徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

戰時下の輸送船

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

さきのFS作戰による備蓄資源、修復資材の乱費浪費の恢復作業を続行中です。
本日午後には、FS作戰で2,600箇ちかくにまで激減した高速修復材も2,938箇にまで備蓄できました。
この調子で行けば、今週末か来週初頭には上限3,000箇にまで恢復できることでせう。

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備蓄資源の恢復ごときでは満足いくネタにはなりませんので、今回は太平洋戦争における船舶量について簡潔にご紹介いたしたく思います。

きわめて簡潔な内容ですので、あまりご期待なさりませぬよう...


艦これでは艦娘たちが遠征を行なうことでさまざまな資源を入手してきます。
これはつまり、資源地帯と鎮守府の置かれている本土とを結ぶシー・レーン―――海上輸送路―――を往く船団を護衛することで、結果的に鎮守府に資源がまわってくるものと解釈できます。
大戦末期には、海軍艦艇とりわけ戰艦が輸送任務に一時的についたことがありますが、やはり物資の大量輸送は専門の輸送船が一番です。

東京急行こと鼠輸送や蟻輸送は、あくまで前線部隊への補給であり、資源地帯で産出される戦略物資の輸送ではありません。

さて、その船団の要たる船舶についてですが、我が日本帝國は開戦時に約630萬噸もの船舶を擁していました。このうち、海軍180萬噸、陸軍210萬噸が軍務に服していました。
民需用には最低でも300萬噸は必要でしたから、すでにして國内産業維持分は不足していました。
一応、陸海軍ともに南方攻略の第一段作戰完了後に、順次、軍需用船舶を民需用に転換、つまり徴用した船舶を民間に返還する予定でした。

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軍事機密指定を受けた博多港埠頭
博多港を含む下関一帯は要塞地帯法に基づく要塞地帯とされ、立ち入りや撮影の禁止・制限が行なわれた


しかし、第一段作戰が軍部の予想をはるかに超える速さで進捗したため、日本は次なる作戰をどうすべきか……つまり始めた戦争をどのようにして終戦まで持っていくか意見の統一がならず、迷走することになります。
それに追い討ちをかけるように、昭和17年4月18日、米軍機が白昼堂々、帝都東京を空襲します。

陸海軍は本土防衛と米英の作戰線を後退させるべく、日本の國力を超えた大規模作戰を実施します。
すなわち―――南太平洋で米濠の連絡線を遮断して濠州の対日戦脱落を狙ったポート・モレスビー攻略MO作戰、その後のフィジー、サモア方面を指向するFS作戰。中部太平洋では布哇攻略の足がかりとして、ミッドウェイ環礁攻略をもくろんだMI作戰です。

このため、民需返還予定だった船舶はそのまま軍需用として利用されることになりました。

日本にとって厳しい状況なのは、米英潜水艦による通商破壊戰です。物資輸送の輸送船を狙って撃沈するこの作戰は、地味に日本の戦争遂行能力を奪っていきました。

開戦から第一段作戰がほぼ完了した昭和17年3月までに、日本は潜水艦による被害や侵攻作戦での喪失をふくめ、およそ27萬2000噸の船舶を喪いました。
ただ、占領地で鹵獲したり洋上で拿捕した船舶が約33萬1000噸もあり、これに新造した6萬8000噸を加えると、約12萬7000噸の増加となりました。

その後は船舶喪失が増大し、徴発や新造では賄えないまでになりました。
昭和17年3月から翌年3月までの1年間で、拿捕・鹵獲37萬7000噸、新造36萬2000噸に対し喪失量は125萬噸にまでハネあがりました。

民需船舶の不足は、南方で産出される石油、鉄鉱石、ボーキサイトなどの戦略資源の本土輸送が細くなることを意味し、事実、ガダルカナル島をめぐる攻防で聨合艦隊は戰艦、空母を含む大部隊を数箇月間にわたって運用した結果、トラック根拠地の重油備蓄が底を尽きかける事態となり、以後の聨合艦隊の運用に支障をきたす事態を招きました。

ガダルカナル島への陸兵輸送、物資輸送で優秀船を含む多数の船舶を喪失したものの、昭和18年2月のガダルカナル島撤退で船舶喪失に歯止めがかかるはずでした。
実際には、昭和18年3月から夏までの数箇月間で、日本は64萬8000噸もの船舶を喪失し、輸送船舶は日を追うごとに減少していきました。
開戦以来、日本は188萬噸もの船舶を喪失しており、昭和18年の新造船舶も建造資材の不足や熟練工員が足りないために揮わず、新造は53萬9000噸と64萬噸もの喪失量を下回る結果でした。

國内産業の維持に最低限必要な300萬噸の民需用船舶は開戦以来、一度も達成されたことはなく、むしろ減少傾向にあり、昭和18年秋には最低限必要量の3分の2ちかくにまで保有船舶は減少していました。

開戦以来、米海軍の魚雷は根本的な欠陥を抱えており、その改善に長期間を要しました。もし、米海軍の魚雷が開戦時からきっちりと機能していたとするなら、日本の船舶喪失量はさらに激増し、昭和18年から19年には、日本の船舶は壊滅していただろうといわれています。
魚雷の欠陥を克服した米潜水艦部隊は、昭和18年10月、ついに日本海にまで進出。10月5日、神の島として宗像大社の沖津宮を奉る福岡県は玄界灘沖の小島である沖ノ島の沖合いで、関釜連絡船の『崑崙丸』(7,900総噸)が米潜水艦USS『ワフー』SS-238によって撃沈されました。
米潜水艦による通商破壊戰による被害激増に対処すべく、『崑崙丸』沈没の翌11月15日、日本海軍は海上護衛総司令部令を交付し、船団護衛を主任務とする海上護衛総司令部を設置しました。
海上護衛総司令部には第一と第二の海上護衛隊が編制され、第一海上護衛隊は本土と南方資源地帯、第二海上護衛隊は本土と内南洋、ソロモン、新基尼方面の輸送護衛を担当しました。

昭和19年度の日本船舶情況  単位:萬噸
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上の表は昭和19年度の軍民あわせての船舶保有量、建造と喪失量です。
建造量よりも撃沈される船の量が多いのが一目瞭然であり、昭和19年末には保有量は半分以下になっています。

昭和19年にはいると、戦時量産型の護衛艦である海防艦の大量配備が始まります。
しかし、海防艦が配備されても、性能面で劣る対潜裝備、對空兵装によって米潜水艦、米軍機の猛攻から船団を護衛するのは困難でした。
それどころか、護衛艦である海防艦が真っ先に狙われて撃沈破され、裸になった船団が撃破されるというケースがたびたび発生しました。
昭和19年夏以降には、本土と南方資源地帯を結ぶ海上交通路である南支那海に大陸奥地から米陸軍の重爆撃機や中爆撃機が飛来するようになり、海防艦や輸送船は海面下に潜む潜水艦にくわえ、雲のかなたから飛来する敵機にも警戒せねばならなくなりました。

昭和19年の暮れにもなると、本土と南方資源地帯を結ぶ海上交通路の東に位置する比律賓(フィリッピン)がほぼ米軍の勢力圏下に落ち、多数の基地航空兵力が展開し、南支那海に攻撃の手を広めはじめていました。
それにくわえ、母艦航空兵力1,000機にもなる精鋭の米海軍機動部隊が進出、多数の船団がその餌食になりました。

南方からの資源を本土へ輸送するための大規模船団輸送は、昭和20年3月に行なわれたヒ八八J船団が事実上の最後となりました。
この船団には、南方に展開していた日本の大型輸送船のうち、稼動可能な船のほぼすべてである7隻が配備されていました。
配備された船舶は、油槽船『阿蘇川丸』、『鳳南丸』、特設油槽船『さらわく丸』、『海興丸』、貨物船『荒尾山丸』、『天長丸』、『北上丸』で、このうち3隻の貨物船は佛印南部のサンジャックに寄港し、後日、日本へ向かう予定でした。
日本へ直行するのは4隻の油槽船で、この4隻には重油2萬5000噸、もともと貨物船であった『さらわく丸』、『海興丸』には生護謨1,500噸、錫500噸が積み込まれていました。

この船団を護衛するのは驅逐艦『天津風』、海防艦『満珠』、『第一號』、『第一八號』、『第二六號』、『第八四號』、『第一三四號』の7艦。このうち、『天津風』は損傷しており、事実上の護衛艦艇は6艦の海防艦が担当しました。

船団は3月19日に新嘉坡(シンガポール)を出航。しかし出航してほどなく、『さらわく丸』が機雷に触れて大破(のちに沈没)、のこり6隻となった船団はシャム湾を北上し、23日にサンジャックに入港しました。
ここで貨物船3隻を分離した船団は、追加の護衛艦艇として海防艦『第一三〇號』、驅潜艇『第二〇號』をくわえ、26日に出航。サンジャック北方のナトラン沖で驅潜艇『第九號』をくわえ、油槽船3隻を護衛艦艇9艦で護るという布陣になりました。

しかし、船団の北上航行はすでに米軍の知るところで、28日にナトラン沖で米陸軍機の空襲を受けて、護衛艦艇の激しい對空射撃にもかかわらず、『阿蘇川丸』が沈没。
その後、『鳳南丸』が潜伏していた米潜水艦の雷撃を受け損傷。沈没こそ免れたものの、陸地に乗り上げて喪失扱いとなりました。

残ったのは950総噸の小型油槽船『海興丸』だけ。
その『海興丸』も翌29日、米軍機の再度の空襲を受けて沈没します。
油槽船は全滅し、攻撃の矛先は護衛艦艇に向けられました。
29日早朝、海防艦『第八四號』は米潜水艦の雷撃を受けて轟沈。
『海興丸』を沈めた米軍機の猛攻により、海防艦『第一八號』、『第一三〇號』が戦没。
海防艦『第一三四號』はこの日の夜、米軍機の夜間電探爆撃により撃破されました。

米軍機と潜水艦によって撃破されたヒ八八J船団ですが、しかし船団の進行方向にある沖縄近海には、米英の巨大な機動部隊が集結し、沖縄侵攻作戦を支援していました。
船団はたとえ無事に東支那海にはいったとしても、強力な索敵力をもつ米機動部隊の監視網から逃れることはできなかったでしょう。

昭和20年度の日本船舶情況  単位:萬噸
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開戦時、390萬噸もあった軍需用船舶は、終戦時には9割を喪った状態に。民需用は結局、最低限必要量を満たすことなく、開戦時の半数以下にまで保有量を喪ってしまいました。
簡易工程の戦時標準船の設計による必死の造船にもかかわらず、ついに日本は海上輸送を喪って敗戦を迎えてしまいました。
海外から資源を輸入せねば産業を維持できない日本は、しかし、潜水艦による通商破壊戦に対処できないまま船舶を喪い続け、技術力と裝備の不足によって悲惨な結末を迎えたのでした。



壁|'-')ノよいお年を。
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