徒然なる戰藻錄

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眞珠灣攻撃にまつわるさりげない四方山話

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

今年は終戦70年。
先月はイロイロモロモロ終戦にまつわる特番、終戦に関する映画も上映されたりしました。

今回は終戦とは正反対、日米開戦についての四方山話をさらりとカルくご紹介します。

たいしたものではありませんが、阿鼻叫喚の夏イヴェFS作戰でささくれだった気持ちを鎮めてくれるものであれば幸いです。


◆対米英武力行使日を隠匿すべし

昭和16年(1941年)12月2日。
この日は、聨合艦隊旗艦『長門』より陸上基地経由で全軍宛てに、有名な『新高山登レ一二〇八』が発信された日です。
すなわち、12月8日を期して対米英蘭武力行使を実施すべしといふものです。日本海軍が事実上、開戦を決意した瞬間です。

さて、その12月2日に横浜港から1隻の船が出港しました。
船の名は『龍田丸』。
日本郵船が北米航路用に建造した客船で、昭和5年(1930年)に完成した排水量1萬7000総噸もの大型船です。

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龍田丸

『龍田丸』の目的地は米國西海岸。
海外に居留する邦人を収容し、日本に引き揚げさせる引き揚げ船として本船は横浜港を出航しました。

朝日新聞はこの船出を、

波高き太平洋へ 第二次遣米龍田丸船出す
日米会談が最も重大な段階に立っている瀬戸際に、波高い太平洋へ船出する龍田丸を見送る人々は桟橋を埋めて大混雑、甲板から流れる愛國行進曲に交って「サヨナラ」の叫び声、ちぎれるやうに振られるハンカチ……船は桟橋を離れる


と報道しています。

『龍田丸』の出航の本来の目的は、日本の対米英蘭武力行使の日時を悟らせないための囮的なものでした。
邦人引き揚げ船が12月2日に出航するといふことは、本船が米大陸各地を経由して日本に戻ってくるまでは日本は開戦に踏み切らないだろうと、米英を油断させるためでした。

効果のほどは不明ですが、情報・諜報戦に疎い日本は開戦前、できうる限りの努力で開戦日時の隠匿に努めたのでした。

『龍田丸』は開戦後に反転して横浜港に帰還。その後は交換船として用いられたりしましたが、昭和18年2月8日、伊豆諸島の御蔵島沖で米潜の雷撃を受け沈没。護衛艦『山雲』の捜索にもかかわらず、乗員およそ1,400名全員が死亡しました。


開戦日隠匿のお話がもうひとつあります。
12月5日から開戦前日の7日までの3日間、帝都・東京は多くの海軍水兵で埋め尽くされました。

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宮城二重橋、正門石橋
海軍水兵らはここで奉拝し東京見物を行なった

※参考画像:国立国会図書館より

12月5日早朝、横須賀の海軍水雷学校の生徒およそ500名が東京駅の横須賀線ホームに降り立ちました。
生徒らは教官に引率され、宮城前広場で海軍砲術学校の生徒およそ500名と合流し、正門石橋前(二重橋前)で宮城を奉拝しました。
その後は別々のコースを取り、水雷学校生は靖國神社、明治神宮を参拝し、正午ごろに朝日新聞社を見学しました。
午後には自由行動が許され、生徒らは銀座をはじめ東京見物に散っていきました。

紺のセーラーに白の脚絆といういでたちの海軍水兵による東京見物は、いやおうにも道行く人々の目を引きました。

5日からの3日間、東京見物に訪れた横須賀の各海軍学校の生徒や横須賀海兵団の水兵らは延べ3,000人にも及びました。

この一連の行動は、東京の米英諜報員などの目を欺くためのものでした。
対米英開戦間近、と囁かれるさなかに、うら若き紅顔の水兵らによる東京見物が行なわれれば、日本が開戦に踏み切るのはまだ先だろうと思わせるのが狙いでした。
新聞社が見学コースにはいっているのは、新聞が大々的に報道することを狙った大本営海軍部の配慮によるものでした。

なお、このとき東京見物した各学校の生徒らは、自分たちが学校生であることを口外しないよう口止めされ、ペンネントも別のものに取り替えられたといわれています。

当然のことながら、澄み切った冬空のもと帝都を見学した生徒たちは、東京から数千粁も離れた北太平洋上に日本の命運を担って真珠湾目指して進撃する機動部隊がいることなど夢にも思っていませんでした。


◆眞珠灣のスパイ

中部太平洋で米太平洋艦隊に艦砲、水雷、航空を有機的に組み合わせた戦術で決戦を挑むはずであった日本海軍の対米戦計画は、山本五十六聨合艦隊司令長官の布哇(ハワイ)攻撃計画に移行していきました。
しかし、そのためには眞珠灣の具体的な港湾状況、防備、太平洋艦隊の艦艇動向などを調査把握する必要がありました。

日本海軍は昭和13年9月から、獨逸(ドイツ)人のヴェルナルド・ユニウス・オットーキューンを諜報員として布哇に送り込んでおり、オットーキューンの娘ルースとともに諜報活動を行なわせていました。
その情報はホノルルの総領事館を経由して日本に送られていましたが、より具体的な情報を入手する必要がありました。

昭和16年3月27日、吉川猛夫予備役海軍少尉は森村正の偽名で外務省書記正としてホノルル総領事館に派遣されました。
森村正の名は、外國人には発音しづらいだろうとして採用されたといわれています。

吉川少尉は喜多長雄総領事、奥田乙治郎副領事のもとで、眞珠灣の港湾状況、防備態勢、艦艇の出入港などの情報収集に努めました。
その情報は総領事名で外務大臣宛に暗号電報で送信されました。
電報は昭和16年5月12日の第1信から、12月6日の第254信にまでおよびました。その内容は、オアフ島にある米陸軍航空隊基地であるヒッカム、ホイラー、米海軍航空基地であるバーバスの施設状況、對空防御の関するもの、眞珠灣内のフォード島を中心とした米海軍関連施設、艦艇の動向、湾内の水深など多岐にわたり、日本海軍の眞珠灣攻撃計画の立案における貴重な情報源となりました。

日本海軍が布哇攻撃を正式に決定したのは開戦2箇月前の10月19日で、海軍の作戦計画担当部門である軍令部において決裁されました。
これに伴い、事前の偵察や吉川少尉らの収集した情報を受領するため、第三艦隊参謀の鈴木英少佐が海軍省出仕兼軍令部出仕を命じられ、軍令部第三部に着任しました。
鈴木少佐は、潜水艦による布哇攻撃の事前情報収集を命じられた潜水学校教官の前島壽英中佐とともに10月22日、横浜港を出航した日本郵船所属客船『大洋丸』に乗船しました。
ちなみに、2人が海軍将校であることは秘密とされ、そのことを知っていたのは船長と事務長だけでした。
鈴木少佐は日本郵船本社から派遣された事務員、前島中佐は塚田という医師に扮していました。

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布哇攻撃機動部隊の進撃路の前調査を兼ねて北太平洋を通った客船大洋丸
※参考画像:定期船ブログより

『大洋丸』は日本政府の命を受け、日本在住の外國人をホノルルに送り届け、そこで日本に引き揚げる在留邦人を収容して帰國する予定でした。
『大洋丸』には鈴木少佐、前島中佐とは別にもう1名、海軍将校が民間人を装って乗り込んでいました。
その人物は松尾敬宇中尉。
半年後の昭和17年5月30日に特殊潜航艇でシドニーを攻撃し戦死することとなる松尾中尉に与えられた任務は、特殊潜航艇による眞珠灣攻撃の事前偵察でした。

『大洋丸』には海外邦人引き揚げという任務のほかに、もうひとつ、極めて重大な任務が与えられていました。
日本と布哇を結ぶ一般航路から遠く北寄りに離れた航路を航行すること―――すなわち、布哇攻撃機動部隊の航行する航路の状況を調査する任務が与えられていたのでした。
この北太平洋航路の天候、気象、海象を調査記録するとともに、この海域を航行する艦船の有無が調べられました。

『大洋丸』は11月1日早朝にホノルル港外に到着。米海兵隊が警戒のために乗り込んだ後、アロハ桟橋に横付けしました。
乗客の乗船下船が行なわれる中、鈴木少佐らは米海兵隊員の監視の目を盗んで米艦艇の動向を調査し、飛行場の軍用機の発着状況をつぶさに調べました。

総領事からは喜多総領事、吉川少尉が訪れ、収集した情報や資料を密かに鈴木少佐に手渡しました。
鈴木少佐はさらに、米太平洋艦隊主力艦の泊地はどこか、日曜日に在泊するか調べました。これは重要なもので、布哇攻撃の日時を決める重要なものでした。
モロモロの情報から、米太平洋艦隊主力艦艇の泊地は眞珠灣であり、日曜日も湾内に停泊していると鈴木少佐は結論づけました。

『大洋丸』は5日午後、1日遅れでホノルルを出航。通常の航路を通って日本を目指しました。
この帰途の航海中、鈴木少佐らは乗船した邦人らからも聞き取り調査を行ない、海軍罫紙で26枚に及ぶ調査報告書を作成しました。

『大洋丸』は11月17日に横浜港に入港。
鈴木少佐、前島中佐らは海軍の仕立てた内火艇で横須賀航空隊基地へ急行。そこから輸送機に飛び乗って呉へ急ぎました。

布哇沖に展開する予定であった第六艦隊の潜水艦部隊はすでに出撃していましたが、特殊潜航艇を搭載した特別攻撃隊の潜水艦はまだ呉に在泊していました。
前島中佐らは同隊を訪れて偵察結果を報告しました。

鈴木少佐は翌日、東京に戻って軍令部総長らに報告しました。そこで、単冠湾に集結中の機動部隊に少佐自身で報告してもらいたいと指示され、鈴木少佐はその日の夜、木更津沖に仮泊中の『比叡』に乗艦して単冠湾に向かいました。
『比叡』は22日に単冠湾に入港。鈴木少佐はただちに艦隊旗艦『赤城』を訪れ、南雲長官、各戰隊指揮官らに調査情報を報告しました。
24日には、オアフ島の模型を用いて、搭乗員らに対しても説明を行ないました。

ホノルル総領事、吉川少尉、鈴木少佐、前島中佐らの努力により、詳細な眞珠灣の情報を入手することができた日本海軍は、その成果を12月8日、布哇上空に披露することとなりました。

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マウイ島ラハイナ泊地に投錨する米太平洋艦隊戰艦群

吉川少尉の情報収集は着任翌日の3月28日からはじめられました。
グリーンのズボンにアロハシャツ、鳥の毛のついた布哇帽子をかぶり、ハイヤーをやとって眞珠灣をはじめとしたオアフ島内をドライブしました。
東京で、ルーペ片手に地図上でしか見ることができなかった米海軍の太平洋最大の前進根拠地である眞珠灣が、いま、目の前に広がっていることに興奮を隠し切れなかったそうです。
吉川少尉は数日おきに眞珠灣の近くをとおりぬけ、そのわずか数分間で湾内の停泊艦艇をノートに記入していきました。もちろん、本人にしかわからない符号を使って。

ときには、19歳の若いメイドとともに遊覧バスに揺られて眞珠灣のちかくを談笑しつつ通る姿も見受けられました。これはFBIによる監視に対処したもので、仲睦まじい男女に対するFBIの監視はさほどキツいものではなかったためでした。

日本が印度支那南部に進駐した8月、日米関係は悪化する一方で、布哇の在留日本人に対するFBIの監視は厳重になっていきました。
一方で、東京から吉川少尉に対する指令は、情報収集をさらに急げというものでした。

吉川少尉は身なりを汚し、比律賓(フィリッピン)人としてサトウキビ畑の仕事を手伝うよになりました。その畑からは、もちろん眞珠灣が一望に見渡せます。
吉川少尉の記入ノートには、曜日ごとに在泊艦艇の艦種、隻数の統計がびっしりと書き込まれていきました。
さらに、米海軍士官が集うクラブで比律賓人として皿洗いをするなど、その行動には危険が伴うようになっていきました。
ときには、眞珠灣の面前で釣り糸をたらす釣り人の姿にもなっていました。

吉川少尉の決死の努力は、12月7日早朝(現地時間)、眞珠灣上空を乱舞する日の丸の航空機の大群によって報われることとなりました。

吉川少尉は開戦後、軟禁状態に置かれ、米本土の収容所に送られました。しかし、諜報員であることが発覚することもなく、昭和17年8月に喜多総領事らとともに日本に帰國しました。
その後は海軍で情報関係の任に就きましたが長続きはせず、辞職願を受理されぬまま終戦を迎えました。



壁|'-')ノよいお年を。
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