徒然なる戰藻錄

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寫眞

はおヾ('ヮ'*)ノ

今回はネタがないためちょっとした息抜きな小噺。

141015
花吹山とラバウル灣 Peter John Tate氏撮影

南東方面最大の前進根拠地であったラバウル。そこには新聞、映画、雑誌社など各社が多くの報道班員、従軍記者、カメラマンを送り込み、日夜、苛烈な取材合戦を繰り広げていた。

軍人ばかりで無骨極まりない海軍社会にあって、彼ら彼女らの娑婆っ気たっぷりの人間像は、戦場の砂塵にまみれた我々にとって、気持ちを和ませ、忘れがたい印象を与えてくれたものだった。

もちろん、なかにはたかが軍人風情が……と見下すような程度の低い者もいたが―――

逆に、こちらが申し訳なく思ってしまうほど親身になって接し、戦場の空気を吸い、陸海軍人の真の姿を銃後の人々に伝えようとする熱血記者も少なくなかった。

そういった報道班員のひとりに、ある従軍記者がいた。
江戸川(仮名)という名前の、大手新聞社から派遣されてきた報道班員で、太平洋戦争開戦前から中支戦線や佛印進駐で写真機片手に従軍取材をつづけてきたという経験豊富な記者だった。
ラバウル滞在中も将校・兵の区別なく気さくに接してくる笑顔の絶えない人物で、陸海軍の将兵や艦娘たちからの信頼も篤い人柄だった。

従軍経験が長いだけに将兵らの生活に詳しく、また接し方も慣れたものだった。
とはいえ、やはり熟練の記者。江戸川氏の従軍時のネタは枚挙に遑がない。

開戦劈頭の馬來(マレー)上陸作戦では、軍司令部に掛け合って上陸船団第一波の船に乗り込み、敵機の空襲を受けながらその模様を撮影。
新鋭驅逐艦隊がトラック根拠地に向け内海西部を出港したと聞けば、快速の艨艟南洋に結集す、と題した記事を書けると、新嘉坡(シンガポール)から連絡便の飛行艇に乗り込み、2日後にはトラック根拠地の夏島に上陸するという、当時としては驚異的な基地間移動を成し遂げた。

ラバウルへ派遣されてからも、ポート・モレスビー空襲へと飛び立つ戰鬪機隊の離陸風景を、迫真のアングルから撮りたいと司令部の制止を振り切って滑走路に進入。警備の兵士が銃剣を突き付けて連れ戻す事態にまでなった。
ほかにも、ガダルカナル島への空襲に向かう中攻に乗り込み、敵地上空でグラマン戰鬪機の攻撃を受けて乗機が被弾炎上。なんとかブーゲンビル島ブイン基地までたどり着いたものの、あわや機上にて殉職しかけたりもしたそうだ。

そんな江戸川氏の仕事の一つに紙上対面というのがあった。
出身地ごとに将兵の集合写真を撮り、それが地方版の新聞に載る。それを見た内地の家族は、戦場で主人や息子がまだ無事に過ごしているとわかる……というシロモノ。
手間暇のかかる仕事で、嫌がる記者もいたそうだが、江戸川氏は前線の兵士と家族をつなぐ大事なことだとして、ないがしろにはしなかった。

その撮影の合間に、江戸川氏はよく搭乗員や艦娘にせがまれてスナップ写真を撮っていた。
なにしろ、明日には花と散るやもしれない稼業だから、その時に備えて郷里の家族に元気なころの写真を届けたい―――と思うのが人情。
搭乗員や艦娘たちのそういった思いを感じてか、江戸川氏は紙上対面や従軍記事の執筆中でもイヤな顔ひとつせず、愛機の前で気取ってポーズをとる搭乗員や、武装を解けば年頃の少女に過ぎない艦娘たちの戦地での精一杯オシャレした姿を、一人ひとり丁寧に写真機に収めてくれたものだった。

だけど―――
ガダルカナルを巡る戰鬪が激しさを増し始めた昭和17年の秋ごろから、嫌な噂が流れ始めた。

江戸川氏に写真を撮ってもらった搭乗員や艦娘は、まるで魂を吸い取られてしまったかのように、日をおかずに未帰還、戰没する―――というものであった。

そう―――
信じてしまいかねない出来事が重なってしまったのは事実だ。
だけど、それは戦況の厳しさを反映したものにすぎず、写真に撮られようが撮られまいが、未帰還搭乗員の数、戦没する艦娘の数が増えることに違いはなかったはずだ。

けれど、そういった前線の殺伐とした状況下では、人間の感情はささくれだち、なにかにつけて、縁起かつぎや迷信じみた物言いが横行するものだ。

ついに、第八艦隊の高級将校の一人が江戸川氏を官邸山に呼びつけ、「どうも君に写真を撮られると死んでしまうらしいから、以後、搭乗員や艦娘の写真を撮影するのはやめてもらいたい」と申しつける仕儀になった。

以前から江戸川氏に懇意にしてもらっていたある艦娘が、「そんなおかしな話がありますか!」と反駁した。
「なら、わたしを撮ってください。ちかく出撃がありますけど、必ず戻って見せますから」とモデルを買って出たその艦娘は、それからほどなくして敵巡洋艦隊と交戦し、戰没してしまう事態になってしまった。

その時のことは、今でも自分は覚えている。
昭和17年11月13日、我が海軍戰艦喪失第一號となってしまった彼女の喪失に、とうとう江戸川氏は従軍記事の取材以外では飛行場や艦隊に近づかなくなってしまった。

自分はあのころ、第四艦隊司令部から新設の第八艦隊司令部に移動しており、8月から江戸川氏とはちょくちょく顔をあわせていて面識はあった。
以前に比べて艦隊に来る頻度は少なくなったとはいえ、取材で江戸川氏と話す機会は多かった。

江戸川氏に関する噂は知ってはいたが、後方の司令部附とはいえ自分もれっきとした帝國海軍の軍人。いつかは軍人らしく散るものと覚悟していたこともあり、撮影禁止が通達されて以降も、しばしば江戸川氏に撮影をせがんだものだった。

撮影禁止が通達されるまで、江戸川氏のもとには撮影を求める搭乗員や艦娘がひっきりなしに訪れており、本来の仕事に支障がでるやもしれぬと自分はそれまでせがんだことはなかった。
最初は江戸川氏も、「よしてください。後方の司令部員まで死なせちゃ、地獄の閻魔の使いか死神呼ばわりされちゃいますよ」と渋っていたが、「なんだと? そっちが閻魔の使いってんならこっちは源覺寺のこんにゃく閻魔だ。どっちがスゴいか勝負しようじゃないか」と冗談めかして応ずるうち、やがていつもの朗らかな江戸川氏を取戻し、「しつこいなぁ、もお。わかりました、撮りましょう。でも、もしもの時は恨みっこなしですよ。写真はちゃんと故郷へ送り届けますからね」と憎まれ口をたたきつつ、写真機を構えてくれた。

その時に撮ってもらったいくつもの写真を、自分は大事にアルバムに保管している。
内地から補充としてやって来たばかりの、不吉な噂話などどこ吹く風といった新しい艦娘たちと花吹山を背にならんで撮った写真など、見るたびにたまらず目頭が熱くなる。

当然のことながら、どの顔も若い。
それでいて―――
悟り澄ましたような……老成した雰囲気が、誰の顔にも滲んでいる。

そう―――
平和ないまと違い、当時の自分たちは、悟りきるしか道がなかった。
思えば、搭乗員たちは20代前後の青年たちばかりで、艦娘などまだ遊びたい盛りのあどけなさが残っている。
自分にしたって、艦娘たちの指揮を執る関係上、まだ20代の半ばを過ぎた程度でしかなかった。
古参の艦娘でも見た目は20歳になったかどうかであり、搭乗員も30に達した老練な飛行機乗りはほとんどいなかった。

しかし、色あせた印画紙に焼き付けられている自分や艦娘たちの面構えには、現代の者なら40代、50代になってはじめて刻まれる類の、ある種の達観が秘められているようだ。

かつては―――
人生は50年と称された。

だけど、戦時にあって自分たちは、もう、すぐ目の前に人生の終焉を感じ取り、見つめていた。

人はその一生で、なにかを悟り、成し遂げねばならない。
とするならば、当時の自分たちは、それまでの20年ほどが、悟り、成し遂げるために許された年月のすべてであった。
それほど切羽詰まった一生であった。

現代の人々が80~90年にもなろうかという長い人生を想定し得るのに対し、自分たちは20年たらずでしかなかった。

その20年ほどの一生で、現代人の80~90年に匹敵する生の充実を得なければならなかった。

だから―――
ひたむきだった。
一途であった。
真剣かつ切実なものとして、一日一日を噛みしめていた。

そんな心の持ち様の違い、自分の一生が明日までだとしても悔いを残さない決意が、当時の自分たちの容貌を、年齢に似合わぬ悟り澄ましたものに彫り上げていたのであろう。

江戸川氏はその後もパラオ、緬甸(ビルマ)、臺灣と各地を転戦したようだが、残念ながら昭和20年春ごろ、南支那海で内地へ向かう船団の護衛艦に乗り込んでいたところに空襲を受け、乗艦が戰没。乗員総員戦死となり、江戸川氏も還らぬ人となった。

自分もまもなく鬼籍に入ることだろう。
そうなるとあの世で江戸川氏や艦娘たちに出遭える。その時には是非とも、自分を写真機ごしに見てもらいたいものである。
終戦から―――
約半世紀を経て、自分の顔にどれほど、悟りの深さが付け加わったことか。
「やれやれ、そんなダラけたツラじゃぁ絵になんないよ」と一笑されそうな気もするが...


-終-

参考出典:ラバウル烈風空戦録
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