徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

補給は大切じゃん?

はおヾ('ヮ'*)ノ

久しぶりの四方山話。
『濱風』探索に疲れ、一向に出てこない苛立ちを四方山話でどうにかこうにか鎮めようという次第。

さて―――

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5-4参拝をつづけていると、ドラム罐状態だとこの海域で燃料をドラム罐の数に応じてがっつり頂戴することができるわけです。いわば前線で燃料補給を受けた塩梅ですね。
艦これでは、補給は基本、母港に戻らねばできません。
ですが、提督の決断などプレイされたことのある方なら知っていると思いますが、燃料や弾薬、糧食など雑貨類の補給はなにも母港だけでなく、前線や前線と内地の中継点にある泊地などで実施することは当然のことながら可能です。

さらに―――

洋上での補給も可能なわけです。

現代では、海上自衛隊が印度洋上で給油任務に従事していたこともあるので、そのあたりは知っている人も多いのではないでせうか?

洋上補給―――
米海軍ではUNREPとも呼ぶこの補給スタイルは、戦前から実施されていました。

今回はその補給にまつわる日本海軍艦艇についてご紹介です。


◆日本海軍の給油用艦船
日本海軍では、給油艦(燃料)、給兵艦(弾薬)、給糧艦(糧食)、給炭艦(石炭)など補給物資を運ぶ艦艇をひとくくりにして《運送艦》と称していました。

昭和4年(1929年)、日本海軍艦艇の動力体系は石炭から重油にほぼ完全に切り替わりました。
結果、重油運搬・補給艦船の需要が高まり、その整備が急務となりました。

ちなみに、当時の日本海軍は米國から重油をしこたま輸入しており、民間船で輸入した重油類は山口県の徳山海軍燃料廠に備蓄され、國内外の拠点や艦艇に補充されていました。

作戰行動中や移動などで航行する艦艇に、基地や泊地に立ち寄らずに航行したまま補給できる補給艦船は、大正9年(1920年)から『襟裳』型給油艦として配備が始まっていました。
本来、この『襟裳』型は『能登呂』型と称しましたが、1番艦『能登呂』が水上機母艦に改造され、2番艦『知床』が給炭艦に改造されたため、3番艦『襟裳』の名を用いて『襟裳』型と呼ぶようになりました。
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『襟裳』型運送(給油)艦

大正年間建造の『襟裳』型も、そのあとに建造された『隠戸』型も、太平洋での戦争の機運が高まった昭和10年代には旧式化しつつあり、前記した通り、その整備が急務でした。
とはいえ、日本帝國も日本海軍も、聯合艦隊の諸艦を賄うだけの給油艦を整備する財力もなく、その整備方針を民間船舶の徴用というかたちに定めました。
もちろん―――
給油艦すべてを民間船舶で賄うわけではありませんが。

海軍が徴用した民間船舶の給油艦船(油槽船=タンカー)は特設給油艦船(特設油槽艦船)となり、80隻以上が戦時中に徴用され、太平洋各地や南方とのあいだで補給や輸送に従事しました。
海軍の規定では、

特設油槽艦
作戰中の艦隊に随伴し燃料を補給することを目的とし、そのための装置を備えた船。

特設油槽船
艦艇用燃料を各基地や根拠地まで輸送する及び原油や燃料の基地間輸送を行なうことを目的とした船。

として区分していました。

このうち、特設油槽艦は艦隊に随伴するため優速であることなどの条件があるため、ただ民間船を徴用するだけではあてはめることはできませんでした。
そこで海軍は、船舶建造助成施設や優秀船舶建造助成施設といった援助政策で建造された船舶を特設油槽艦に割り当てることにしました。
この施設は以前にも空母関係の四方山話で載せましたが、ようは海軍が建造費の大半を肩代わりする代わりに、戦時に際して短期間で海軍の要求にあう艦船に改造できるようあらかじめ設計に盛り込んで船舶を造れ、といふものです。

特設油槽艦に転用するには、高速を発揮できる高出力機関の搭載もしくはその船内容量を確保すること。洋上補給に必要な各種装置類を設置できる空間の確保。追加人員のための居住施設の追加設置空間の確保―――などが必要でした。

この海軍仕様を施された特設油槽艦は、排水量1萬総噸級14隻、9,000総噸級6隻の計20隻に達し、出し得る速力も18.8節(時速約34.8粁)~20.6節(時速約38.2粁)と十分な速力でした。
とりわけ、当時は20節を超えるような高速油槽艦船は世界的にもきわめて希少でした。

ちなみに、最大の特設油槽艦は昭和汽船所有の『日章丸』の10,526総噸、最高速の特設油槽艦は中外海運所有の『黑潮丸』(10,518総噸)でした。

海軍仕様特設油槽艦は海軍機動部隊作戰に一定数が常時参加しており、開戦劈頭の真珠湾攻撃でも、以下の8隻が洋上給油のため途中まで機動部隊に随伴していました。

『極東丸』 10,051総噸 19.3節 飯野海運所有
『東邦丸』  9,997総噸 20.1節 飯野海運所有
『國洋丸』 10,026総噸 19.5節 國洋汽船所有
『健洋丸』 10,024総噸 20.2節 國洋汽船所有
『東榮丸』 10,022総噸 19.4節 日東商船所有
『神國丸』 10,000総噸 19.7節 神戸棧橋所有
『日本丸』  9,974総噸 19.2節 山下汽船所有

大戦末期になると、油槽船のあいつぐ戰没で燃料輸送が細くなったため、戦時標準設計の1TL型、2TL型といった輸送船を油槽船に改造して運用しました。
海軍仕様特設油槽艦も、大戦末期まで幸運にも生き残った数隻が特設油槽艦から特設油槽船に転換されましたが、そのすべてが戦没しました。

なお―――
海軍が徴用した民間船舶のなかに、一風かわった船もいくつか含まれていました。
そのうちのひとつが捕鯨母船です。

捕鯨母船は上甲板の下にある第二甲板に鯨油を搾り取る工場設備があり、その下に船底まで達する鯨油槽があり、そこにはおおむね1萬噸もの油を貯油することが可能でした。
捕鯨会社は捕鯨の時期以外は捕鯨母船を原油輸入に用いており、海軍としてもこの捕鯨母船は最高の資産価値があるとみなしていました。

海軍は5隻の捕鯨母船を徴用し、南方資源地帯(パレンバン/タラカンなど)とトラック泊地のあいだを往復させて燃料を輸送したり、トラック泊地で艦艇への給油任務に用いました。
残念ながら、鯨油母船転用の特設油槽船はそのすべてが戦没しており、唯一、トラック泊地で昭和19年2月、米空母機のトラック大空襲で沈没した『第三圖南丸』だけが戦後引き揚げられ、『図南丸』として再生されました。

捕鯨母船『第三圖南丸』に関する参考元

ちなみに、日本が戦前、保有していた捕鯨母船は『圖南丸』、『第二圖南丸』、『第三圖南丸』、『日新丸』、『第二日新丸』、『極洋丸』の6隻だったそうです。


◆日本海軍の機動部隊随伴用給油艦

日本海軍では艦隊や基地に武器、弾薬を油槽・補給する運送艦を給兵艦と呼んでいましたが、実際のところ、日本海軍が保有した給兵艦は『樫野』1艦だけで、その目的も『大和』型戰艦の46糎主砲を呉から長崎(『武蔵』建造中)と横須賀(『信濃』建造中)へ運ぶためだけでした。
弾薬や兵器などの輸送は民間船舶に任せれば十分という考えがあったのと、商船改造の特設空母などでも十分賄うことができた背景もありました。

一方で、空母は爆弾、魚雷、機銃弾、航空燃料、整備用部品など補給物資は種類も多く、艦隊砲撃戦に比べて遠距離から早期に攻撃を繰り返して消耗も激しいため、備品の補給と航空燃料を給油できる空母機動部隊向け給油艦の必要性が高まってきました。

ただ、所有済みの給油艦や、民間船舶の特設給油艦をそのまま転用することはできませんでした。

艦艇を動かすための重油と違い、航空機を飛ばすための燃料は揮発性の高い軽質油で、気密性の低い重油タンクでおいそれと運べるシロモノではありませんでした。
航空揮発油の輸送には高い機密性のタンク、発火温度が低いため引火防止措置を施したポンプなどの装置が必須でした。

なお、日本海軍では航空機用燃料を航空揮発油と呼んでいました。

日本海軍はマル四計画―――昭和14年(1939年)度海軍軍備充実計画―――で、一箇航空戰隊分の航空揮発油、爆弾や魚雷、真水や糧食などを運ぶ給兵/給糧艦の性質を兼ね備えた『洲埼』型給油艦を計画。
昭和16年のマル臨計画―――情勢ニ應ズル軍備缺陥補充―――で同型4艦の追加建造を計画、大型空母2艦分の物資や揮発油を運ぶ『足摺』型給油艦2艦の建造を計画しました。

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運送(給油)艦『足摺』
※参照画像:「艦艇写真のデジタル着彩」さん

■『足摺』型給油艦
基準排水量:7,951噸
全   長:126米
最 大 巾:16.8米
主機関:三菱橫濱マン式60型ヂーゼル2基
速   力:2軸推進16節(時速約29.6粁)
燃料搭載量:重油450噸
航 続 力:14節(時速約25.9粁)5,500海里(約10,186粁)
補給能力:揮発油2,320噸/弾薬など880噸
兵   裝:
 12糎7二聯裝高角砲2基4門
 25粍二聯裝機銃2基
同 型 艦:『鹽屋』

『足摺』型は航空揮発油およそ2,300噸にくわえ、発動機用潤滑油、爆弾や魚雷、機銃弾、整備部品類、機材、真水、糧食などを輸送することが可能でした。
揮発油タンクは空母に準じた構造となっており、タンクの周囲はバラストタンク兼用の空所が設けられ、万一、揮発油が漏れても艦内居住区画などに漏洩しない仕組みになっていました。
揮発油運搬用のポンプは密閉空間に置かれ、モーターは揮発油が気化した際に引火しないようポンプとは別の区画に設置されました。
換気装置も用意され、タンク周辺の空所とポンプ室の床面ちかくに換気用ダクトが設けられ、艦上部より排気する仕様になっていました。
さらに万一のための消火設備も、空母に搭載されているものと同様、遠隔管制式の炭酸瓦斯放出装置が取り付けられ、緊急時に艦橋や甲板上から操作することが可能でした。

艦上には浮舟が用意されています。
これは洋上補給時、空母に横付けして補給する際のもので、『足摺』と空母間を往復する際に両艦の舷側を破損させないよう防舷物として飛行艇用の大型タイヤが取り付けられていました。

『足摺』型は機動部隊に随伴することを想定しているため、搭載裝備も日本海軍を代表する12糎7高角砲を艦首と艦尾に1基ずつ備え、艦中央部の探照燈付近の両舷に25粍機銃を2基装備するといった、特務の艦艇としてはまずは強力な裝備が施されていました。

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『足摺』型は空母機動部隊に随伴して補給要務を実施することを計画されていましたが、2番艦もろとも建造開始時期が太平洋戦争開始前後と遅かったこともあり、結局、両艦は機動部隊に随伴数という本来の役目を果たすことなく昭和19年6月、あいついで戰没して短い生涯を終えてしまいました。

太平洋の空母海戰に貢献できなかったとはいえ―――
『足摺』型が実現させた燃料・弾薬・糧食などの機動部隊用物資の一元補給を実施する艦は戦後、宿敵であった米海軍が高速戰鬪支援艦としてより洗練された形で実現することとなりました。


◆日本海軍の奇抜給油艦

洋上を航行する艦艇に補給する際のかたちとしては、補給艦の後方に受給艦を配置する縦曳、補給艦の左右に受給艦を配する橫曳があります。
日本海軍は洋上補給を行なう艦隊随伴給油艦船には、艦隊に随伴できる16節以上の高速力と、縦曳、橫曳ができる装置を求めていました。

とはいえ、日本海軍は海軍軍縮条約という制約を課せられたため、縁の下の力持ち的なこの種の支援艦の整備にまで手を回せる余裕がなく、その整備は非常に立ち遅れていました。

昭和9年(1934年)にようやく艦隊随伴用の高速給油艦『劍埼』型の建造が始まりましたが、世界情勢が風雲急を告げる中、もともとも戦時に空母に改造することを目的としていたこともあり、『劍埼』型2艦はあいついで航空母艦(『祥鳳』、『瑞鳳』)に改造されてしまいました。

正規の給油艦の不足に対応するため、日本海軍は『風早(かぜはや)』型4艦の建造を計画します。
『風早』型は排水量18,300噸、速力16.5節(時速約30.6粁)、重油1萬噸、揮発油1,000噸、各種補給物資を運ぶことが可能でした。
ちなみに、『陽炎』型驅逐艦の重油搭載量はおよそ620噸なので、『風早』型1艦で1箇水雷戦隊相当(16艦)の『陽炎』型驅逐艦に燃料を補給することが可能でした。

さて―――
『風早』型は2番艦、4番艦が建造中止となり、事実上の2番艦となったのは3番艦として建造された『速吸(はやすい)』でした。
この『速吸』が奇抜な運用を求められることになりました。

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■『風早』型給油艦『速吸』
基準排水量:18,300噸
全   長:153米
最 大 巾:20.1米
主機関:石川島式オール・ギヤード・タービン1基
主 罐:簡易二一號型水管罐(重油専焼)2基
速   力:1軸推進16.5節(時速約30.6粁)
航 続 力:16節(時速約29.6粁)9,000海里(約16,668粁)
補給能力:重油9,800噸/揮発油200噸/真水750噸
500瓩爆弾6もしくは250瓩爆弾12
野菜2,800人分/糧食1,100人分
兵   裝:
八九式40口徑12糎7二聯裝高角砲2基4門
九六式25粍三聯裝機銃2基/聯裝機銃1基
艦上攻撃機6機+補用1機
射出機1基

『速吸』には当初、対潜哨戒用の水上偵察機の搭載と、水偵射出用の射出機の設置が求められました。
その後、開発中の試作大型艦上攻撃機である流星を6機搭載する方針に変更となりました。
流星を6機搭載し、50番爆弾6箇もしくは25番爆弾12個を積む計画でした。つまり、きわめて搭載数の小さい空母の代用品としての性格を併せ持つこととなったのです。

このため、『速吸』は艦体は『風早』とほとんど変わらないものの、艦橋の配置を艦首寄りに改め、艦中央部には上甲板から5米の高さに航空用フラットを設けました。巾17米ちかいこの空間に艦上攻撃機が搭載されました。
射出機は艦橋の右舷側後方に設置されました。

固定武裝も前述の『足摺』同様に強力でした。
定番の12糎7高角砲が艦首と艦尾に備え付けられ、25粍三聯裝機銃は艦橋両舷、聯裝機銃は艦尾高角砲と艦尾寄りに設けられた煙突とのあいだに機銃座を設置して搭載されました。
これら裝備類はその後も増強がすすめられたと伝えられています。

給油艦としての能力は航空機搭載能力とそれに付随する裝備の増設により、『風早』に比べて低下しました。
給油艦本来の能力を削ってまで空母的な能力を付加させた背景が―――

昭和17年6月5日~6日のミッドウェイ海戰の敗北でした。

この戦いで主力4空母を一挙に喪失した日本海軍は、その穴を埋めるべき主力空母の増産がまったく追いつかず、海軍はすこしでも空母航空兵力の不足を埋めようと躍起になっていたのでした。

海軍はこの『速吸』を基本とした『速吸』型と称すべき給油艦(第5381號艦型)7艦、艦上攻撃機の搭載数を14機にまで増加した『鷹野』型給油艦8艦の建造を決定します。
増産が決定しても、『速吸』といえ追加建造計画艦といえ、射出専用のみで発艦させた機体の回収はまったく不可能でした。
発艦した航空機はもよりの基地に着陸するか、味方の空母に着艦することになります。

以前にも四方山話で紹介しましたが、日本海軍は戦前、空母機動部隊を主力戰艦部隊の決戦前に前方投入して偵察と敵空母撃滅に動員する役目を与えていました。
その際、重装甲の空母を進出させて敵の攻撃をしのぎつつ、重装甲空母を経由して敵空母を叩くといふのが日本機動部隊の作戰方針でした。
この方針は開戦前には放棄され、将来の日本空母の主力はすべて重装甲空母で統一し、敵の攻撃を跳ね返しつつ自前の空母機で敵を叩く―――といふ方向に落ち着きました。

しかしながら、その計画が日の目を見る前に頓挫し、ミッドウェイの敗北で母艦戦力が不足するようになり、戦前に放棄された計画が再浮上することになりました。
唯一、完成した重装甲空母『大鳳』を経由して敵を叩く―――といふわけです。

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航空母艦『大鳳』

結果的に―――

日本海軍は改『大鳳』型重装甲空母群の建造を悉く取りやめ、『速吸』が補給を施す相手である次世代空母群の建造も間に合わない戦況下で、第5381號艦型や『鷹野』型の量産も中止となり、二転三転した日本海軍の機動部隊運用方針はその真価を発揮することなく、昭和19年10月25日、エンガノ岬沖で永遠に消滅することとなってしまいました。

『速吸』は昭和19年にようやく完成し、艦上攻撃機を載せることもなく昭和19年6月、史上最大の空母決戦である《あ》號作戰(米側呼称フィリピン海海戰/日本側では便宜上マリアナ沖海戰)に参加、補給要務をこなすだけにととどまり、海戰から2箇月後の8月、比律賓(フィリッピン)沖で戦没し、『足摺』同様に短い一生を終えました。



壁|'-')ノよいお年を。
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