波が飛び交う。

「樫出、アカ発見。大型4發機。若松上空、高度4,000」
「藤本、八幡上空。ただいまより第一撃!」
「樫出、1機撃墜! 遠賀川上空、敵尾翼マークはFなり」
「西尾、下関上空。高度2,500、アカ発見」
「洞海湾上空の高射砲の射撃は止め!」
「西尾、敵左發動機に有効彈。追撃中」
「木村、これより帰還」
「西尾、1機撃墜確認! 蓋井島上空」

やがて燃料、彈藥の欠乏した二式複戰は、0200時ごろから1機、また1機と小月基地に着陸し始めた。
滑走が終わらないうちから整備員が駆け寄り情況を尋ね、すぐに補給・整備作業に取り掛かる。
同時に、待機していた板倉中尉、小松准尉、野辺軍曹らが戦力の不足を埋めるべく舞い上がっていく。

その後も敵機の侵入は続いた。
編隊を組まず、六連島、藍島方向から單機ずつ数分おきにはいってきたため、防空戰鬪は0300時をまわっても続行された。
ようやく敵機が姿を消したのは、戰鬪開始から2時間以上たった0330時ごろだった。

敵編隊の引き揚げていく様子は、来襲時と同じく、各地の電波警戒機から報告された。
対馬南端の豆酘から、

『西方に脱出する敵を捕捉』

玉之浦からは、

『済州島南150粁、脱出する敵を捕捉』

済州島の摹瑟浦からの、

『脱出する9目標を0500、西方150粁まで追跡す』

を最後に、以後は感知不能になった。


◆B-29の日本本土初空襲

この夜、北九州に姿を見せたのは、ケネス・B・ウルフ准将が指揮をとる第20爆撃兵團第58爆撃航空團に所属するB-29であった。
支那大陸奥地の成都には昭和19年6月15日の時点で83機のB-29が展開しており、このうち作戦行動可能な75機すべてが日本本土初空襲に動員された。
記念すべき日本本土直接攻撃を取材するため、8名の従軍記者とカメラマンも同乗した。

発進は6月15日1516時。
パスファインダー任務の2機のB-29を先頭に、B-29はおよそ2噸の爆彈を機内に抱いて離陸を開始した。
しかし、順調にはいかなかった。
7機は故障により離陸中止。
離陸には成功したものの、4機が故障により基地に引き返した。
離陸直後には1機が墜落した。
最終的に、北九州へと到達できたのは63機であった。

米軍にとって幸運であったのは、飛行ルート上の地上の天候が悪化していたことである。
日本陸軍第五航空軍が司令部を置く漢口一帯は激しい雷雨に見舞われており、日本側は上空はるかをB-29が飛行しているなど思いもよらなかった。
ただ、少数の米軍機が各地に飛来していたため、空襲警報は発令されていた。しかし、米軍機は雲下にはおりてこず、雲上を飛び去っていった。

目標の八幡に近づくにつれて、B-29搭乗員たちの顔がひきつっていく。日本本土初侵入に対する恐怖と闘志がまじりあい、機内には緊張感がみなぎっていた。誰も、ほとんどしゃべらない。
燈火管制で闇夜に沈む目標の上空にパスファインダーが入ろうというとき、地上から一斉に光の矢が放たれた。
爆撃針路に入る後続のB-29も光の束につつまれる。機内が真昼のように明るくなる。高射砲弾がそこかしこで炸裂し始めた。
地上は明かりひとつないうえに、煙霧に覆われている。
目視爆撃は不可能。レーダー照準に切り替える。
下方をついとかすめていくのは、日本の夜間戰鬪機だ。1秒が1分に、1分が1時間にも感じられる。

各機は爆弾を投下後、スロットルを全開にして戦場離脱にかかった。
B-29は照空燈から逃れようと必死の機動を試みる。上昇し、下降し、左右へ旋回する。
やがて―――

機内がもとのほの暗さに戻ると、機長の弾んだ声が搭乗員のレシーバーにひびいた。
「ついに逃げ切ったぞ!」
東支那海にでた。もう安全だ。
あとは成都の基地へと戻るだけだ―――

B-29による本土初空襲は、しかしその成果は微々たるものでしかなかった。
出撃した63機のうち、3機は航法ミスで目標に到達できず、7機は爆撃システムの故障により、海上に爆弾を投棄した。
目標の八幡製鉄所に投彈できたのは47機のみ。このうち32機は燈火管制と煙霧のためレーダー爆撃を実施した。
爆撃高度は2,400~3,000米、5,200~5,400米の二層だった。
邀撃に出た日本機により5機が撃墜され、最終的な損失は計7機。戦死者は55名。
出撃機に対する損失率は10%を超えた。この損害は決して少ないものではなかった。

6月18日、米軍は高々度写真偵察を実施し、爆撃判定を行なった。
その結果にウルフ司令官ら幕僚は失望した。
製鉄所はたった1箇所が破壊されただけで、生産に打撃を与えたと言えるものではなかった。

それでもウルフ司令官は、「日本産業機能の組織的破壊の幕開け」との声明を出した
華盛頓(ワシントン)ではこのニュースが上院下院で読み上げられるあいだ、國会の議事は停止された。
本土攻撃を伝える新聞の全段抜きの大見出しは、ノルマンディ海岸の獨逸軍陣地突破を伝えるニュースと同等の扱いで全米に報じられた。
ノルマンディを訪れていたヘンリー・アーノルド大将も声明を出した。
「B-29による第一撃は真に全世界的な航空戰の開始である。米國は航空兵力としてまだ知られていなかった、最も大きい打撃を与えることのできる、きわめて精巧な最も恐るべき航空機を持ったのである」

しかし、こういった強気の声明とは裏腹に、B-29の大規模本格空襲はつづけて実施されなかった。
成都に蓄積した燃料と彈藥は不足しており、成都への輸送・補給もままならなかったからである。
成都のB-29が次に活動を始めるのは半月後の7月7日であり、しかも出撃機はわずか18機でしかなかった。

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成都近郊にある新津、彭山、広漢などの基地拡張に支那人労務者延べ33萬人が動員された


◆第五航空軍の追撃

6月16日0430時ごろ、漢口の第五航空軍司令部は、内地からの北九州空襲の連絡を受けて、激しく揺さぶられた。
大陸奥地のB-29の動きを察知し、急変があれば支那派遣軍を通じて、ただちに陸軍中央へ伝達するのが役目であったからだ。とりわけ、西部軍とは互いに連絡を密にし、敵機の侵入前・侵入後の対処を十分に行なうという協定も結んでいた。

B-29の帰途を迎え撃つべく、そのルートや在空状況を把握するために第五航空軍は一〇〇式司令部偵察機を発進させた。同時に、一式戰鬪機に発進準備、敵の不時着基地破壊のために九九式雙發輕爆撃機に爆裝を命じた。

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飛行第六四戰隊の一式戰鬪機二型/戰隊長・宮辺英夫大尉機とその列機

一〇〇式司偵はそれぞれの目標を求めて索敵し、一式戰の一部も情報を得たのち、B-29の帰還コースへ向かったが、華中方面の天候は悪化しており、邀撃も索敵も失敗に終わった。
ちなみに、一式戰は日本軍機で最初にB-29と交戦した機体である。
北九州爆撃前の昭和19年4月26日、成都へ向かうB-29を緬甸(ビルマ)方面で活動中の飛行第六四戰隊、第二〇四戰隊の一式戰12機が捕捉。このうち、六四戰隊長・宮辺大尉率いる6機が攻撃に参加し、およそ45分間で12回の攻撃を仕掛けたが撃墜には至らなかった。

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飛行第七五戰隊の九九式雙發輕爆撃機二型

湖北省老河口方面へ向かった独立飛行第五五中隊の一〇〇式司偵は、さらに北方へと足を伸ばし、河南省内郷基地へと向かった。
0930時ごろ、滑走路上に銀色の4發機を発見した。
一〇〇式司偵は飛行場を一航過して写真を撮り、急いで漢口に戻った。現像してみると、あきらかに不時着した米軍新型爆撃機である。
漢口に待機していた一式戰と九九式雙輕は内郷へ向けて急遽、発進した。

この捕捉したB-29は、エンジンをやられて不時着したロバート・ルート大尉の乗機であった。
飛行場の支那兵は日本軍機がくると騒ぎ、ルート大尉は機体を隠そうとしたが、内郷飛行場にはB-29を隠せる掩体壕はなかった。
日本軍機が来る前にエンジンを直して離陸しようとしたが、間に合わなかった。
来襲した日本軍の戰爆連合はB-29が炎上するまで銃爆撃を繰り返した。
搭乗員と、同乗のタイム誌の記者はB-29が完膚なきまでに破壊されるのを見ることしかできなかった。

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最高速度時速630粁と日本陸海軍の採用機で最速を誇った一〇〇式司令部偵察機三型甲

第五航空軍はこの攻撃でどうにか一矢報いたが、支那派遣軍総司令官・畑俊六大将は陸軍中央に対する面子を失った。
畑総司令官にきびしく叱責された第五航空軍・下山琢磨中将は、「千秋の恨事」と慨嘆した。


◆防空戰鬪 その後

苛烈な2時間もの戰鬪で、小月基地に帰還した空中勤務者たちは激しい疲労を感じていた。
古屋第一九飛行團長、安部第四戰隊長、参謀らが並んで出迎え、質問攻めにあった後、戰隊長がねぎらいの祝い酒をふるまった。

一休みののち、敵来襲状況、作戦行動などを検討するため、出撃した空中勤務者を中心に小月基地で会合が開かれた。
まず、来襲機の機種が問題に上がった。
大陸方面からの空襲に対しては、新型爆撃機が本命とされていたが、視野が狭く視認時間を十分にとれない夜間戰鬪では、はっきりわかるのは4發大型機ということだけで、B-24だと思った勤務者も多かった。
B-29については陸軍中央で性能の推測が行なわれた程度で、写真も想像図もなく、正確な形状は不明だった。

「4發の大型機には間違いないが、いったいなんだったんだろう。あれがB-29かな?」
小林大尉の発言に佐々大尉は、
「後下方から迫ったとき、情報室にあるB-24の写真とよく似ていたようですよ。しかし速度はずっと速かった」
樫出中尉も、
「それにしては、垂直尾翼が1枚しかなかった。B-24は2枚のはずですが」
結局、これといった結論が出ないため、一応B-24とB-29の混成ということに落ち着いた。
話題は攻撃方法や戰果、高射砲や照空燈との連携邀撃などに移っていった。

一方、撃墜機の多くは海没していたが、2機だけが折尾と若松に墜ちた。
ただちに陸軍航空本部調査課をはじめ研究機関の担当者が現地に向かい、海軍からも技術将校が派遣された。

折尾に墜ちたB-29は、墜落時に爆発炎上しているので見るべきものは少なかった。
若松に墜ちた方は四散してはいるものの、發動機や翼など各部の名残をとどめているものが多かった。そしてなによりの収穫があった。
残骸のなかから、搭乗員が撮影したと思われる、未現像のフィルムが見つかったのである。
すぐに現像室に持ち込まれ、処理されたネガはプロジェクターで印画紙に焼き付けられた。
現像液にひたされた印画紙が、ぼんやりと黒ずみはじめ、やがてくっきりと像が現れた。
雲海上を飛ぶ巨大な4發機の姿だ。いくコマにわたり、角度を少しずつ変えて写っていた。おそらく、大陸の基地を発進後、日本本土爆撃を記念して撮ったものであろう。

丸い流麗な機首部。細長い胴体と主翼。大きな垂直尾翼。發動機や銃塔の配置までよくわかる。
B-29がそのすべてを日本側にあらわした瞬間であった。

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墜落機から見つかったフィルムに写っていた第468爆撃航空群のB-29

第一九飛行團はB-29との初戰鬪の結果をまとめた。
戰果は撃墜7機、内不確実3機。撃破4機。
木村准尉の3機撃墜を筆頭に、小林大尉、佐々大尉、樫出中尉、西尾准尉ら、いずれも飛行第四戰隊の勤務者による戰果であった。
第五九戰隊は戦力再建途上であり、空中や着陸時の第四戰隊との混乱を防ぐためもあり、結局は出撃を命じられないまま16日の朝を迎えた。

来襲敵機はB-29とB-24の混成およそ30機と推測された。初回の邀撃では、半数以上を撃墜して敵の戦意をくじく方針であったが、出撃機数を抑えたためもあり、予定戰果には達しなかった。
第四戰隊は使用機12機で延べ24機を出撃させ、常時在空はわずか8機にとどまった。

とはいえ、第四戰隊に撃墜された二式複戰はなく、損害は被弾1機のみであった。
この損害に対し、B-29撃墜撃破11機の戰果は大勝利であった。
理由としては、出撃した空中勤務者の錬度が非常に高く、北九州の空に慣熟していたこと。
事前に来襲の情報がはいっていたこと。
B-29が編隊を組まず、二式複戰が活動しやすい2,500~3,000米の高度で、單機ずつ侵入したこと、などが挙げられた。

武裝については、機首の37粍機関砲がもっとも効果を発揮した。
上向き砲による後下方からの攻撃は、照空圏が狭くて高速のB-29を射撃する時間がないため、あまり有効ではなかった。

一方、西部高射砲集團、北九州防空隊の高射砲は、照空燈が捉えたB-29を次々に狙い撃ったが、冷静さを欠いて乱射状態に陥り、またB-29の大きさと速度に惑わされ、高度や位置の判定を誤りがちであった。戰鬪に慣れるにしたがって至近弾が見られるようにはなったが、およそ9,000發の發射弾数に対し確実な撃墜戰果を得るには至らなかった。
むしろ、二式複戰の行動を妨げる結果になり、第四戰隊の唯一の損害である被弾機は、高射砲の破片による被害であることがのちに判明した。

済州島などの電波警戒機は効果を発揮はしたものの、敵機の飛行高度をつかめず、電波高度測定機の併設と増備が望まれた。
二式複戰は照空燈の照射圏外に逃げた敵機は追えないため、機上電波標定機の不備が痛感された。

八幡製鉄所の被害は軽微で、製鉄所を含めた八幡市内で炸裂した爆彈は500ポンド爆彈5發だけであった。鉄道も一部不通になる被害を受けたが、物的損害はたいしたものではなかった。それでも、死傷者数は軍民あわせて数百名に達した。

日本國内で北九州空襲はさほど報道はされなかった。
日本側の新聞紙上を大きく飾ったのは、米軍サイパン上陸の報であった。

昭和19年6月15日―――
この日をもって、終戦までつづく1年2箇月間のB-29との熾烈な攻防戦が幕を開けたのであった。



壁|'-')ノよいお年を。
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