徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

戰前のころ 其の參

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

艦これアケ、我が艦隊の陣容もだいぶ整ってきました。

現在、我が主力は『如月』を旗艦とし、水雷戰部隊として『暁』、『北上』、『大井』、『愛宕』。
敵に戰艦や空母が複数配備されている海域突破には、旗艦『如月』に空母『赤城』、『蒼龍』、戰艦『金剛』、『榛名』、『山城』を配して出撃しています。

ここ数日間の出撃で、『蒼龍』、『榛名』に加えて―――

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『金剛』、『愛宕』、『北上』、『大井』の改を順次、編入することができました。
『島風』や『秋月』といったレア艦はまだだけど、少しずつ少しずつ、艦隊の戦力は向上しつつあります。

問題は―――
裝備開発が難航していること...


気を取り直して―――
戦前~戦中の画像や小ネタをご紹介していく《戰前のころ》第3回、これで最後となるので、艦これとまったく関係がないですが、流し読み程度に御閲覧くだしあ。


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夜店の金魚売り
東京の江戸川下流域は、愛知県弥富町や大和郡山市とともに、金魚の三大生産地でした。
ですが昭和16年には金魚の需要が減少し、さらに業者も食用の黑鯉の生産に転換していったため、金魚の生産量は大きく減少しました。


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浅草の土産物
上画像は《ざるかぶり犬》という江戸玩具で、生まれてくる赤ん坊を病気から守るという縁起物で、東京・下町でもかなり人気のあった土産物でした。


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遊園地の落下傘塔
昭和15年6月に、東大の武藤清教授が設計した落下傘塔が、東京二子玉川の読売遊園地(現:二子玉川ライズ)に建てられました。
現在の東京ドームシティにあるスカイフラワーよりも高い70米の落下傘塔で、4人のりの昇降機を備えていました。
昭和16年夏ごろからこの落下傘塔で、陸軍の落下傘部隊が学生を装って空挺降下の訓練を行ないました。


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話題の人に扮して
昭和16年10月、上野の鈴本演芸場で桂一奴が百面相を演じました。上の画像はその時のもので、右から、東条英機、アドルフ・ヒトラー、近衛文麿、喜劇俳優の高勢実乗。
話題の人物の特徴をまねるという一奴の芸は当時はめずらしいもので、かなりの人気を博しました。


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映画会社の統合
昭和16年9月19日、情報局の統制により、劇映画製作会社10社が松竹、東宝、第三会社の3社に統合されることが決定しました。同時に、配給機構の一元化も図られました。
上画像は9月25日の東京日日新聞夕刊に掲載された広告。
なお、第三会社は新興キネマ、日活、大都が合併し、昭和17年1月に大映となりました。


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三原橋のお米電車
昭和16年10月13日、東京府米穀商業組合はガソリン節約に協力するため、米の輸送をトラックから東京市電に切り替えました。
東京銀座の歌舞伎座横の三原橋から下板橋間を1日3往復しました。


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前線へ送る慰問袋
画像は白木屋の女子従業員が玩具や食品の詰め合わせを行なっているところ。
戦地にいる兵隊さんへの慰問袋セットがデパートで販売され、結構な売れ行きになりました。


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キングクレヨン
クレヨンはパラフィン、脂肪酸などを溶かして顔料を加えたもので、王様商会(現:王様クレイヨン商会)が大正7年(1918年)に國産化に成功しました。
上の画像は昭和16年に販売されていた15色入りの学童用。当時の子供たちの憧れは、24色入りに入っていた金と銀の2色でした。
今も昔も、クレヨンや色鉛筆での金と銀は大人気です。


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秋季帝室御賞典(現:天皇賞)が開かれた東京競馬場/11月2日撮影
戦前の競馬ブームは昭和10年ごろから過熱していきました。当時、日本は日中戦争に突入しており、國内は軍需景気にわいていた時期だったため、競馬ブームは好景気を反映しての出来事でした。
昭和16年12月の料金改定まで、中山、東京、横浜、京都、阪神の各競馬場の入場料は1等6圓50錢、2等が3圓、馬券は一人1枚20圓と高額でした。
ちなみに、当時の日比谷スエヒロで供された、わかさぎ唐揚げ、マカロニ、スープの定食の料金が1圓40錢でした。
太平洋戦争の突入と馬券税の導入により、入場者数は急激に減少。そして昭和18年12月、競馬中止が閣議決定されました。


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日本初の三冠馬であるセントライト
小西喜蔵騎乗のセントライトは昭和16年10月26日、京都競馬場での京都農林賞典(現:菊花賞)で勝利しました。セントライトはこの時すでに横浜農林賞典(現:皐月賞)、東京優駿(現:日本ダービー)を制しており、京都での勝利により、日本初の三冠を達成しました。


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非常持ち出し訓練
画像は昭和16年10月26日、大阪の扇町高等女学校での非常持ち出し訓練。当時、防空訓練は隣組や会社、学校などで盛んに行なわれていました。
日本が空襲を初めて体験したのは太平洋戦争のB-29によるものではなく、昭和13年2月23日の中華民國空軍機による台湾空襲でした。台湾の2箇所の飛行場が爆撃されました。
そして5月20日、中華民國空軍機が九州上空に侵入。この時は爆彈ではなく伝單、つまり宣伝ビラをバラまいていきました。


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銀ブラ
昭和16年11月ごろの銀座尾張町交差点。
人々は着飾って銀ブラに出かけましたが、商品は店頭から消えつつありました。


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体力奉公を標語に中学生の國防競技
昭和16年10月31日から11月4日にかけて、神宮外苑競技場を中心に、第12回明治神宮國民体育大会が開かれ、中学生から一般までおよそ3萬人が参加しました。
ホッケーや卓球は今大会から廃止され、滑空や行軍が種目に加えられました。


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貸し切りバスで登院
昭和16年11月15日、第77臨時帝國議会が招集されました。貴族院事務局は、ガソリン不足により自家用車で登院できない貴族院議員のために、貸切バスを省線市ヶ谷駅、同新橋駅から國会議事堂まで走らせました。
初日は満員でした。


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子供用大礼服
産めよふやせよ子は宝、という言葉が流行語になった昭和16年ごろ、神社参拝や七五三参りの子供たちにも、男児は陸海軍将校の大礼服、女児は従軍看護婦姿など軍國調の服装が目立ち始めました。
なお、こういった服は一部の裕福な家庭の子供しか着ることはできませんでした。


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ボール紙のバケツ
金属回収運動により、家庭の周りからどんどん金属類が姿を消していきました。そんな折、ブリキに代わるボール紙製のバケツが登場しました。
この紙製バケツは強靭剤や防火剤を塗ったボール紙にベニア板を裏打ちして作られていました。


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看板が消えた商店
昭和16年春ごろから、看板撤去運動がはじまり、商店は看板を外し、かわりに障子戸に墨で店名を書くなど工夫を凝らしました。
画像は秋ごろ撮影の長野市善光寺の増久金物店。


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熱湯アイロン
電気アイロンの代用品として、昭和16年11月ごろから販売が始まった陶製の三徳アイロン。
大きさは高さ11糎、巾10糎、長さ17.5糎。
熱湯を入れてアイロンとして使用するほか、湯の注ぎ口に穴の開いた栓をして火にかけ、噴き出す蒸気を利用して毛糸を湯のしできるよう工夫もされていました。


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最後の天気予報
画像は12月8日付の東京日日新聞朝刊に掲載された天気予報。
太平洋戦争が始まったこの朝、陸海軍大臣は口頭で、気象報道管制の実施を命じ、以後、防空対策の見地から、新聞、ラヂオの天気予報や気象通報の報道は禁止されました。
気象情報が復活したのは、終戦後の昭和20年8月22日昼のラヂオ放送でした。


◆戰前ミニ事典
重要産業団体令
重要産業に対する國家統制を徹底するため、産業別に統制会を組織させる勅令で、國家総動員法に基づき昭和16年8月30日公布、同年9月1日施行。
全國的産業には統制会、地方的産業には統制組合が組織され、関係会社は強制加入されました。
10月には石炭、原動機、電気機器など9業種、12統制会が指定され、その後も相次いで設立されていきました。
生産目標や価格の決定権などは官庁が握っており、官庁の下請け機関にすぎませんでした。

臨時郵便取締令
昭和16年10月4日に公布施行された、戦時または事変に際しての郵便物の差出禁止、検閲などを規定した緊急勅令。
國防上の秘密が外國に漏洩するのを防ぐのが目的でした。
太平洋戦争が始まってまもない12月11日には改正が行なわれ、米國、英國への郵便物が禁止されるなど、さらに取締は強化されていきました。

行列買い
昭和16年、おおくの生活必需品が隣組を通しての割当配給制となり、回覧板で知らせが来ると急いで配給所や店頭で行列して2時間も3時間も待ちました。
商店、食堂、駅の窓口など物を売る所はどこでも長い行列ができ、人々は行列があると後ろにつくのが習慣となり、後ろに並んでからなんの行列かを聞くといった珍事も多発しました。

箸持参運動
通勤から旅行まで、外出するときはいつでも箸を持参して、飲食店の割り箸は使わないようにしようという運動。
木材資源の不足から、昭和16年6月1日に木材統制法が施行され、大量の木材を消費するうえに使い捨ての割り箸からまず節約しようというものでした。
なお、昭和15年暮れごろから、蕎麦屋の出前などから割り箸は姿を消し始めていました。

ゴミ箱宰相
國民の生活実態を知ろうと、朝の散歩でごみ箱を覗くこともあった東条英機を差した言葉。

奉安殿
御真影―――天皇・皇后両陛下の御写真―――や教育勅語の謄本を保管するために、学校などに建てられた建物。子供たちは、その前を通るたびに最敬礼することを義務付けられていました。
校舎が木造でも、奉安殿は鉄筋というところも多く、災害からの防護は校長の重要任務でした。

國民勤労報國協力令
國家総動員法に基づき昭和16年11月22日に公布され、翌12月1日に施行された、労働力を確保するため、國民をひろく動員して学校、会社などを単位として國民勤労奉國隊を組織し、緊急産業部門に従事させることを定めた勅令。
14歳以上40歳未満の男子と、14歳以上25歳未満の未婚女子は、無報酬で年間30日以内の勤労協力を強制されました。



壁|'-')ノよいお年を。
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