徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

【西村艦隊】スリガオ海峡海戰【志摩艦隊】

はおヾ('ヮ'*)ノ

ちょくちょくグッズやら同人やらでお目にかかるもののひとつに、西村艦隊ネタがございマス。
驅逐艦『時雨』1艦をのこして壊滅した艦隊ですが...

どうにもこうにも、艦これイメージが先行しているフシが見受けられ、未実装で参加した『朝雲』、『山雲』がハブられていたり、あたかも実装艦5艦のみで突撃したかのおとき表現もあるわけで...

まぁ、未実装艦を描き手の想像で描くのは抵抗があるだろうとは思いますし、艦これという枠組みのなかで表現するといふのであれば、それはそれでアリかもですが...

やはり、実際にあの戦場に赴き、散っていた勇艦たちとその乗員たちのことを想えば、あの戦いがどのやうに展開し、どのやうに戰ったのかを記さずにはいられないといふ次第。

そこで今回はエラく長くなるのを覚悟の上で、実際の西村艦隊=スリガオ海峡海戰を紹介していこうと思います。

それでは、下の追記から本編をどうぞヾ('ヮ'*)ノ


桜らいん

◆第一項 捷一號作戰

レイテを巡る戦いは昭和19年10月17日早朝、レイテ湾入り口に位置する小島スルアン島に第6レンジャー大隊D中隊が上陸し、同島の日本海軍監視所を襲撃したことから始まります。
上陸軍の任務は監視所に保管されていると推測される、日本軍がレイテ湾に敷設している可能性がある機雷の敷設図でしたが、その入手はできませんでした。

スルアン島の日本軍は早朝に米艦隊の接近を報じ、0800時ごろに発した、《敵ハ上陸ヲ開始セリ 天皇陛下万歳》の電文を最後に通信が途絶。
この緊急電は、台湾沖の大航空戦の大捷が報じられて間もない頃に発せられたため、比律賓(フィリピン)中南部の地上防備を担当する陸軍第三五軍(鈴木宗作中将/セブ島)はこの米軍上陸の情報をにわかには信じられませんでした。
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台湾沖航空戦の勝利を伝える10月16日新聞記事

聯合艦隊司令部は米軍の本格的な比島侵攻の可能性は高くないと判断していたものの、大和田通信隊を中核とした海軍軍令部特務班による通信解析などの情報判断から、聯合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将は《聯合艦隊機密第一七一五四七番電》として以下の判断を台湾視察中の豊田副武聯合艦隊司令長官に報告しました。

ニミッツ マッカーサー及ビホーランヂア方面所在ノ攻略部隊ノ算アル指揮官ト特別緊急信ノ往復極メテ多シ ハルゼーハ沖縄寄リニ行動シアル算大ナリ
ホーランヂア及ビアドミラルチー方面ニ一〇月一〇日頃ヨリハルゼー麾下ノ攻略部隊集結シアルモノノ如シ 機動部隊トノ連絡密接ニシテ一一日及ビ一三日頃一部出港セシ算アリ 同方面ニハ他ニマッカーサー麾下ノ攻略部隊モアルモノノ如シ


神奈川県日吉の聯合艦隊司令部は17日0835時、《聯合艦隊電令作第三五一號 捷一號作戰警戒》を發令。0908時には第三艦隊機動部隊本隊の出撃準備、0928時には第二艦隊主力の第一遊撃部隊にボルネオ島ブルネイ泊地への速やかなる進出を下令。
さらに台湾視察中に米機動部隊の空襲で足止めを食っている豊田聯合艦隊司令長官も0809時に、《聯合艦隊電令作特第一四號 捷一號作戰警戒》を發令。
同一の命令が二箇所が発せらるなど混乱が見られましたが、日本海軍の対応は極めて迅速であることがうかがわれます。

米軍は18日にはレイテ島東岸沖合に多数の戰鬪艦艇、両用戦艦艇を進出させ、午後にはダラグ方面が艦砲射撃を受け、米軍偵察部隊による上陸も確認されました。
比律賓の日本陸海軍は航空偵察などを実施して状況把握に努めましたが、天候不良と米軍機の活動によって敵情の把握は困難でした。

同日昼ごろ、聯合艦隊司令部は、米軍は比律賓空襲を実施しつつスルアン島に上陸し、レイテ島東岸タクロバン方面来寇の可能性ありと判断しました。
その上で聯合艦隊各部隊の行動についても示しました。

一.第一遊撃部隊ハ サンベルナルヂノ海峡ヨリ進出 敵攻略部隊ヲ全滅ス
二.機動部隊本隊ハ第一遊撃部隊ノ突入ニ策応 敵ヲ北方ニ牽制スルト共ニ好機ニ投ジ敗敵ヲ撃滅ス
三.第二遊撃部隊第一六戰隊ヲ南西方面艦隊ニ編入 海上機動反撃作戰ノ骨幹トナシ逆上陸決行
四.基地航空部隊ノ全力ヲ比島ニ集中シ敵航空部隊ヲ徹底的ニ撃滅ス
五.先遣部隊ノ全力ヲ以テ敵損傷艦ヲ処理スルト共ニ敵上陸部隊ヲ撃滅ス
六.第一遊撃部隊ノ上陸地点突入ヲX日トナシ 機動部隊本隊ハX-1日乃至X-2日ルソン東方海面ニ進出ス
七.X日ハ特令スルモ只今ノ処二四日ヲ概定ス 機動部隊本隊ノ出撃ハ右ニ応ズル如ク第一機動艦隊司令長官之ヲ定ム

このうち、先遣部隊は潜水艦隊である第六艦隊を指し、第二遊撃部隊は奄美大島に展開している第五艦隊を示します。

18日夕刻、捷號作戰実施方面を比島方面にする旨の軍令部総長指示の大海指第四七六號が発せられ、聯合艦隊司令部は1732時、《聯合艦隊電令作第三六〇號 捷一號作戰発動》を下令しました。

翌19日、レイテ島は激しい砲爆撃にさらされ、米軍の主攻方面が比島中部レイテ島であることが確実となりました。

20日0813時、日吉の聯合艦隊司令部に到着した豊田長官より最終的な決戦要領が発せられました。
《聯合艦隊電令作第三六三號》のその内容は概ね上に載せた部隊行動と同じです。

一.敵ハ一部ヲ以テ印度洋方面ニ我ヲ牽制シツツ ソノ主力ヲ以テ中比ニ上陸ヲ敢行シツツアリ
二.聯合艦隊ハ陸軍ト協力 全力ヲ挙ゲテ中比方面ニ来攻スル敵ヲ殲滅セントス
三.第一遊撃部隊ハ二五日(X日)黎明時タクロバン方面ニ突入 先ズ所在海上兵力ヲ撃滅次イデ敵攻略部隊ヲ殲滅スベシ
四.機動部隊本隊ハ第一遊撃部隊ノ突入ニ策応ルソン海峡東方海面ニ機宜行動シ 敵ヲ北方ニ牽制スルト共ニ好機敵ヲ攻撃撃滅スベシ
五.南西方面艦隊司令長官ハ比島ニ集中スル全海軍航空部隊ヲ指揮 第一遊撃部隊ニ策応敵空母並ビニ攻略部隊ヲ併セ撃滅スルト共ニ 陸軍ト協同速ヤカニ海上機動反撃作戰ヲ敢行 敵上陸部隊ヲ殲滅スベシ
六.第六基地航空部隊ハ主力ヲ以テ二四日ヲ期シ 敵機動部隊ニ対シ総攻撃ヲ決行シ得ル如ク比島ニ転進 南西方面艦隊司令長官ノ作戦指揮下ニ入ルベシ
七.先遣部隊ハ既令ノ作戰ヲ続行スベシ



レイテ方面に来寇した米軍は大きく分けて2系統の指揮部隊で構成されています。
ひとつはダグラス・マッカーサー南西太平洋方面連合軍で、これに属する米海軍第7艦隊司令長官トーマス・カッシン・キンケード中将が中部比律賓攻略部隊総指揮官となります。
この指揮下に地上軍総指揮官であるウォルター・クルーガー陸軍中将がはいります。
キンケード中将の第7艦隊に与えられた任務は、上陸部隊の輸送と上陸/地上戦支援、上陸地点の確保でした。

もうひとつはチェスター・ウィリアム・ニミッツ太平洋艦隊司令長官で、レイテ侵攻ではウィリアム・フレデリック・ハルゼー大将の第3艦隊が参加しています。

レイテ侵攻に関して米軍は作戦名をつけてはいませんが、レイテ上陸予定日の10月20日をAデイと呼んでいました。
この作戰に参加する上陸部隊は戰鬪艦艇157隻、上陸用船舶420隻、掃海艇や補給艦船などをあわせるとじつに734隻という巨大なものでした。
これにハルゼー第3艦隊の空母18、戰艦6など105隻が加わります。

これほどの艦隊と、16萬をこえる上陸軍を用意していることからくる油断と慢心からか、米軍は比島における日本軍の反撃の可能性を皆無と見なしていました。
比島方面の日本軍に関する情報収集と分析は南西太平洋方面連合軍が担当でしたが、同方面軍は、

◎日本軍の抵抗は弱いものと思われる
◎日本艦隊の本格的行動は、今までのように予想されない

と日本側の行動を判断していました。
さらにハルゼー提督も上陸前日の10月19日にマッカーサー司令長官宛に送った情勢判断で、

◎日本艦隊はレイテ湾への東京急行のための小さい分散されたグループになるだろう

と日本側の反撃行動はないものとみなしていました。
これらの情報分析や現地の情況から、マッカーサー司令長官は20日に作成した《連合軍の比律賓上陸に対する敵艦隊反撃の可能性》というレポートで、日本艦隊がスリガオ海峡またはサン・ベルナルヂノ海峡を通過して接近してくることは、航海上の困難と作戰海面の狭小さから非現実的であると結論をくだしていました。

南西太平洋方面連合軍は21日、

◎日本海軍はレイテ上陸を妨げるなんらの意図も有していない

と最新の情勢分析を行なっています。
第7艦隊も23日の段階で、日本艦隊の本格的且つ大規模な反撃行動はないものと見なしていました。
キンケード司令長官は、

◎23日早朝、コロン方面の日本艦隊の接近行動は東京急行の開始を告げるものである
◎分散された小規模な日本艦隊による東京急行がレイテの日本陸軍を補強する唯一の方法であり、日本の水上艦隊がその全力をもって決戦を希求することはない

と判断していました。

これらの情勢判断が大きな誤りであることを、まもなく米軍は身をもって知ることとなるのでした。

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10月20日、レイテ島タクロバン地区レッド・ビーチに上陸するマッカーサー一行。
中央のサングラス姿がマッカーサー司令長官。左端が比律賓大統領セルジオ・オスメニア。



◆第二項 西村艦隊と志摩艦隊

第一項を見てお気づきかと思いますが、日本側は西村艦隊に関する指令や部隊をまったく示していません。
海戰の状況などから間違いやすいことですが、西村艦隊は単独でスリガオ海峡を進撃してレイテ湾に向かうわけではありません。
そもそも、西村艦隊は独立した艦隊ではなく、第一遊撃部隊所属の一部隊でしかなかったのです。
第一遊撃部隊と第二遊撃部隊の編成を以下に記します。

■第一遊撃部隊(第二艦隊)
司令長官:栗田健男中将

▼第一部隊
指揮官:第二艦隊司令長官

◆第一戰隊 宇垣纏中将
戰艦『大和』、『武蔵』、『長門』

◆第四戰隊 栗田長官直率
巡洋艦『愛宕』、『高雄』、『鳥海』、『摩耶』

◆第五戰隊 橋本信太郎少将
巡洋艦『妙高』、『羽黒』

◆第二水雷戰隊 早川幹夫少将
巡洋艦『能代』
第二驅逐隊『早霜』、『秋霜』
第三一驅逐隊『岸波』、『沖波』、『朝霜』、『長波』
第三二驅逐隊『藤波』、『濱波』、『島風』

▼第二部隊
指揮官:第三戰隊司令官

◆第三戰隊 鈴木義尾中将
戰艦『金剛』、『榛名』

◆第七戰隊 白石萬隆少将
巡洋艦『熊野』、『鈴谷』、『利根』、『筑摩』

◆第一〇戰隊 木村進少将
巡洋艦『矢矧』
第一七驅逐隊『浦風』、『磯風』、『濱風』、『雪風』、『野分』、『清霜』

▼第三部隊
指揮官:第二戰隊司令官

◆第二戰隊 西村祥治中将
戰艦『山城』、『扶桑』
巡洋艦『最上』
第四驅逐隊『満潮』、『朝雲』、『山雲』
第二七驅逐隊『時雨』

■第二遊撃部隊(第五艦隊)
司令長官:志摩清英中将

◆第二一戰隊 志摩長官直率
巡洋艦『那智』、『足柄』

◆第一水雷戰隊 木村昌福少将
巡洋艦『阿武隈』
第七驅逐隊『潮』、『曙』
第一八驅逐隊『不知火』、『霞』

※別働
第二一驅逐隊『若葉』、『初春』、『初霜』

この編成を見てもわかるとおり、西村艦隊は栗田艦隊指揮下の一部隊に過ぎません。
第三部隊は『大和』、『金剛』らと行動を共にするのが本来の使命であり、作戦行動はそれに基づいていました。
ではなぜ、西村艦隊は単独でスリガオ海峡に向かうことになったのか―――

ひとえに燃料補給にまつわる戦務上の不手際が原因です。
昭和19年8月には聯合艦隊所属の油槽船(タンカー)は25隻ありましたが、捷一號作戰発動時にはわずか6隻―――『日榮丸』、『良榮丸』、『嚴島丸』、『雄鳳丸』、『萬榮丸』、『日邦丸』―――にまで減少していました。
このため、聯合艦隊が大規模作戦を実施するには手持ちの油槽船では絶対的に不足で、民需船舶の徴用が不可欠でした。とはいえ、民需の海軍転需には陸軍の同意が必要であり、その手続きに手間取っていたのです。
海軍は10月18日になって陸軍へ油槽船6隻の使用を申し出ました。

捷一號作戰で第一・第二遊撃部隊、機動部隊本隊の各艦隊の必要燃料総額が20萬キロリットルで、このうち艦隊が保有しているのは8萬キロリットル。不足分12萬キロリットルを補給するには聯合艦隊所属油槽船6隻(給油能力合計5萬キロリットル)では不足でした。
不足分7萬キロリットルを補給するために最低限必要な油槽船が6隻でした。

陸軍は海軍の申し出に不快感をあらわにし、海軍転需を行なえば10月度の内地輸送重油量は激減し、内地の工業生産や各船舶の活動に支障が出るというのが渋る理由でした。
海軍側の粘り強い交渉の末、最終的に10月21日の最高戦争指導会議において油槽船の海軍使用が認められましたが、すでに聯合艦隊は敵陣突入予定日を25日と定め、ブルネイ泊地の第一遊撃部隊の出撃も間近に迫っていました。
結局―――
第一遊撃部隊の栗田司令長官は新嘉坡(シンガポール)にいた油槽船『雄鳳丸』、『八紘丸』のブルネイ進出を独断で決めていたこともあり、25日レイテ突入にぎりぎり間に合う出港予定日(22日)の前日21日、油槽船はブルネイに到着し、給油が行なわれました。

この油槽船手配の遅延で1日ムダにしてしまったため、低速で全般的に航続力も低い艦艇で構成される第三部隊は第一・第二部隊との共同行動が不可能となってしまったのです。
さらに進撃ルートの選択の自由度も喪われ、第一遊撃部隊の進撃は作戰開始前から前途多難を思わせていました。

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レイテへの航路は上の画像の4つが予定されていました。
第一航路はブルネイ出撃後北上し、新南群島(スプラトリー諸島)を西に迂回しながらミンドロ島西方海上から東進、シブヤン海を抜けてサン・ベルナルヂノ海峡を通過して太平洋フィリピン海に進出。サマール島沖を南下してレイテ湾に到達するといふもの。
第二航路は新南群島とパラワン島に挟まれたパラワン水道を北上、バスアンガ島コロン泊地の北西海上で第一航路と合流します。
第三航路はボルネオ島とパラワン島に挟まれたバラバック海峡を抜けたあと、パラワン島東岸を北上してパナイ島の西方海上で第一・第二航路と合流します。
第四航路はバラバック海峡を抜けたあと第三航路と分離し、ミンダナオ海を東進してスリガオ海峡に突入、同海峡を北上して南からレイテ湾に到達します。

当初予定していた第一航路は、航行距離は最長ですが、対空・対潜警戒が容易で敵に捕捉されにくく安全な進撃が可能ですが、ブルネイでの燃料補給に手間取ってしまったため、この航路を進撃すると25日黎明のレイテ湾到達が不可能となるため除外されました。

第二航路はパラワン島の西の海域を航行するため、比島東方海面の米空母索敵機の活動圏外といふ利点はあるものの、東西25海里(約46.3粁)程度、南北150海里(約277.8粁)にもなんなんとする狭隘なパラワン水道は米潜水艦の哨戒線や待ち伏せ攻撃の危険がありました。
第三航路は敵潜の襲撃回避に有利なミンダナオ海の西部海面を航行するため対潜面の不安は小さいものの、より厄介な米空母機の活動圏内を北上するため、早期に捕捉される恐れがありました。
第一遊撃部隊の第一・第二部隊は航続距離、対潜・対空警戒を考慮して第二航路を進撃することとなりました。

第四航路は進出距離が一番短いものの、その分、米空母群に早期に捕捉される危険がありましたが、速力や航続距離を考慮して第三部隊―――西村艦隊―――の進撃路と決定しました。


一方、志摩中将の第二遊撃部隊の動きはどうだったのか―――
第二遊撃部隊は第五艦隊で構成されており、第五艦隊は開戦前より北方海域の担当部隊でした。
その第五艦隊は昭和19年6月15日の米軍サイパン上陸に対し、イ號作戰と称するサイパン島への資材強行輸送作戦に参加すべく6月19日に大湊を出港、横須賀に進出しました。
マリアナ沖での日米空母決戦での敗北により、第五艦隊はそのまま横須賀に留め置かれましたが、機動部隊との共同行動をとるべく8月2日に呉に進出。同地で各艦は対空兵装の強化、電探新設のうえ機動部隊と連携しての共同訓練に入りました。
10月にはいり第二艦隊を第一遊撃部隊と呼称することに呼応して第二遊撃部隊といふ部隊名が与えられ、14日、台湾沖航空戦での敵損傷艦掃蕩任務が下令されました。
10月15日に内海を出撃して台湾東方海面を目指しましたが、16日に米空母機の触接を受けたことから情勢は不利であると判断しただちに反転、17日に奄美大島に入港しました。

志摩艦隊はルソン島の陸軍部隊をレイテ島に送る輸送任務を命じられ、18日にマニラ回航のため出港。しかし陸軍側の動きが遅いため台湾の馬公で待機することとなり、その途上で第二一驅逐隊の驅逐艦3艦は第六基地航空部隊の要請を受けて別働、台湾の高雄に向かいました。
19日、聯合艦隊司令部より、機動部隊に復帰して牽制行動に従事するよう命令が届きましたが、20日、馬公入港時にその命令が撤回され、陸兵のレイテ輸送任務が再度、指示されました。
度重なる命令変更に志摩中将は南西方面艦隊司令長官三川軍一中将に意見具申して21日に馬公を出撃。正式にレイテ突入が志摩中将に下令されたのは23日になってからでした。
この命令を受領した23日、志摩艦隊はすでにコロン泊地に向かって南下中でした。

志摩中将への指令は南西方面艦隊を経由して《南西方面艦隊電令作第六八七號 機密第二三一〇〇〇番電》として以下のごとく指示されました。

第二遊撃部隊本隊ハ指揮官所定ニ依リ行動 X日黎明スリガオ海峡突破レイテ湾突入 第一遊撃部隊ノ作戰ニ策応 同方面所在敵攻略部隊ヲ撃滅スルト共ニ間接ニ警戒部隊ヲ援助スベシ
警戒部隊ハ電令作第六八四號ニヨリ行動 陸軍部隊ノ輸送揚陸ニ任ズベシ


この警戒部隊といふのは南西方面艦隊の指揮下に入っている第一六戰隊のことで、同戰隊は巡洋艦『青葉』、『鬼怒』、驅逐艦『浦波』で構成されており、第一遊撃部隊とともにブルネイ泊地に進出、21日ブルネイを出撃してマニラに向かっていました。

志摩中将は第一遊撃部隊の指揮下にはいっての作戦行動を願っていましたが、聯合艦隊司令部はそれを認めずスリガオ海峡からの突入北上を指示してきました。

第一六戦隊も含めれば、一等巡洋艦3隻、二等巡洋艦2隻、驅逐艦5隻といふまずは有力な水上部隊になりますが、ゲームや映画などと違い、現実世界では各艦艇が一堂に会すればそれだけで戦力になるとは限りません。
長い時間をかけて戰隊行動などの訓練、各艦の指揮命令伝達系統の訓練や迅速性がここぞといふ時に発揮されなければ、あたら被害拡大を辿るだけになってしまうのです。
第一遊撃部隊としても、戰隊行動、艦隊行動の統一訓練を十分に行なっていない艦艇や戰隊を組み込むことをよしとせず、第二遊撃部隊を予備敵戦力としかみなしていませんでした。

なにより―――
スリガオ海峡に突入する西村司令官と、続行する志摩司令長官のあいだでの直接連絡や意思疎通はまったくされず、それがスリガオ海峡での壮絶な敗北につながっていくことになります。


◆第三項 西村提督と志摩提督

西村中将と志摩中将は海兵39期の同期生です。同期とはいえ、志摩中将は西村中将より6か月先任―――つまり中将昇進が早かったのですが、兵学校時代から志摩提督の昇進が早かったわけではなく、中佐のころまでは西村提督が先任でした。
階級こそ同じとはいえ、西村中将は第二戰隊の司令官なのに対し、志摩中将は第五艦隊といふリッパな艦隊指揮官。本来であればスリガオ海峡からのレイテ突入の総指揮は志摩中将が執るべきでしたが、志摩中将は通信出身で艦隊運用経験が乏しかったのです。
対して西村中将は水雷戦隊上がりで海上勤務も長い生粋の船乗りでした。
両提督の意思疎通がはかられ、連携してスリガオ海峡に突入していたとするなら、劣勢ながらも果敢な行動で米艦隊に一矢報いることができたのではないかと言われています。

しかし、西村提督の部隊は栗田中将の第一遊撃部隊の指揮下にあり、志摩提督の第五艦隊は三川中将の南西方面艦隊の指揮下にあるといふ軍隊区分上の相互連絡上の不備があり、その指揮命令系統の違いがスリガオ海峡海戰における両部隊の統一運用、相互連絡を阻害した要因と言われています。

捷一號作戰において、その作戰の特攻的性格を理解していたのは機動部隊本隊を率いた小沢治三郎中将と西村提督でした。
とりわけ、西村提督は別働でスリガオ海峡への単独突入が決まった10月21日の旗艦『愛宕』艦上で行なわれた打ち合わせ終了後の乾杯で、打ち合わせに列席した各指揮官らとグラスを合わせて惜別していました。スリガオ海峡を突進して第一遊撃部隊本隊のレイテ突入を容易にすることを使命とし、レイテ湾を死処と達観していたように見受けられたと参加者のひとりは戦後、語っています。

西村提督が率いる第二戰隊の主力である『山城』、『扶桑』は老朽低速の戰艦で、開戦後も長く内海西部にあって練習艦任務に従事していました。
マリアナ沖での海戰に先立って第一線に復帰し、9月10日に第二戰隊を編成、そのまま第二艦隊所属となりましたが、戦隊指揮官の西村提督が着任したのは10月4日であり、戦隊各艦の統一訓練はほとんどできずにブルネイ出撃を迎えていました。
レイテ湾を死処と定めていたと思われる西村司令官は、第三部隊各艦長集まっての打ち合わせには姿を見せず、レイテ突入を生還期し難い特攻的なものと捉えていたように思えます。

西村提督には3人の子息がいましたが、大尉時代に病魔により2人を亡くしており、ひとり残った西村禎治大尉は太平洋戦争開戦後間もない昭和16年12月23日、飛行艇搭乗中にルソン島南部のレガスピー方面で戦死していました。
西村提督は子息と同じ比律賓の地に散ることを望んでいたのではないでせうか?

西村提督は栗田中将や南雲忠一中将とおなじく艦隊勤務の豊富な船乗りであり、驅逐艦、巡洋艦の艦長を経て戰艦艦長、水雷戦隊指揮官、巡洋艦戰隊指揮官に任ぜられ、開戦後の南方攻略作戦で米英濠蘭の連合国軍艦隊相手に戦った経験もあり、海軍生活のほとんどを海上で過ごした熟練の水雷屋でした。

第一遊撃部隊の参謀長であった小柳冨次少将は西村提督をこう評しています。
「明朗快活にして常に微笑をたたえ、研究心旺盛、思慮周密、非常な努力家で別に道楽といふものはなく、嬉々として職務を楽しむといふ風で、幕僚の補佐などはいらないくらいの人であった」

特攻的なスリガオ海峡突入を指揮した西村提督ですが、一方で慎重な艦隊運用もこの海戰で行なっています。
23日のバラバック海峡通過の際、敵潜の監視を予測して韜晦鼓動を採ったほか、24日には敵機の攻撃を想定して北寄りに航路を変えるなど、その慎重かつ危険を予測した艦隊運用が光りました。
スリガオ海峡突入に際しても、『最上』と驅逐艦3艦で敵魚雷艇掃蕩を実施する用心深い運用を行なったかと思うや、いざ、敵主力艦隊と遭遇するや遅疑逡巡することなく果敢なる突撃を断行するなど勇猛な一面を見せもしました。

圧倒的な大兵力で待ち構える米艦隊に、老朽戰艦を率いて湾内深く突入し、ついに旗艦『山城』とともに散った西村提督の闘志は、彼とともに戦った幾千もの勇猛果敢なる艦隊乗員将兵ともども、決して批判されざる見事なる戦いであったと言えるでせう。
捷一號作戰で機動部隊を率いた小沢提督も、「あのとき、まじめに戦争をしていたのは西村ただひとりだったよ」と戦後、語っています。


志摩提督は同期の西村提督が海上勤務を突き進んだのに対し、海軍大学校出の俊秀で、通信の専門家であり、その経歴のほとんどが司令部参謀、軍令部課長、鎮守府参謀長、通信学校長など陸上勤務でした。
昭和19年の2月に北方警備の第五艦隊司令長官に親補せられ、その後は聯合艦隊司令部の度重なる命令変更に翻弄されることなります。
志摩提督は自ら望んでレイテ突入を具申し、ついにレイテ突入を命じられますが、これは当初の予定とは違うものでした。
もともと、第二遊撃部隊は機動部隊に随伴する警戒部隊であり、空母の直衛のための訓練は行なってきたものの、レイテ突入のような水上艦のみによる突入攻撃は訓練はおろか検討すらしていませんでした。そのため、夜戦によるスリガオ海峡突入にあたっては、物心ともに不十分なまま臨まねばなりませんでした。

それでも―――
レイテ突入は志摩中将以下第二遊撃部隊各指揮官の望みであり、その新命令は各指揮官各艦乗員をおおいに奮い立たせるものでした。


◆第四項 西村艦隊スリガオ海峡突入

スリガオ海峡の戦いは10月24日深夜から翌25日未明にかけて戦われました。
この戰鬪は航空機を伴わない水上艦艇同士の艦隊決戦としては史上最後のものであり、戰艦同士の砲撃戦が行なわれた最後の戰鬪でもあります。
そして―――

西村艦隊の潰滅的な最後は、第二次大戦の海戰史のなかでも最も悲惨な殲滅戦でした。
米軍側の損害は魚雷艇1艇沈没、戦死者は40数名。
対する日本側は戰艦2、驅逐艦3が暗夜の海峡内で砲雷撃を受けて轟爆沈し、戦死者は推定で少なくとも4,000名にのぼりました。

第4項以降で、スリガオ海峡内での日米両軍の戰鬪を各種資料を基に説明していきます。
ただ、志摩艦隊はともかくとして、西村艦隊で生還したのは『時雨』1艦のみであり、戰鬪詳報を持ち帰ったのは『時雨』、『最上』にすぎず、ほかの諸艦の最後については不明な点が多く、そのあたりは勝者である米側資料を参考にしています。

西村艦隊こと第一遊撃部隊第三部隊は、22日0800時に出撃した第一・第二部隊に遅れることおよそ7時間半、1530時にブルネイ泊地を抜錨、出撃しました。
その戦力は戰艦2、一等巡洋艦1、驅逐艦4のわずか7艦。

戰艦『山城』
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排水量:39,100噸
全長:224.9米
最大巾:34.6米
最大速力:24.5節(時速約45.4粁)
乗員:約1,400名
備砲:
四一式45口径36糎(35.6cm)聯裝砲4基8門
四一式50口径15糎(15.2cm)単裝砲16門

10月24日時点で艦長は篠田勝清少将。

戰艦『扶桑』
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要目は『山城』に同じ。
10月24日時点で艦長は阪 匡身少将。

一等巡洋艦『最上』
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※画像は二等巡洋艦時代

排水量:12,200噸
全長:200.6米
最大巾:20.6米
最大速力:34.7節(時速約64.3粁)
乗員:約900名
備砲:
三年式50口径2號20糎(20.3cm)聯裝砲3基6門
八九式40口径12糎7二聯裝砲4基8門
九四式三聯裝61糎魚雷発射管4基12門

10月24日時点で艦長は藤間 良大佐。

驅逐艦『満潮』
131124h
排水量:2,000噸
全長:118米
最大巾:10.4米
最大速力:35節(時速約64.8粁)
乗員:約230名
備砲:
三年式50口径12糎7C型二聯裝砲3基6門
九二式四聯裝61糎魚雷発射管2基8門

10月24日時点で艦長は田中和生少佐。
第四驅逐隊司令驅逐艦。10月24日時点で隊司令は高橋亀四郎大佐。

驅逐艦『朝雲』
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要目は『満潮』に同じ。
10月24日時点で艦長は柴山一雄中佐。

驅逐艦『山雲』
131124j
要目は『満潮』に同じ。
10月24日時点で艦長は小野四郎少佐。

驅逐艦『時雨』
131124k
排水量:1,685噸
全長:111米
最大巾:9.9米
最大速力:34節(時速約63粁)
乗員:約220名
備砲:
三年式50口径12糎7C型二聯裝砲2基4門
三年式50口径12糎7B型単裝砲1門
九二式四聯裝61糎魚雷発射管2基8門

10月24日時点で艦長は西野 繁少佐。
第二七驅逐隊は昭和19年7月に解隊されたものと推定され、隊司令及びスリガオ海峡海戰時の所属は不明。作戰記録上は第二七驅逐隊となっています。


第三部隊は戰艦の速力の低いことと驅逐艦の搭載燃料が十分ではないことから、レイテへの距離が一番短い南寄り航路を採ることとなり、北方からレイテ湾に25日黎明時に突入する第一・第二部隊に呼応して、25日黎明レイテ南方スリガオ海峡を北上突破することとなりました。
その突入計画は出撃当日の22日に各艦に《第三部隊命令作第一號》として以下のごとく通達されました。

第三部隊ハ第一遊撃部隊命令作第四號ニ基ヅキ 第一遊撃部隊主隊ト分離別働シ 其ノ作戰ニ策応シ X日黎明タクロバン泊地ニ突入殺到 所在敵部隊ヲ覆滅セントス
:作戰要領:
第三部隊ハX-3日一五〇〇ブルネイ出撃 対潜警戒ヲ厳ニシツツ別図航路ヲ経テ 概ネX日日出前二時間主力ニ策応シスリガオ海峡ヨリタクロバン泊地ニ突入シ 日出前後ニ亘リ敵船団及ビ上陸軍ヲ攻撃撃滅ス

※10月25日のタクロバン地区の日の出は0627時。

なお、この命令作第一號の行動予定は22日昼前に第一遊撃部隊の栗田司令長官宛に《第二戰隊機密第二二一一五五番電》で発信されました。

第一遊撃部隊第三部隊行動要領 X-3日一五三〇ブルネイ湾出撃 X-2日一一〇〇バラバック海峡通過針路五〇度ニテ X-1日〇六三〇北緯一〇度三〇分東経一二一度二五分ヨリ針路一四〇度 爾後ミンダナオ海北岸沿イニ進撃 〇一〇〇ビニト岬南方ニ達シ針路三五〇度ニテレイテ湾ニ達ス

この電文は翌23日0940時頃に第一遊撃部隊司令部で受信しています。
この時刻、第一遊撃部隊はパラワン水道で米潜水艦の攻撃を受け、旗艦『愛宕』、『摩耶』轟沈、『高雄』舵損傷操艦不能となり、栗田長官ら司令部一行が救助艦『岸波』に移った混乱時に受信しています。

この電文中にあるビニト岬はレイテ島の南に位置するパナオン島の南端にある岬で、スリガオ海峡の南口になります。
25日0100時にビニト岬沖到達となれば、進撃速力を維持したままでいけば3時間後の黎明0400時ごろにレイテ島ダラグ沖に達します。

西村艦隊はブルネイ出撃後、米潜の襲撃を受けることも触接を受けることもなく、23日1020時にバラバック海峡を通過してスルー海に入りました。
艦隊はパラワン島の東岸沿いに北東へ針路をとり、24日0000時、予定海域まで北上することを変更して南東130度に変針。スルー海の東に達したのち北東に転じ、ミンダナオ海に向かって平穏な航海を続けました。
途中で予定と違って針路を変更した理由は不明ですが、米空母索敵圏内を航行する際に敵機に捕捉されることを警戒したためではないかと推測されます。

24日0200時、レイテ湾敵情偵察のため、『最上』から水上偵察機1機が発艦。この水偵は0650時にレイテ湾に到達、敵情を打電しました。この電文はルソン島南部のブーラン基地を経由して各部隊に転電されました。

ブーラン基地機密第二四一二二七番電
一.ダラグノ一八〇度一五海里 戰艦四 巡洋艦二 驅逐艦二
二.同点ノ九〇度七海里 輸送船八〇
三.パナオン島ノ北東側 驅逐艦四 小舟艇十数隻
四.ダラグノ南西四〇海里沿岸ニ驅逐艦一二 飛行艇一二


このブーラン基地發のレイテ湾敵情報告は、シブヤン海で激しい空襲に曝されている第一遊撃部隊でも1400時に受信しています。
『最上』水偵は艦隊上空まで引き返した1200時、報告球を投下したのち、ミンドロ島のサンホセ基地に向かいました。
『最上』水偵の入手した敵情は、捷一號作戰で日本側が得たレイテ湾内の詳しい敵情で、相当数の艦船の在泊を伝えていました。
西村艦隊はレイテ湾の敵艦隊の情報を得ずに闇雲に突入したといふ批判が戦後、なされましたが、その批判が過ちであることはこの『最上』機の敵情報告からして明らかです。

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10月24日スルー海で米空母機の攻撃をうける山城

24日0940時ごろ、西村艦隊はネグロス島南方海域で、ハルゼー提督の第3艦隊第38機動部隊第4群(ラルフ・デヴィソン少将)から発艦した27機の攻撃隊による空襲を受け、『扶桑』、『最上』、『時雨』が被弾しましたが各艦の戰鬪能力に影響は出ませんでした。
西村艦隊への空襲はこの一度だけで終わってしまいました。
この日、ハルゼー艦隊はその航空攻撃力をシブヤン海の第一遊撃部隊主隊に集中していたからでした。

1105時、西村司令官は空襲情況を栗田司令長官に報じたあと、順調に航海を続け、1400時ごろにスルー海の東端に達しました。
この際に発した空襲報告の電文は米第7艦隊でも受信しており、24日正午過ぎ、キンケード司令長官は第7艦隊に警報を発しました。
「夜戦の準備をせよ! 戰艦2隻、巡洋艦8隻、驅逐艦10隻より成ると推定される敵部隊、10月24日0910、東部スルー海上に於いて我が空母艦載機の攻撃を受けたとの報告を発信せり。敵は今夜レイテ湾に到達可能」
1443時には、戰艦部隊である第77任務部隊を率いるジェシー・バートレット・オルデンドルフ少将にスリガオ海峡北口の哨戒と迎撃戦を指示しました。


西村艦隊と違い、栗田司令長官の主隊は激しい空襲で進撃が遅れていました。
栗田司令長官は第二次空襲が始まってまもない1315時に、機動部隊本隊と基地航空部隊に対し《第一遊撃部隊機密第二四一三一五番電》で督促電を打っています。

敵艦上機我ニ雷爆撃ヲ反復シツツアリ 貴隊触接並ビニ攻撃情況速報ヲ得度

この電文から西村司令官は第一遊撃部隊主隊は米空母機の激しい攻撃に曝されているものと判断し、第三部隊は予定通り進撃中であることを栗田司令長官に知らせる必要があると感じました。
1410時に《第二戰隊機密第二四一四一〇番電》で次のやうに第三部隊の情況を知らせました。

我一四〇〇ノ位置 地点ヤサル19 針路一四〇度速力一八節

ヤサル19は北緯9度12分、東経122度50分で、ネグロス島の南西20海里(約37粁)付近を示します。

この電文は1447時に旗艦『大和』で受信しています。
第一遊撃部隊は連続する空襲で進撃速度が鈍っており、このまま第三部隊に進撃をつづけさせると、第三部隊は当初の予定通り25日黎明にレイテへ単独で突入することになってしまいます。
しかし栗田司令長官は西村司令官に対し時間調整などの指示を一切出さず、ついには1530時、敵空母機からの空襲被害を軽減させるべく西へ向かって反転してしまいました。

この栗田司令長官の西への反転は《第一遊撃部隊機密第二四一六〇〇番電》として聯合艦隊司令長官宛に発信されました。当然ながら、この電文は捷一號作戰参加各部隊でも受信していますが、西村艦隊がこれを受信したかどうかは定かではありません。
通信電文も記録される戦闘詳報は、旗艦『山城』のものは艦とともに沈んでいるため確認が取れません。
生還艦の『時雨』、戦場避退の『最上』から搬出された戰鬪詳報には記録されていません。
一方で『時雨』の戰鬪詳報には1900時ごろ着電として、聯合艦隊司令長官からの《聯合艦隊電令作第三七二號 聯合艦隊機密第二四一八一三番電 天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ》を受信しているとなっています。

第一遊撃部隊主隊は1715時ごろには東へ向かって進撃を再開していましたが、栗田司令長官が進撃再開を関係各部隊に知らせたのは進撃再開から4時間以上経過した2145時でした。
この時に栗田司令長官が発した進撃再開電は西村司令官に宛てたもので、進撃再開の報告はなぜか豊田司令長官に対して行なわれませんでした。
西村司令官に対し発信された進撃再開電である《第一遊撃部隊第二四二一四五番電》は次のごとくであり、そして栗田司令長官と西村司令官がとりあった最後の連絡となりました。

一.第一遊撃部隊主力 二五日〇一〇〇サンベルナルヂノ海峡進出 サマール島東方接岸南下 二五日〇六〇〇頃ヤルセ32 同日一一〇〇頃レイテ泊地突入ノ予定
二.第三部隊ハ予定通レイテ泊地ニ突入後 二五日〇九〇〇スルアン島ノ北東一〇海里附近ニ於テ主力ニ合同セヨ


栗田司令長官が24日1715時ごろに東へ再反転し進撃を再開していることを西村司令官は知りませんでした。
そのため、聯合艦隊司令部からの全軍突撃電を受信してから第一遊撃部隊主隊が進撃を再開したとなれば、25日黎明に主隊、第三部隊が共同でレイテ泊地に突入することは不可能と判断しました。
栗田司令長官からはなんら行動に関する指示はきません。
西村艦隊は刻一刻とスリガオ海峡に近づいており、米軍哨戒線に接触するのも時間の問題と思われていました。
栗田司令長官のみならず、日吉の聯合艦隊司令部からもなんら行動や時間調整の指示も来ないため、西村司令官は単独でのレイテ泊地突入を決意します。
これは《第二戰隊機密第二四二〇一三番電》として2013時に栗田司令長官宛に発信されました。

二五日〇四〇〇ダラグ沖ニ突入ノ予定

この電文は2020時ごろに栗田司令部で受信しており、それに対する行動指示として先の《第一遊撃部隊第二四二一四五番電》発信につながっていきます。
この電文は『最上』戰鬪詳報には記載されていますが、いつごろ受信したかは不明です。
そしてその電文がいつ受信できたのか、それとも受信できなかったのかは今となってはもうわかりませんが、2300時ごろから西村艦隊は米軍哨戒部隊と遭遇しており、戦端が開かれるのは時間の問題となっていました。


◆第五項 スリガオ夜戦-西村艦隊と米艦艇の夜間遭遇戦

西村艦隊が刻一刻とスリガオ海峡へ北上しつつあるころ、それと対戦すべき米艦隊の情況はどうなっていたのでせうか?
レイテ湾の防備と上陸軍の支援は前述のとおりキンケード提督の第7艦隊の担当でした。
キンケード司令長官は揚陸指揮艦USS『ワサッチ』AGC-9に座乗、その指揮下には第77任務部隊として3つの戦闘部隊が配されていました。

第2群 オルデンドルフ少将
戰艦6、重巡3、輕巡2、驅逐艦15

第3群 バーケイ少将
重巡1、輕巡2、驅逐艦13
※重巡と驅逐艦1はオーストラリア海軍所属

第4群 スプラグー少将
護衛空母18、驅逐艦21

※※第1群欠

キンケード司令長官は24日の昼過ぎに第7艦隊の水上部隊に対して夜戦警報を発し、オルデンドルフ少将に迎撃部隊の編成とスリガオ海峡の哨戒を命じました。
編成された迎撃部隊の陣容は次のごとくです。

◆第7艦隊第77任務部隊による迎撃部隊
総指揮官:オルデンドルフ少将

中央部隊 ウェイラー少将
戰艦6艦
USS『ペンシルヴァニア』BB-38
131126
排水量:33,100噸
速力:21節(時速約38.9粁)
備砲:MarkⅩ45口径14吋(35.6cm)三聯裝砲4基12門

USS『ミシシッピー』BB-41
131126b
排水量:33,400噸
速力:21節
備砲:MarkⅥ50口径14吋(35.6cm)三聯裝砲4基12門

USS『テネシー』BB-43
131126c
排水量:32,600噸
速力:21節
備砲:Mark11 50口径14吋(35.6cm)三聯裝砲4基12門

USS『カリフォルニア』BB-44
131126d
要目は『テネシー』に同じ。

USS『メリーランド』BB-46
131126e
排水量:32,500噸
速力:21節
備砲:MarkⅤ45口径16吋(40.6cm)二聯裝4基8門

USS『ウェスト・ヴァージニア』BB-48
131126f
要目は『メリーランド』に同じ。

エックス・レイ驅逐隊 フッバード中佐
驅逐艦6艦
USS『コニー』DD-508
USS『オーリック』DD-569
USS『クラックストン』DD-571
USS『ウェレス』DD-628
USS『シガーネイ』DD-643
USS『ソーン』DD-647

左翼部隊 オルデンドルフ少将
重巡洋艦3艦
USS『ルイスヴィル』CA-28 ※総旗艦
USS『ポートランド』CA-33
USS『ミネアポリス』CA-36

輕巡洋艦2艦 ヘイラー少将
USS『コロンヴィア』CL-56
USS『デンヴァー』CL-58

第1驅逐小隊/第56水雷戦隊 スムート大佐
驅逐艦3艦
USS『ニューコム』DD-586
USS『アルヴァート・ウェストン・グラント』DD-649
USS『リチャード・フィリップス・レアリー』DD-664

第2驅逐小隊/第112驅逐隊 コンレイ大佐
驅逐艦3艦
USS『ハルフォード』DD-480
USS『ロヴィンソン』DD-562
USS『ブリアント』DD-665

第3驅逐小隊 ブールウェア中佐
驅逐艦3艦
USS『ルーツェ』DD-481
USS『ヘイウッド・ラン・エドワーズ』DD-619
USS『ヴェニオン』DD-662

哨戒水雷戦隊/ジェシー・カワード大佐
第54水雷戦隊 驅逐艦3艦
USS『マクゴワン』DD-678
USS『メルビン』DD-680
USS『リメイ』DD-688

第108驅逐隊 フィリップス中佐
驅逐艦2艦
USS『マクデルマット』DD-677
USS『モンセン』DD-798

ディナガット方面レイテ湾口警戒
驅逐艦2艦
USS『マクネーア』DD-679
USS『メルツ』DD-691

右翼部隊 バーケイ少将
重巡洋艦1艦
HMAS『シュロップシャー』 ※オーストラリア海軍

輕巡洋艦2艦
USS『フェニックス』CL-46
USS『ボイス』CL-47

第24水雷戦隊 マクメーンズ大佐
驅逐艦6艦
USS『バッチェ』DD-470
USS『ビーレ』DD-471
USS『ハッチンズ』DD-476
USS『ダリー』DD-519
USS『キレン』DD-593
HMAS『アルンタ』 ※オーストラリア海軍

以上の編制のほかに巡洋艦USS『ナッシュヴィル』CL-43がいましたが、こちらはマッカーサー司令長官が司令部として用いていました。キンケード司令長官は自身が乗り込んでいる『ワサッチ』に一時的に移乗するようマッカーサー司令長官に求めましたが、戰鬪力が皆無の両用戦艦艇に移動することを拒否されたため、スリガオ海峡の海戰には参加しませんでした。

このやうに、米側の迎撃戦力は戰艦6、巡洋艦8、驅逐艦28の合計42艦にも達し、西村艦隊の戰艦2、巡洋艦1、驅逐艦4、志摩艦隊の巡洋艦3、驅逐艦4を上回る強大なものでした。
さらにこのほか、レッスン少佐が指揮を執る39艇もの魚雷艇がスリガオ海峡の各所に配備されており、最進出地区はカミギン島にまで達していました。

しかし、米軍にはある問題がありました。
先にも述べたやうに、第7艦隊の主な任務は上陸支援と地上戦支援に重点が置かれているため、主力の戰艦には地上砲撃用のHC弾が多量に搭載されており、対戰艦戦闘に必須の徹甲弾の量が少なかったのです。
装甲の薄い巡洋艦や驅逐艦が相手であれば、14吋、16吋といった巨砲から撃ちだされるHC弾でも十分な威力を発揮しますが、強固な装甲で鎧われた戰艦には無力です。
しかも搭載砲弾のおよそ8割弱を占めていたHC弾も、その過半を地上砲撃で消耗していました。
戰艦だけでなく驅逐艦も似たような状況で、魚雷が対艦攻撃の主武装である驅逐艦の補充用魚雷の準備はされておらず、各驅逐艦は搭載魚雷を射ち尽くした後、その補充が不可能若しくは非常に困難な状況にありました。

そのため、西村艦隊の決死的突入によって砲弾、魚雷を消耗した後に志摩艦隊の突入が行なわれれば、オルデンドルフ艦隊の火力はさらに喪われ、栗田艦隊の戰艦『大和』、『長門』らが突入してきた際にその砲力を封じられる恐れがありました。

131125

西村艦隊の最初の交戦は、スリガオ海峡南方に展開していた魚雷艇隊とのあいだに発生しました。
スリガオ海峡の南入口であるパナオン島の北西にあるソゴト湾周辺に、米魚雷艇群が蝟集していることを『最上』機の偵察で把握していたので、西村司令官はこれら魚雷艇群の妨害を撃破すべく、日没後の1900時過ぎ、『最上』と第四驅逐隊(『満潮』、『朝雲』、『山雲』)を前方20粁に掃蕩隊として先行させました。

米軍の魚雷艇隊は優秀な電探裝備を持っていることから、その主な任務は小柄な艇体による低視認性と高速機動性を活かした偵察・敵情速報であり、雷撃は二次的なものとされていました。

2236時、ボホール島沖の第1哨戒区で待機していた魚雷艇『PT131』が日本艦隊を電探で捕捉、哨戒区の3艇の魚雷艇は24節(時速約44.5粁)で接敵を開始。2250時には2.6海里(約4.8粁)まで接近しました。

2252時、『時雨』がカミギン島北方海域でこの接近中の魚雷艇を発見、2256時に『時雨』は探照燈を照射しての射撃を浴びせましたが、この魚雷艇隊は必至の之字運動と煙幕の展張で退避に成功しました。

『時雨』の射撃による破片を浴びた『PT130』は通信装置が破壊されたため、となりの第2哨戒区まで移動し、そこで友軍魚雷艇『PT127』に日本艦隊発見の連絡をするよう依頼しました。
しかし、この依頼を受けた『PT127』から敵発見の発信がなされるのはなぜか1時間後の深夜0時すぎで、オルデンドルフ司令官のもとにこの情報がもたらされたのは10月25日0026時になってからでした。

第3哨戒区の魚雷艇隊による攻撃は0015時から20分近くにわたって実施されましたが、その攻撃はすべて不発に終わり戦果はありませんでした。さらにこの哨戒区からの敵情報告は通信機器の故障で3時間以上も遅れてしまいました。
このあとも第6、第8、第9、第11哨戒区と魚雷艇隊による連続攻撃がたてつづけに行なわれましたが、そのすべての攻撃は成果を挙げることはありませんでした。

スリガオ海峡南方入口の各地に配置された39艇の魚雷艇隊は、このうち30艇までが攻撃に参加、34本の魚雷を発射しましたが、正常に作動したのはわずか2本にすぎませんでした。
ただし、このうちの1本は後述する志摩艦隊の巡洋艦『阿武隈』に命中します。
魚雷艇隊は西村艦隊に対しなんら効力を発揮することなく、ただただ魚雷を浪費するだけに終わり、第9哨戒区の『PT493』が破壊され戦死3、戦傷20の被害を出しました。
しかし、この魚雷艇隊の敵発見報告と、魚雷艇への西村艦隊の砲火がオルデンドルフ艦隊に敵接近を知らせるまたとない警報となったのでした。

131125b

西村艦隊の掃蕩隊は日付変更後の0018時に第3哨戒区の魚雷艇隊と遭遇、これに砲火を浴びせましたが驟雨にじゃまされて命中弾を得られませんでした。
0028時、掃蕩隊は反転し、リマサワ島寄りに南下して本隊との合流をはかりました。
0100時、西村司令官はスリガオ海峡に突入しつつあることを栗田司令長官に《第二戰隊機密第二五〇一〇〇番電》で連絡しました。

〇一三〇スリガオ海峡南口通過レイテ湾ニ突入 魚雷艇数隻見タル外敵情不明 天候スコールアリ視界漸次良クナリツツアリ

0130時、掃蕩隊は本隊に合流し、0135時、第二索敵配備となり、速力20節(時速約37粁)で進撃。0202時には針路0度、真北へ向かって突入態勢をとりました。
この時、『満潮』がパナオン島方向に魚雷艇を発見、0216時ごろまで探照燈による照射砲撃をかけましたが、彼我ともに被害はなく、海峡入口における西村艦隊と米魚雷艇隊の交戦は、魚雷艇1艇を撃破された米側の敗退に終わりました。


◆第六項 西村艦隊潰滅

魚雷艇との交戦後、1時間ちかくにわたって海峡南側は静けさに包まれ、その闇夜の海上を西村艦隊は粛々と北上していました。
このまま北上すればそこはレイテ湾で、その奥には目標のマッカーサー率いる大輸送船団が息をひそめているはずでした。
しかし―――
その手前の海上には6隻の戰艦を中核とした巨大な戰鬪艦隊が待ち構えていることを、西村司令官を始め、西村艦隊の誰ひとりとして把握していませんでした。

スリガオ海峡は雲の下に隠れ、月は見えず、空と海は漆黒の闇につつまれていました。風はなく、ときおり驟雨のものらしい稲妻が走り、雷鳴が海峡両側の断崖に低くこだましていました。

0253時、『時雨』が右舷ディナガット島方向に驅逐艦らしき艦影3以上を発見。西村艦隊は直ちに『満潮』を先頭にした一列単縦陣による進入隊形を整えました。
この隊形では『満潮』を先頭とし、以下『朝雲』、『山雲』、『時雨』、『山城』、『扶桑』、『最上』の順に並びました。

魚雷艇隊に続いて西村艦隊と交戦状態に入ったのは、カワード大佐率いる驅逐艦7艦より構成される哨戒水雷戦隊でした。
オルデンドルフ艦隊は0026時に西村艦隊発見、0038時に志摩艦隊発見、そして0107時には西村艦隊に関する第2報を受けていました。
これにより、敵接近を確信したオルデンドルフ司令官は、対潜哨戒にまわしていたカワード大佐の水雷戦隊に海峡方面の哨戒および日本艦隊迎撃を命じました。

カワード大佐はUSS『マクネーア』DD-679、USS『メルツ』DD-691の2艦をディナガット島北方のレイテ湾口警戒にまわし、第54水雷戦隊、第108驅逐隊で迎撃隊を編成しました。

カワード大佐が率いる第54水雷戦隊は東側隊として、USS『リメイ』DD-688、USS『マクゴワン』DD-678、USS『メルビン』DD-680の3艦。
第108驅逐隊はフィリップス中佐が指揮をとり、西側隊としてUSS『マクデルマット』DD-677、USS『モンセン』DD-798の2艦で構成されています。

両隊は0206時に戰鬪部署に附き、東西両隊は単縦陣を組んで0230時、20節で南下を開始しました。
0240時、『マクゴワン』は方位184度16海里(約29.6粁)に日本艦隊を発見、ただちに25節(時速約46.3粁)に増速、0250時、雷撃戦のため針路150度に変針しました。『時雨』が0253時に発見したのがこのカワード哨戒水雷戦隊の東側隊でした。

0257時、カワード大佐は雷撃戦を下令。主攻撃目標は敵大型艦群で、戰隊旗艦『リメイ』が1番艦(『山城』)、『マクゴワン』と『メルヴィン』は共同で2番艦(『扶桑』)、フィリップス中佐の西側隊は3番艦(『最上』)と随伴の驅逐艦を狙うよう指示し、砲撃は発砲焔で自艦の位置を暴露するので禁止としました。

0258時、日本艦隊との距離6海里に迫った時点で、カワード大佐は各艦に煙幕を展張しつつ左変針、随意雷撃を開始するよう指示し、0300時、東側隊の3艦は距離7,500~8,500米から搭載する53糎魚雷を相次いで投射(3艦合計27本)しました。目標到達までおよそ8分。
この直後、日本艦隊から照射砲撃が東側隊に浴びせられ、東側隊は35節(時速約64.8粁)で左旋回しつつ北方に離脱しました。
東側隊は『山城』、驅逐艦群の砲撃を受け、探照燈による照射だけでなく、星弾による間接照明によってその姿が闇夜に浮かび上がりましたが、各艦に命中弾はなく、全艦、日本側の砲撃圏から脱出しました。

星弾についての簡単な説明は本ブログ四方山話《五〇口徑三年式一二糎七砲》を参照ください。


0310時ごろ、『扶桑』右舷に魚雷命中。『扶桑』は右舷に傾斜をはじめ、右にそれて艦隊から離れていきました。ほどなくして『扶桑』は航行不能に陥ったもようで、米側記録では0338時に大爆発を起こし、艦体は2つに割れ、激しく燃え盛りながらおよそ600米の距離をおきながら南へ向かって漂流を始めました。
その光景はまるで2艦が炎上しているようなものでした。
この『扶桑』の被雷、落伍炎上を西村司令官は把握していなかったようで、その後も『扶桑』が健在なものと判断していたそうです。

米軍の記録では、『扶桑』は1時間ちかくも炎上しつつ海上にありましたが、0430時に海峡内で沈没しました。
阪匡身艦長以下乗員およそ1,400名(予備艦当時の定員は1,351名)はその全員が艦と運命をともにしました。
ちなみに、阪艦長の父は宮廷歌人として皇族たちに和歌や書を教えていた宮内省御歌所寄人の阪正臣氏です。


フィリップス中佐の西側隊は0256時に14.5海里(約26.9粁)先に日本艦隊を電探で捕捉。反航態勢で南下していた西側隊は0308時に南東方面針路130度に変針、さらなる接敵行動を開始しました。
これに日本側も応戦、『モンセン』の周囲に多数の砲弾が落下しました。

0309時、西側隊の2艦は真南に針路をとり、0311時、2艦合計で20本の魚雷を西村艦隊めがけて発射しました。
日本軍の酸素魚雷と違って空気魚雷を用いているため、その航跡に夜光虫が集まって青白い条を浮かび上がらせました。

西村艦隊はレイテ島方面から接近してくる西側隊の驅逐艦から発射された魚雷群の航跡を発見、これを躱すべく0316時、右90度一斉回頭して2分間直進、0318時に方位0度真北へ向けて一斉回頭。0320時に緊急左45度への変針を行なったところ、西側隊の発射した魚雷の進路に突っ込む形となってしまい、『山雲』が大爆発を起こして瞬時に轟沈。『満潮』が左舷機械室付近に被雷して速力低下。『朝雲』は前部1番砲直下に被雷して艦首を吹き飛ばされました。
さらに『山城』も『モンセン』が発射した魚雷が左舷後部に1本命中しました。
0322時、西村司令官は栗田司令長官宛に緊急信として、《敵ラシキ艦影見ユ》と発信。つづけて0330時に《第二戰隊機密第二五〇三三〇番電》として、

スリガオ海峡北口ニ敵驅逐艦 魚雷艇アリ 味方驅逐艦二隻被雷遊弋中 山城被雷一 戰鬪航海ニ支障ナシ

と連絡しました。

西側隊は雷撃後、西へ右旋回しつつ北方へ脱出を図りました。日本側から照射砲撃を受けましたが、煙幕の展張と必死の之字運動で躱しきり、東側隊同様、無事に日本側砲撃圏から離脱しました。


カワード哨戒水雷戦隊の雷撃終了後からほどなくして、西村艦隊はバーケイ少将の右翼部隊から進撃してきたマクメーンズ大佐の第24水雷戦隊の攻撃を受けました。
0254時、バーケイ少将はマクメーンズ大佐に戰鬪用意を命じ、0302時に南下進撃を下令しました。
マクメーンズ大佐の乗るUSS『ハッチンズ』DD-476は艦橋直下にCIC―――戰鬪情報指揮所―――を設けており、艦橋からでなくCICから戰隊の指揮をとることが可能でした。
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CICを備えたフレッチャー級驅逐艦

第24水雷戦隊は部隊を2つにわけ、マクメーンズ大佐が指揮する第1小隊は『ハッチンズ』、『ダリイ』、『バッチェ』を配して西側。
濠太剌利海軍のブキャナン中佐が指揮する第2小隊は『アルンタ』、『キレン』、『ビーレ』を配して東側。
この2個小隊をもってレイテ島東岸沖を南下していきました。

第2小隊が日本艦隊を発見し、雷撃態勢にはいった0319時、フィリップス中佐の西側隊の雷撃を受けた『山雲』が爆発轟沈して周囲が照らされたため、第2小隊の攻撃を容易にしました。
0322時、『アルンタ』は距離6,000米から『時雨』に向けて4本の魚雷を発射しましたが命中なし。
0325時に『キレン』が距離8,000米から『山城』へ5本の魚雷を射ち、そのうちの1本が命中。『山城』は一時的に5節程度にまで減速しましたが、艦停止状態に陥ることはありませんでした。
『山城』へ向けて0328時、『ビーレ』が6,200米の距離から5本の魚雷を投射しましたが、こちらは命中しませんでした。

第1小隊は0329時から0336時までのあいだに、各艦5本の計15本の魚雷を距離7,500~9,700米から日本艦隊へ向けて発射しましたが、こちらも命中戦果はありませんでした。
『バッチェ』は日本艦隊へ向けて砲門を開き、日本艦隊と一時射撃戦を演じましたが、双方ともに命中弾はありませんでした。

マクメーンズ大佐の2箇小隊は0340時、南下しつつあった日本驅逐艦を発見、これに対し砲戦を開始。『朝雲』、『満潮』と思われるその2艦に砲撃をしかけたものの、米側も日本側の砲撃を受けつつある状況にありました。

マクメーンズ戰隊の魚雷攻撃が終了した時点で、西村艦隊で北上を継続したのは旗艦『山城』1艦のみで、隊列最後尾の『最上』は『時雨』とともに米驅逐艦群への応戦で隊列から遅れだしており、『扶桑』は大破炎上して南へ漂流中。『山雲』はすでに海上に姿なく、艦首を喪った『朝雲』と、機械室浸水で速力が落ちた『満潮』はゆっくりと南に向かっていました。

0335時、オルデンドルフ司令官率いる左翼部隊から、スムート大佐の第56水雷戦隊が攻撃命令を受領して進撃を開始。
同戰隊はスムート大佐指揮の第1驅逐小隊の『ニューコム』、『アルヴァート・ウェストン・グラント』、『リチャード・フィリップス・レアリー』が中央に占位。第112驅逐隊コンレイ大佐の第2驅逐小隊『ハルフォード』、『ロヴィンソン』、『ブリアント』がその東側。ブールウェア中佐の第3驅逐小隊『ルーツェ』、『ヘイウッド・ラン・エドワーズ』、『ヴェニオン』が第1驅逐小隊の西側に展開し、各艦25節(時速約46.3粁)で南下を始めました。

一方、右翼部隊のバーケイ少将は0349時、主力大型艦群の砲戦射界を邪魔しないようマクメーンズ大佐に北方への離脱を命じました。
これを受け、『ハッチンズ』は残存魚雷5本を微速航行中の日本驅逐艦(『朝雲』)に向けて発射。この魚雷は『朝雲』を外れましたが、その至近でとうとう航行不能に陥ってしまった『満潮』に命中、轟沈。米軍記録では0358時に沈没となっています。
マクメーンズ大佐はさらに大型艦(『最上』)に艦砲射撃を浴びせて0356時、同艦に火災を発生させましたが、『山城』の副砲による射撃を受けたため、これを回避しつつ北方へ脱出しました。

スムート大佐の第56水雷戦隊の第2驅逐小隊は0345時、南方に敵影を発見、0351時にその敵艦からの射撃を受けましたが応戦せず、0354時から5分間のあいだに各艦5本の計15本の魚雷を発射しました。距離7,600~8,200米から射ちだされた魚雷はすべて命中せず、小隊はヒブソン島寄りに反転して北へ退避しました。
第3驅逐小隊も0357時からの数分間で、距離7,100~7,300米から『山城』、『時雨』へ魚雷を発射しました。この魚雷攻撃の成果はありません。
小隊は『山城』、『時雨』の射撃を受けましたが、煙幕を展張してレイテ島方向に旋回しつつ北方へ退却していきました。

スムート大佐の第1驅逐小隊は、スリガオ海峡海戰に参加した驅逐艦部隊のなかで一番の災厄に見舞われました。
小隊は0400時、『山城』が減速しつつ西に転針しつつあるのを電探で捕捉。スムート大佐は『山城』と並行するよう変針し、0404時に距離5,600米から各艦5本の計15本の魚雷を発射しました。
このうちの1乃至2本が0411時ごろに『山城』に命中、これで『山城』は航行不能となりました。
戰艦撃破の戦果を挙げたものの、日本艦隊に接近しすぎたため、第1驅逐小隊は日本側のみならず、米戰艦の味方射ちまで受ける形となりました。
『ニューコム』、『リチャード・フィリップス・レアリー』は砲戦域から脱出に成功しましたが、最後尾の『アルヴァート・ウェストン・グラント』は0407時に命中弾を受け、誘爆を避けるため残存魚雷を発射してから最大速力で脱出を図りました。
しかし、戦場脱出までに18発の命中弾を受けて0420時には航行不能に陥ってしまいました。引き返した『ニューコム』によって曳航され、『アルヴァート・ウェストン・グラント』は戦死34、戦傷94を出しつつもどうにか脱出に成功しました。
なお、18発の命中弾のうち11発が友軍の6吋砲弾で、のこりは日本側の発射した5吋砲弾でした。

この一連の米驅逐艦部隊の攻撃行動は、太平洋戦争における米海軍部隊の最高戦績のひとつとされており、とくにフィリップス中佐の第108驅逐隊の功績は大でした。

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オルデンドルフ艦隊旗艦USSルイスヴィルCA-28

これら驅逐艦部隊による波状攻撃が行なわれている中、ウェイラー少将の中央部隊戰艦群と左右両翼の巡洋艦群は0330時にスリガオ海峡北西部に集結しました。
レイテ島寄りにバーケイ少将の巡洋艦『フェニックス』、『ボイス』、濠太剌利海軍巡洋艦『シュロップシャー』。
バーケイ少将の隊の東およそ5海里(約9.3粁)にオルデンドルフ司令官率いる巡洋艦『ルイスヴィル』、『ポートランド』、『ミネアポリス』、『コロンヴィア』、『デンヴァー』。
オルデンドルフ隊の北方3.5海里(約6.5粁)にウェイラー少将の戰艦『ウェスト・ヴァージニア』、『メリーランド』、『カリフォルニア』、『テネシー』、『ペンシルヴァニア』、『ミシシッピー』が展開していました。
これら米主力艦群は北上してくる日本側の針路を直角に抑えるため、横二列に広がっており、T字型を描けるようになっていました。
この戰鬪方式は明治38年5月27日、対露戦役で東郷平八郎が用いた戦法であり、以後、各国の海軍将校が実戦で試みることを最も望んだものでした。

米主力艦群は0323時には電探で西村艦隊を捕捉、彼我の距離は0330時には3萬米となりました。この時点でウェイラー少将は戰艦群に対し、距離23,700米で射撃を始めるよう指示しました。

0351時、旗艦『ルイスヴィル』と西村艦隊との距離が14,200米になるや、オルデンドルフ司令官は全巡洋艦に射撃開始を下令。戰艦群も少し遅れて0353時、砲戦距離20,700米で射撃を始めました。

12節で北上していた『山城』は米戰艦よりもやや早い0352時に光学照準による射撃を開始し、ここに史上最後の戰艦同士の砲撃戦が展開されました。

しかし、戰艦6、巡洋艦8、驅逐艦6からなるこの砲戦部隊に対し、西村艦隊はわずか『山城』、『最上』、『時雨』の3艦のみ。
この絶望的な状況下にあって、西村司令官は続行してくる志摩司令長官に、自隊の戦況をなんら報告しませんでした。

『最上』は0355時、61糎魚雷4本を発射し回頭して南に向かおうとしたところ、『ポートランド』などの巡洋艦の6~8吋砲弾3発が艦橋を直撃。士官総員がこの直撃弾で戦死、全滅という事態になりました。破壊された艦橋で生き残ったのは、わずか4名の信号員だけでした。
『最上』はさらに数発の命中弾を機械室、罐室に受けて航行速力が停止寸前にまで激減してしまいました。

『山城』は砲雷撃にさらされ、西村司令官より各艦宛、《我魚雷ヲ受ク 各艦ハ前進シテ敵艦隊ヲ攻撃スベシ》と発信したのち沈黙、ここに西村司令官率いる第一遊撃部隊第三部隊は統制された攻撃力を完全に喪いました。

米戰艦6艦のうち、『ウェスト・ヴァージニア』、『テネシー』、『カリフォルニア』は新型の射撃管制用電探を搭載しており、戰艦群の中核として君臨していました。とくに『ウェスト・ヴァージニア』は『長門』、『陸奥』とならぶビッグ・セヴンの1艦であり、同型の『メリーランド」ともども、搭載する16吋砲はスリガオ海域において最強の火力を誇っていました。
『ウェスト・ヴァジニア』は0353時に16吋砲の砲門を開き、『テネシー』、『カリフォルニア』の14吋砲は0355時に射撃を開始し、3戰艦は6斉射を日本艦隊に浴びせました。
『メリーランド』、『ペンシルヴァニア』、『ミシシッピー』の射撃用電探は旧式のため敵の捕捉が遅れてしまい、『メリーランド』は0359時になって『ウェスト・ヴァージニア』の発射した砲弾が引き起こす水柱を目印にようやく射撃を開始。『ミシシッピー』は0409時にわずか1斉射だけにとどまり、『ペンシルヴァニア』にいたってはついに射撃の機会は得られませんでした。

米戰艦群は0359時に真東方向方位90度から東南東方位120度に回頭、0402時に今度は真西方位270度に針路変更。逆番号単縦陣となり、西村艦隊への砲戦を継続しました。この時、スムート大佐の驅逐艦3艦が雷撃を終えて離脱しようとしているところで、米戰艦と巡洋艦はこの味方驅逐艦も敵艦と誤認して射撃を浴びせていました。
0409時、『ミシシッピー』の1斉射を最後に友軍誤射防止のため射撃中止となりました。ほどなくして、0413時、退却中のスムート大佐指揮下の『リチャード・フィリップス・レアリー』が後方より接近し来る魚雷を発見、全艦に警報を発しました。
この魚雷は『最上』が0355時以降に発射したうちの1本で、この雷撃を回避するためウェイラー少将は0418時、『ミシシッピー』、『メリーランド』、『ウェスト・ヴァージニア』に針路を真北に向けて戦線離脱するよう命じました。

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米戰艦と日本艦隊の距離は、0355時の東南東変針時において『山城』とは19,100米になっており、『最上』は『山城』の南2,700米を航行していました。
『山城』と『最上』は主砲を巡洋艦へ、副砲と高角砲を避退中の驅逐艦群に指向して射撃中でした。日本側の砲撃は『アルヴァート・ウェストン・グラント』にのみ命中弾を得たのみで、退却中の『クラックストン』は至近弾の水柱に包まれたものの、直撃弾はなく、北方への撤収に成功しました。

巡洋艦部隊は0351時に『デンヴァー』が砲門を開き、続いて『コロンヴィア』、『ミネアポリス』、『ポートランド』が『山城』を目標に射撃をはじめました。
その射撃目標も0358時に『ポートランド』は『最上』に変更、『デンヴァー』は『時雨』に目標を変更しましたが、『アルヴァート・ウェストン・グラント』を敵艦と誤認して砲撃しました。
『デンヴァー』の砲弾数発が命中したほか、『ルイスヴィル』も『アルヴァート・ウェストン・グラント』を敵と誤認して射撃しましたが、さいわい、こちらの8吋砲弾は命中しませんでした。
左翼巡洋艦群は0409時の射撃中止までに300發以上の砲弾を発射しました。

右翼部隊の3艦は0351時から『山城』を目標に射撃開始。しかし『フェニックス』、『ボイス』は弾薬節約を命じられて積極的な砲撃は行なえず、『シュロップシャー』も0356時にようやく砲門を開きましたが、右翼部隊の周囲に落下するだけの日本側の14吋、8吋砲弾同様、右翼部隊の砲撃も日本側に打撃を与えることはできませんでした。

0400時ごろ、激しく炎上を始めた『山城』はよろよろと進路を西に、そして南へ変え始め、随伴の『最上』は逸早く南下していました。その『最上』は前述したとおり、艦橋への直撃弾で士官総員戦死、速力低下の被害を受けて炎上しました。
『時雨』は0356時ごろから東へ旋回するように反転を始め、その途上で直撃弾1發を受けましたが、幸いにも不発弾のため事なきを得ました。
ただし、多数の至近弾とその破片で羅針盤と通信機が破損、南下撤収中に舵故障という事態に陥りましたが、人力操舵で戦線離脱に成功しました。

『山城』は南西に向け針路を変えつつある時点でスムート大佐の驅逐艦の雷撃を受けて、合計で4本の魚雷が命中して傾斜が増大。航行不能となって転覆、艦尾から沈没していきました。米側記録では0419時、日本艦隊でもっともレイテ湾にちかい海域にその巨影を没しました。

『山城』乗員およそ1,400名のうち、生還したのは米軍に救助され捕虜となった准士官2、下士官兵8にすぎず、篠田勝清艦長以下乗員の多くは艦と運命を共にしました。
戦後、復員帰国した『山城』主計長の江崎主計大尉は昭和20年12月10日の帰還報告で述べています。

「最初の魚雷を左舷後部にうけ、速力が低下し始めたころ、間断なし艦砲射撃により艦橋付近に火災を生じ、前部1、2番砲塔だけで応戦したが、ふたたび驅逐艦の雷撃を左舷中部にうけて艦内通信が断たれた」

0419時、オルデンドルフ司令官は戰艦群を含めて全艦に射撃再開を命じましたが、すでに各艦の電探に敵影は映りませんでした。

本来であればレイテ湾ダラグ沖に突入していた時刻であった0420時の段階で、『山城』、『山雲』『満潮』の3艦は海底に沈み、2つに割れた『扶桑』がなお激しく炎上しながら漂流し、艦橋全滅ながらも微速航行の『最上』と舵故障の『時雨』が南方に撤退中、『朝雲』が艦首を喪って海峡内で停止していました。

ここに西村艦隊は潰滅したのでした。


◆第七項 志摩艦隊スリガオ海峡突入

西村艦隊につづいてスリガオ海峡に突入した志摩艦隊の情況について説明します。

10月23日1800時にコロン泊地にはいった志摩艦隊こと第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)の戦力は、第二一戰隊の巡洋艦『那智』、『足柄』、第一水雷戦隊の巡洋艦『阿武隈』、第七驅逐隊『曙』、『潮』、第一八驅逐隊『不知火』、『霞』の7艦で、別働の第二一驅逐隊『若葉』、『初春』、『初霜』の3艦は23日0900時にマニラを出撃し、24日2000時にミンダナオ島沖で合流予定で進撃中でした。

コロン泊地で燃料を補給する予定でしたが、ブルネイでの第一遊撃部隊同様、こちらでも戰務上の手違いから油槽船は入港しておらず、やむなく巡洋艦から驅逐艦へ燃料を移載して24日0200時、コロン泊地を出撃し、宿願のレイテ突入を目指してスリガオ海峡を目指しました。

志摩艦隊の作戰目的は次のごとくとなっており、西村艦隊と違い夜戦よりも昼戦を念頭に置いていました。

1.狭隘未知なる敵地に寡少兵力を以て突入するに当たり、局地夜戦を選ぶことは徒に混戦となり、成果を予期し難いので、日出時刻を勘案して25日0600スリガオ海峡を通過する如く進撃する。
2.戰鬪は旗艦を先頭とした単縦陣を以て実施する。もしスリガオ海峡入口に敵有力部隊が待機する場合は、巡洋艦戰隊まず雷撃を行ない、驅逐隊進撃の突破口を開き驅逐隊を進撃させ、巡洋艦はあとに続いて驅逐隊を支援しつつ進撃する。
3.突入戰鬪は、概ね右回りに実施、主目標を母艦、巡洋艦以下輸送船とし、なお情況が有利ならば陸上物資集積所を砲撃することもある。


志摩艦隊は24日の昼ごろにはネグロス島の西方沖合からスルー海の東端近くにまで順調な航海を続け、スリガオ海峡通過を予定より早めることにし、通過時刻を0500時に再設定しました。

先行する西村艦隊からは何の連絡もありませんでしたが、主力である第一遊撃部隊第一・第二部隊がシブヤン海で激しい空襲を受けて遅れていることは知っていました。
西村艦隊が栗田艦隊とのレイテ共同突入を断念して独力でレイテ突入を決意しているとみなした志摩司令長官は、西村艦隊と歩調を合わせるべきと判断し、スリガオ海峡通過をさらにはやめることとし、24日1745時、《第二遊撃部隊信令第一四七號》でスリガオ海峡通過時刻を0300時にする旨決定しました。

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志摩艦隊に随伴した一等巡洋艦足柄

栗田司令長官の反転を伝える《第一遊撃部隊機密第二四一六〇〇番電》、豊田聯合艦隊司令長官からの全軍突撃電を受信したものの、依然として栗田司令長官からレイテ突入の調整を伝える連絡は来ませんでした。
一方、西村司令官からの《第二戰隊機密第二四二〇一三番電》、すなわち25日0400時ごろにダラグ沖突入予定の通信を受信したので、志摩司令長官は2245時、西村司令官宛《第五艦隊機密第二四二二四五番電》で第二遊撃部隊の後続突入を伝えました。

第二遊撃部隊〇三〇〇スリガオ水道南口通過 速力二〇節ニテ突入ノ予定

第二遊撃部隊と合流すべく南下中であった第二一驅逐隊は0813時、ミンドロ島の南で米空母機およそ20機の空襲を受け、司令驅逐艦『若葉』は0858時に被弾沈没。つづいて1152時に8機程度の米空母機が再来襲し、この空襲で『初霜』が被弾損傷撃破されたため、第二一驅逐隊はこれ以上の進撃は不可能としてマニラへ引き返していきました。

第二一驅逐隊の合流が不可能となったものの、第二遊撃部隊は進撃を継続し1925時ごろにミンダナオ海にはいりました。
レイテ湾の敵情が不明なまま進撃中の2300時ごろ、左舷前方に発砲炎らしき閃光を認め、米軍の電話通信らしいものを相次いで傍受するようになりました。しかし、予想していた米魚雷艇の襲撃はなく、志摩艦隊は25日0100時にボホール島の南方に達しました。
夜半から上空は厚い雲に覆われ、ときおり、激しい驟雨が艦隊各艦を洗いました。スリガオ海峡が近づくにつれて驟雨はますます激しくなり、視界が狭まって海峡入口の確認は困難となっていました。

志摩艦隊は『潮』と『曙』を左右先頭に配し、その後方に『那智』、『足柄』、『阿武隈』、『不知火』、『霞』が単縦陣で続く第四接敵序列で航行していました。

志摩司令長官は0101時、《第五艦隊機密第二五〇一〇一番電》で以下のやうに各部隊宛発信しました。

第二遊撃部隊二五日〇三〇〇スリガオ海峡南口ヨリ突入 ダラグ方面ヲ経テレイテ湾内ヲ概ネ右廻リニ行動 敵ヲ蕩滅シツツスリガオ海峡南口ニ向ウ予定 〇九〇〇燃料残額一八節約二昼夜分

攻撃終了後のレイテ湾からの脱出方向がスリガオ海峡となっており、栗田司令長官がスルアン島の北東10海里で合流せよと西村艦隊に宛てた指示とは異なっていました。
電文の最後に燃料残額を報告していることから、第二遊撃部隊は帰投を前提とした突入であることを示していました。

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驅逐艦 潮

0313時、左前方を警戒先行していた『潮』は前方方向に不安を感じたのか取舵をとって反転、最後尾の『霞』のあとにつこうとしたところ、巡洋艦『阿武隈』はこれを敵と誤認して射撃をくわえてしまいました。幸いにも被害はありませんでした。
なお、米軍資料では、このときパナオン島南方で魚雷艇『PT-134』がスコールをついて志摩艦隊を攻撃したとなっています。志摩艦隊の戰鬪詳報には、この時刻に魚雷艇との交戦を記したものはないため、実際のところは不明です。

0320時、驟雨と漆黒の闇の中を航行していた単縦陣先頭の第五艦隊旗艦『那智』は、驟雨のなかから突如として現れた海峡入口の断崖をに衝突しそうになり、艦隊は右90度緊急一斉回頭してこれを躱しました。
断崖を回避してまもない0324時、『阿武隈』は左後方500米に魚雷の雷跡を発見、回避行動をとる余裕もなく左舷前部に命中、艦首が沈下して速力が微速近くにまで著しく低下し艦隊から落伍し始めました。

『阿武隈』を雷撃したのは『PT-137』で、本来の目標は回頭中の『潮』でした。

0330時、志摩司令長官は警戒艦を戻し、旗艦先頭単縦陣で針路真北0度方向に定め、速力26節(時速約48.2粁)で突撃を開始しました。
この時の編制は『那智』、『足柄』、『不知火』、『霞』、『曙』、『潮』の順に並んでいます。

この頃から、進撃方向の北方海上に照明と発砲炎が認められるようになりましたが、北から流れてくる煤煙や硝煙で視界が悪く、戦況は不明でした。

0400時ごろ、海峡中央付近で2つの艦影が600米の距離を置いて漂流炎上しているのが認められました。志摩司令長官はこの炎上艦をその幅広の艦体から西村艦隊の『山城』と『扶桑』と見なしました。しかし、前述した通り、これは『扶桑』の艦体が2つに割れたものです。
0410時、志摩司令長官は《第二遊撃部隊戦場到着》と打電し、炎上し続ける『扶桑』の西側を通過して北上を継続しました。

北方海上は煙幕が流れていて何も見えず、砲声も止んで静寂に包まれていました。
志摩艦隊は右舷方向に炎上艦『最上』を発見し、その西方を通って北進を続けました。艦隊は敵を発見次第、雷撃で応戦しようとしていました。
0415時、『那智』の電探が右舷側方位25度11,000米に敵らしい目標反応を捉えました。
0424時、『那智』と『足柄』は面舵をとりつつ第五艦隊参謀長の松本毅大佐の下令で8本ずつ計16本の61糎魚雷を発射しました。
この魚雷攻撃は、命令権のない参謀長が志摩司令長官の確認を得ずに独断で行なったものでした。
戦後、志摩司令長官はこの時のことを回想しています。

参謀長が発射を命じたとき、瞬間「しまった」と思った。しかし艦は発射運動に入っており、ここで中止を命じれば却って混乱を招くと思い、この雷撃分は棄てる覚悟で黙認した。これはまったくわたしの部下掌握の不確実に起因するもので、まことに慙愧に堪えない。

しかし、この魚雷攻撃の目標となったのは米艦ではなく、海峡北側に位置するヒブソン島で、当然のごとくヒブソン島に被害はありませんでした。

志摩艦隊にとって災難となる事態が続けて起こりました。
雷撃を終えて右回頭中の『那智』は、炎上停止中と判断していた『最上』が微速に近い速度で南下中とは気づかず、『那智』は面舵いっぱいで躱そうとしましたが叶わず、交角およそ20度で『那智』の艦首を『最上』の右舷前部に衝突させてしまいました。
両艦は並行密着したまましばらく航行していましたが、しばらくして分離に成功しました。しかしこの衝突で『那智』の艦首左舷は激しく損傷し、出し得る速力は18節にまで低下してしまいました。

ちなみに、米軍記録では0430時に『那智』と『最上』は衝突し、『最上』の艦首で『那智』の艦尾が破壊されたとなっていますが、正しくは『那智』の艦首が『最上』右舷前部に衝突です。

『最上』との衝突は災難でしたが、停止に近い速度で南下していた『最上』は奇跡的に航行速力を恢復し、志摩艦隊のあとを追うように速度を増してスリガオ海峡南口へと避退していきました。

志摩艦隊の驅逐艦4艦は巡洋艦隊の受難をよそに北上突撃に移っていました。
志摩司令長官は驅逐隊に続いてレイテ湾に突入すべきと判断しましたが、松本参謀長以下幕僚が反駁しました。
このまま突入すれば敵の術中に陥るだけで、第一遊撃部隊主隊の動向も不明であるので、海峡外で情勢を見るべき、との主張を受け入れ、志摩司令長官は突入を断念、全艦に反転を命じました。
幸いというべきか、驅逐隊の突撃方向に敵はいないため、米艦と遭遇することも攻撃を受けることもありませんでした。

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0425時、志摩司令長官は《第二遊撃部隊機密第二五〇四二五番電》で、

当隊攻撃終了 一応戦場離脱 後図ヲ策ス

と打電し、海峡を南へ向かいました。
その途中、炎上する『扶桑』の至近を通過しましたが、その姿は凄惨なものでした。
0440時ごろ、舵が故障している『時雨』を発見。『時雨』は合流できず、単独で海峡から脱出せざるを得ませんでした。この『時雨』は0455時、魚雷艇『PT-321』と交戦し、被害なくこれを撃退しました。

南下する志摩艦隊はさらに単独で北上してきた『阿武隈』を認め、これに合流を命じました。
0449時、志摩司令長官は関係各部隊宛、《第二戰隊全滅 最上大破炎上》と打電しました。
この電文はサマール島沖をレイテ湾目指して南下中の第一遊撃部隊に0522時ごろ着電し、深刻な衝撃を与えました。

25日黎明、志摩艦隊は米主力と遭遇することなくスリガオ海峡を南へと引き揚げていきました。
艦隊は『那智』、『足柄』、『霞』、『不知火』が主隊となり、雷撃で撃破された『阿武隈』は『潮』に、大破炎上中の『最上』は『曙』の護衛を受けて撤退中でした。

このほか、西村艦隊の残存艦『時雨』が人力操舵で海峡を単独で脱出しようとしており、航行不能となった『朝雲』が海峡内に取り残されていました。

かくして―――
西村・志摩両艦隊の攻撃は失敗し、敗走していきました。


◆第八項 海戰を終えて……

0430時、中央部隊のウェイラー少将はオルデンドルフ司令官宛、12海里(約22.2粁)南方に南下していく日本艦3艦(『那智』、『足柄』、『最上』)を電探で発見したと報告し、米艦隊による追撃掃蕩戦が開始されました。

オルデンドルフ司令官は中央部隊のエックス・レイ驅逐隊の驅逐艦6に対し魚雷戦を命じ、バーケイ少将の右翼巡洋艦群にもレイテ島沿いに南下するよう指示しました。
さらに『ワサッチ』のキンケード司令長官に航空支援を要請しました。

フッバード中佐の率いるエックス・レイ驅逐隊は戰艦群の直衛に就いていましたが、日本潜水艦のレイテ湾侵入の可能性が低いことから、追撃戦に投入されました。しかし、通信上の不備によるものか、その出撃は30分ちかくも遅れてしまい、25節で進撃したもののついに日本艦艇を捕捉することはできませんでした。
結局、0535時にオルデンドルフ司令官の左翼巡洋艦群の護衛に附くよう命じられ、同隊による日本艦隊攻撃は行なわれませんでした。

0555時、エックス・レイ驅逐隊の驅逐艦『クラックストン』は海峡中央付近で漂流中のおよそ150名程度の日本将兵を発見しました。オルデンドルフ司令官は情報収集のため、数名を救助するよう命じました。
救助のボートが下されて漂流者のもとに向かいましたが、士官らしい日本兵が近寄らないよう指示しているせいか、どうにか3人だけ引き上げることができました。
このとき米軍に救助された乗員のひとりは『山城』乗組みの英語の話せる兵曹長でした。

オルデンドルフ司令官の巡洋艦群はスムート大佐の駆逐隊を前衛に0432時、15節(時速約27.8粁)というゆっくりとした速度で南下を始めました。
しかし、この部隊の追撃も不発に終わりました。
0500時ごろ、『ルイスヴィル』の電探が4~5艦程度が海峡内にいることを突き止めました。この艦隊は志摩艦隊で、北上を断念して南に針路を変えつつありました。

0525時までに左翼巡洋艦群はディナガット島の北西沖海域にまで進出しましたが、ここは『那智』と『最上』が衝突した海域でした。
ここから南の海上に艦影3を認め、うち2つは炎上していました。
この頃から、次第に海上は明るくなっていきました。

オルデンドルフ司令官は南方の艦影が日本艦であることを確認したうえで、『ルイスヴィル』、『ポートランド』、『デンヴァー』に射撃を命じました。
この艦砲射撃の目標となったのは『最上』で、数発の命中弾がありましたが致命傷にはなりませんでした。
オルデンドルフ司令官は日本軍の雷撃を恐れ、0537時に巡洋艦群に反転北上を命じました。このため、『最上』は撃沈の危機を免れることができました。

オルデンドルフ司令官の巡洋艦群の反転に続き、バーケイ少将の右翼巡洋艦群も志摩艦隊が電探射撃の範囲外に離脱していったため、0540時、北方の戰艦群の護衛を命じられて引き揚げていきました。
しかしこのあと、オルデンドルフ司令官は0617時になって再び南下を始めました。

主力部隊の追撃が不発に終わる一方、魚雷艇隊がまたぞろ活発に動き始めました。
まず0600時、『PT-491』はパナオン島の東方海上で低速南下中の『最上』を発見しこれを追撃。『最上』の8吋主砲の射撃を受けながら2本の魚雷を発射して退却していきました。
『最上』の砲撃も『PT-491』の雷撃も成果はありませんでした。

0620時、パナオン島の南方洋上で志摩艦隊は魚雷艇隊の襲撃を受けました。『那智』は『PT-150』の雷撃を回避し、『PT-149』を撃破しました。
志摩艦隊は0630時にも『PT190』の雷撃を受けましたが、双方に被害はありませんでした。

0645時、速力が12~14節にまで恢復した『最上』と護衛艦『曙』に、『PT-137』が攻撃を仕掛けました。士官総員戦死後もなお戦意旺盛な『最上』は『曙』と共同でこの攻撃をしのぎ、撃退に成功しましたが、『最上』の後部の火災は鎮まる気配をみせませんでした。

すでに日が昇り始めた0643時、追撃戦再開のため南進を始めていたオルデンドルフ司令官は、巡洋艦『デンヴァー』、『コロンヴィア』、驅逐艦3に残敵掃蕩を命じました。

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海峡内の残敵掃蕩に参加した巡洋艦USSデンヴァーCL-58

この5艦の攻撃目標にされたのは、海峡内で漂っていた西村艦隊残存の驅逐艦『朝雲』でした。
『朝雲』はフィリップス中佐の驅逐隊による雷撃で艦首を吹き飛ばされて以来、海峡内で停止していました。それでも『朝雲』は数度の魚雷攻撃をしのぎ、複数の米驅逐艦と砲火を交え、依然として海上にその姿を浮かべていました。

その『朝雲』にエックス・レイ驅逐隊の『コニイ』、『シガーネイ』が砲雷撃戦を挑み、『デンヴァー』、『コロンヴィア』が搭載する6吋砲の斉射を浴びせました。
『朝雲』はそのような絶望的な状況下にあっても戦意を喪わず、前甲板が没しつつありながらも後部砲塔を旋回させて応射してきました。
しかし、その勇敢な『朝雲』も、0721時、最後の射撃とともに艦尾から沈んでいきました。
沈没地点はスリガオ海峡内中央部、パナオン島カニグィン岬とディナガット島ツンゴー岬のほぼ中間です。

行動の自由すらなく、嬲り殺しにちかい状況下にあって降伏することなく旺盛な戦意で応戦し続け、ついに力尽きて沈んだ『朝雲』の最後は、追撃部隊の米海軍将兵に深い感動を与えたとされます。

米水上艦部隊はこの『朝雲』の撃沈を以て追撃掃蕩戦を終了させ、レイテ湾への引き揚げが命じられました。

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護衛空母USSサンガモンCVE-26上の艦載機群

トーマス・ラミソン・スプラグー少将が指揮する第7艦隊第77任務部隊第4群の護衛空母部隊3箇戰隊のうち、ミンダナオ北東海域に展開していたのはトーマス・スプラグー少将が直接率いる第1戰隊です。この戰隊は旗艦である護衛空母USS『サンガモン』CVE-26を含む護衛空母4、随伴護衛艦7で構成されていました。

第4群の主な任務は、レイテ島の地上航空基地の整備が整うまでの航空支援にありました。
第4群は25日0155時、キンケード司令長官からスルアン島の北方海域を哨戒索敵するよ命じられたほか、夜明け頃には上陸部隊支援のための戰鬪機、レイテ湾内の対潜哨戒のための攻撃機の発艦作業が始められました。

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護衛空母USSサンガモンCVE-26 排水量11,400噸 速力18節 搭載25機

第1戦隊はスリガオ海峡から脱出する日本残存艦隊追撃を命じられ、0545時、戦爆連合28機を発艦させました。
この攻撃隊はミンダナオ海を西に向かって航行中の『最上』を0910時に捕捉、攻撃を加え直撃弾2発を与え、鎮火しつつあった火災を再燃させました。

この航空攻撃で、スリガオ海峡内での戰鬪被害に堪えてきた『最上』はついに自力脱出を断念。内火艇などのボート類が悉く破壊されていたため、護衛艦『曙』を横付けして乗員を退艦させました。
1230時、『曙』の雷撃によって『最上』はパナオン島ビニト岬南東38海里(約70.4粁)にその雄姿を沈め去りました。

劣勢な戦闘情況下の海峡内で敢闘し、士官全滅という事態に陥ったものの、その後も戦意と戰鬪力を喪わなかった『最上』の勇戦は、捷一號作戰の日本艦艇の戦歴のなかでも、ひときわ輝くもののひとつでありました。

志摩艦隊は0918時、米空母機14機と触接しましたが、この米軍機は攻撃せずに引き返していきました。
これは第五艦隊司令部付電信班のK少尉(明治大学卒、布哇出身の日系二世)が得意の英語で、「母艦は攻撃を受けつつあり。攻撃をやめてただちに母艦に引き返せ」との偽電を発したからと言われています。

スリガオ海峡に突入した西村艦隊、志摩艦隊は、水上艦群の不徹底な追撃と、鋭さに欠けた航空攻撃のおかげでそれ以上被害を拡大することなく、戦場を離脱して西へ撤収することに成功しました。

西村艦隊で唯一の生存艦となった『時雨』は25日1018時、栗田司令長官、豊田聯合艦隊司令長官など関係部隊各隊に宛て、《時雨機密第二五一〇一八番電》を発して戦闘情況を報告しました。

第三部隊ハ〇一三〇スリガオ南口通過〇三五五ヒブソン島ニ至ル間ニ於テ 有力ナル敵艦隊(戦艦四 巡洋艦五 驅逐艦五以上ト推定)ト最後迄各艦奮戦セシモ我ノ他 砲雷撃ヲ受ケ沈没(第四驅逐隊ノ一艦不確実)セリ 本艦最後迄戦場ニ在リシモ遂ニ一艦トナリ且敵ハ巧ニ島影ヲ利用 分散配置ヲ取リ 電測ヲ極度利用シアル為敵情ヲ明ニシ得ズ 一応戦場ヲ避退後図ヲ計ルベク南下中舵取機械故障 一時人力操舵ヲ以テ航行セリ 応急処置ニ依リ補助機械ノミ使用可能トナリタルモ尚操舵不如意ニ附コロン湾ニ回航 船体被害ト共ニ応急修理ヲ妙高ニ依頼ス
至近爆弾命中弾敵戰艦主砲ノ至近弾ニ依リ右舷重油タンク五 艦底外鈑及ビ機械室右舷水線下ニ破口亀裂右舷軸室艦底ニ二〇米ノ亀裂 転輪羅針儀被損セシ他 人員船体兵器ニ被害アルモ戰鬪航海ニ差支ナシ爾後ノ行動ニ関シ指令ヲ乞ウ


この電報を栗田司令長官が受け取っていれば、これはレイテ沖での反転を含めた25日午前の情勢判断に影響を及ぼした可能性がありますが、旗艦『大和』の戰鬪詳報に受信記録はなく、第一遊撃部隊戰鬪詳報では25日一五三五時の受信となっています。1535時であればレイテ突入を断念して北方の敵機動部隊との決戦を求めて北上中の時間帯になります。

それでは、スリガオ海峡を脱出した後の西村艦隊と志摩艦隊の動きを簡単に説明します。

驅逐艦『時雨』は上記の報告電を打ったあと、27日1700時にブルネイ泊地に帰投しました。

志摩艦隊の『阿武隈』は護衛艦『潮』とともにミンダナオ島北西のダピタンに25日2230時入泊し、翌朝0600時に出港、コロンを目指しました。しかし、出港後の1006時、米陸軍第5および第8航空軍の重爆撃機B-24、B-25など40機あまりの空襲を受け、直撃弾によって搭載魚雷が誘爆。ネグロス島南西海上で沈没しました。
なお、ほぼ同時刻、『阿武隈』沈没点の北方のシブヤン海では第一遊撃部隊が米空母機、および第5航空軍のB-24の空襲を受けており、巡洋艦『能代』が沈没しています。

米重爆の空襲をしのぎ切った『潮』は『阿武隈』乗員を救助したあと、単艦で北上して27日にコロンに入港しました。

『阿武隈』と『潮』を欠いた志摩艦隊5艦はコロンへ向けて北上中の26日午後、ミナダナオ海で米空母機の追撃空襲をうけましたが撃沈撃破艦も出さず、パラワン島に帰投しました。
なお、北上途中にミンドロ島南方のクーヨー水道において、サマール沖で撃破されて単独で戦場避退中の巡洋艦『熊野』と合流、その護衛に『足柄』と『霞』をまわしています。

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捷一號作戰以後のスリガオ海峡参加艦艇のその後を以下に記します。

◆西村艦隊
驅逐艦『時雨』:
昭和20年1月24日、ヒ87A船団護衛中、馬來(マレー)半島東岸で米潜水艦USS『ブラックフィン』SS-322の雷撃を受け戰没。

◆志摩艦隊
『那智』:
昭和19年11月5日、マニラ湾で米空母USS『レキシントン』CV-16の艦上機による攻撃を受けて戰没。

『足柄』:
昭和20年6月8日、スマトラ島南東のバンカ海峡北口で英潜水艦HMS『トレンチャント』の雷撃を受けて戰没。

『不知火』:
昭和19年10月27日、パナイ島東方のビサヤン海で米空母機に撃沈された『鬼怒』、『浦波』の乗員救助に向かうも発見できず、帰途、シブヤン海で米空母機の攻撃を受け戰没。

『霞』:
昭和20年4月7日、戰艦『大和』、巡洋艦『矢矧』などとともに沖縄水上特攻に参加。米空母機の攻撃を受けて撃破航行不能となり、驅逐艦『冬月』により処分される。

『曙』:
昭和19年11月13日、マニラ湾で米空母機の空襲を受け、キャビテ軍港にて大破着底。

『潮』:
昭和19年11月13日、マニラ湾で米空母機の空襲を受けて撃破される。その後、修理の末内地・横須賀軍港に帰投。戦線復帰を果たす前に終戦を迎える。

『初春』:
昭和19年11月13日、マニラ湾で米空母機の空襲を受け戰没。

『初霜』:
昭和20年7月30日、京都・宮津湾で空襲を受け、対空戦闘中に触雷。沈没回避のため海岸に乗り上げ、そのまま終戦を迎える。

以上が―――

スリガオ海峡海戰のすべてです。
艦これ未実装艦もありますが、艦これではクエストをこなす程度のものでしかない西村艦隊関係クエですが、その実際の戰鬪がどのようなものであり、参加艦艇・参加乗員がどれほどの苦難激闘の地に臨んだのか...
そのことを知っていただければ幸いです。
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時雨は27驅のままだったのか、二戰隊附になっていたのか...
大戦終盤の混乱期ですから、事務処理やら通信の不備やらで詳細が不明なのはなんともはや...

大島大佐はそのあと32驅→オルモックで負傷→終戦と、戦後まで武運恵まれ生き残られたようで...

白露は……
艦これでは白露型の担当絵師さんが全力運転しているので、姉妹もろとも新絵を描いてもらっていたりと恵まれてはいますからね
艦これのなかで存分に活躍してもらいませう

「第二七駆逐隊」について

くろ提督、こんばんは(T▽T)ノ彡☆

遅れ馳せながら「くろ提督、お帰りなさい!」と歓迎すべきでしょうか(笑)
今後ともよろしくお願い致します~。

さて、本記事で一つ気になった「第二七駆逐隊」の解隊した時期について。
(「五月雨」君推しの小生としてはどうしても気になったものでご容赦を…)

「アジ歴」で検索すると(「時雨」君を除き)散逸が著しいものの8月以降の記録
が現存しています。
「昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報」
(レファレンスコード:C08030148000)

昭和19年9月の「第二七駆逐隊戦時日誌」によると大島一太郎司令(海軍大佐)
は同月4日付で時雨を退艦されており、隊司令部要員も大島司令の前後に退艦
されている様です。
「第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(6)」(レファレンスコード:C08030148700)

また、「五月雨」君が戦没した同年8月の「令達報告等」でも宛が「第二七駆逐隊」
となっています(※例:「GF電令第373号」)。

なお、小生は現存している「辞令公報」で大島司令の履歴は未確認です。

それにしても、改めて「史実」といい「艦これ」といい「白露」君は不憫過ぎる…。
「第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)」(レファレンスコード:C08030148500)
を是非ご覧下さい。その理由はご理解頂けるかと。一番なのにあれ?記録が…。

是非、くろ提督のご意見をお聞かせ下さい。

それでは(`・ω・)ゞ

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