徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

建造・修理絡みで四方山話

はおヾ('ヮ'*)ノ

今回も四方山話。
ふふ、このまま四方山話で1週間も2週間もやってしまったら、ただでさえ辺境の過疎ブログの頂点を極めたココも、しまいには人跡未踏の秘境的過疎ブログといふ未知の領域に足を踏み入れるやもしれませぬな。

人跡未踏の未知の領域……
心シビれるこの甘美な響き……(゜д゜)

さて、今回は海軍の造船・修理関係の艦艇のお話。

決してE2で『長波』さがしにいったら、うっかりキラッ☆ミ とするのを忘れてぼっこぼこにされて帰ってきて、修理船渠を即埋めしたからではないのであしからず...


◆工作艦『明石』
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排水量:10,500噸
全長:154.7米
全巾: 20.5米
主機:橫濱式ヂーゼル機関(出力5,000馬力)×2基
最高速力:19.2節(時速約35.6粁)
兵裝:
 八九式40口径12糎7二聯裝高角砲×2
 九六式25粍二聯裝機銃×2

工作艦……といふと、小中学校での図画工作のイメージが先行してしまっていたのですが、実際の工作艦とは、艦船修理施設の全くないor整っていない前線基地などで、損傷艦艇を後方の修理施設に送らずとも修理してしまう機能をもった、いわば移動式海軍工廠です。
地味な任務を帯びた艦ですが、その能力は戦略的にも戦術的にも非常に重要なものでした。

当初、日本海軍はその担当海域が本土近海に近かったこともあり、工作艦の需要はほとんどありませんでした。なにしろ、ちょっと動けば内地の横須賀や舞鶴、佐世保といった艦船修理施設にたどり着くのですから。
とはいえ、前線にちかいところで修理できるに越したことはないので、海軍は対露戦役後、鹵獲した露西亜(ロシア)船『マンチュリア』を簡易的な修理能力をもたせた工作船『関東丸』(のちに工作艦に変更、名前も『関東』と改名)として運用していました。
残念ながら、『関東』は大正13年(1924年)に福井県沖で座礁沈没してしまい、以後、日本海軍は長らく工作艦を運用することはありませんでした。

しかし―――
欧州大戦(第一次世界大戦)で戦勝国の立場になった日本は、広大な南洋諸島の信託統治を任されたほか、オホーツク海や千島列島での警戒警備、大陸での紛争で艦艇派遣が恒常化したことを受け、内地に戻すことなく現地にて修理できる工作艦の必要性が高まってきました。

そこで海軍は昭和6年(1931年)、練習特務艦の任にあった往年の主力戰艦であった『朝日』(排水量約11,000噸)に簡単な工作装備を施して、簡易工作艦として運用を始めました。
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対馬沖海戰にも参加した武勲艦が元となった工作艦 朝日

『朝日』は昭和12年の日華事変勃発とともに急遽、本格的な工作艦改造工事を施したのち上海へ前進、艦種も改めて工作艦に変更となり、現地で多くの艦艇の修理に従事しました。
とはいえ―――
もとが旧式の戰艦であったために新型の工作機械などの設置、工作艦としての艦内工場配置や動力源に問題があり、本格的な新型工作艦の必要性がいやが上にも求められるようになりました。

海軍は昭和12年、新型工作艦の建造に着手しました。
これが『明石』で、本艦は昭和14年に佐世保工廠で完成し、ただちに聯合艦隊所属となりました。

太平洋戦争の開戦と同時に、『明石』は西太平洋のパラオを皮切りに南西方面を転戦して修理任務に従事し、昭和17年夏からはトラック根拠地を拠点に修理業務にあたりました。

さて、『明石』は艦内のすべてを修理用工場として用いるため、水平の床が必須でした。そのため、艦体にシア―――全長方向に見られる緩やかなカーブ―――がなく、乾舷(海面から上甲板までの高さ)の高い独特の姿をしていました。
艦上には2本の煙突がそびえていますが、このうち艦尾側が主機関用の煙突で、中央部に位置する煙突は艦内工場の排煙用です。

艦内には艦船修理に必要なあらゆる工作機械、設備が配置され、大量の修理用資材を積み込んでいました。
艦内の配置は4層の甲板で構成され、最下層以外の各層には以下の施設がぎっしりと詰め込まれて配置されていました。
主機を最下層艦尾配置としたため、艦内容積のおよそ7割を以下の各種工場設備に用いることができました。

主機関などの修理補修を行なう機械工場2箇所
各種装備品を組み立てる工場2箇所
焼き入れ工場 / 鋳造工場 / 鍛造工場
鍛冶工場 / 溶接工場 / 木工場
兵器修理工場 / 電気工場


この機械設備の中には獨逸から輸入した新型工作機械も含めれていると言われています。
最下層の船底部分は各種倉庫になっていて、以下の資材倉庫が隙間なく設けられていました。

各種異型鋼材、鋼鈑、装甲鋼鈑などを収めた鋼材倉庫
木材倉庫
溶接機材、塗装材料、用具工具類などを収めた工作材料倉庫


上甲板は作業場として使われたほか、作業艇や内火艇など8艇が搭載され、クレーンも23噸用1基、10噸用と5噸用が各2基、設けられていました。

乗員は艦の運行要員が336名。工場の作業要員は433名に達し、その全員が海軍工廠で勤務していた軍属や徴用された民間の工員で、日本海軍でも屈指の技能を誇る熟練の工員たちばかりでした。


◆特設工作艦

さて、いくら『明石』が日本海軍屈指の修理能力を誇るとは言っても、1艦だけでは修理可能艦数に限りがあります。
とくに太平洋戦争が勃発すると、北は千島列島から南はソロモン群島、西は遠く印度洋と戦線は急激に拡大し、それに比例して損傷艦艇の数も激増していきました。

こうなると『明石』やセレター軍港のような占領地の大規模修理施設だけでは、実施部隊の損傷艦修理をさばききれないとして、海軍は工作艦の追加を決定します。

ただし、新規建造ではあまりに時間がかかります。
海軍が採った方針は、民間船舶を徴用し、これを特設の工作艦として運用するといふものでした。

ちなみに、戦時に際して民間船舶を海軍が徴用して艦艇として運用する場合、《特設》の表記がなされます。

太平洋戦争中、日本海軍は合計して424隻の民間船舶を徴用しました。このうち、工作艦として割り当てられたのは6隻です。
なお、この6隻はすべて戦没しました。

民間船舶を用いる際に有用なのは、貨物輸送が主なために船内容積が大きく、大規模な修理・工作設備を設けることが可能でした。

太平洋戦争開戦からまもなく、海軍は『松榮丸』、『山彦丸』の2隻を徴用して特設工作艦に改造しました。

修理能力は『明石』にくらべてかなり劣りましたが、機械設備類は新型・優秀なものが準備され、前線での修理に用いるにはまずは十分な能力を保持していました。

この2隻の運用実績を評価し、つづけて『八海丸』、『山霜丸』、『慶昭丸』を徴用、拿捕船である『白沙』とあわせて4隻を特設工作艦に改造しました。

特設工作艦は低い修理能力ながらも、損傷艦への応急修理を担当することで、多くの損傷艦艇を沈没の危機から救いました。
『山彦丸』や『八海丸』は激戦の南東方面ラバウル根拠地に前進配備され、同地で多くの損傷艦船の応急修理を担当しました。
これら特設工作艦によって応急修理を施されたあと、戰鬪任務が困難な艦船はより充実した修理能力を持つトラック根拠地の『明石』のもとに送られ、そこでも本格修理が困難であれば、内地帰還という措置が取られていました。


前線にでることはありませんでしたが、内地では艦船修理に起重機船といふものも用いていました。
クレーンを備えた船ですね。
こういった起重機船は内地の海軍工廠、海軍に関係のある造船所に配置され、建造や修理の際に、陸上設置のクレーンではできない作業を、海上を移動して代行していました。

日本海軍は350噸型を筆頭に、300噸型、150噸型、30噸型など17隻もの起重機船を保有し、4大鎮守府に配置していました。

このなかでも350噸型起重機船は当時、世界最大級の起重機船で、昭和16年7月に東京の石川島造船所で完成し、その後、すぐに九州の長崎造船所に回航されました。
この起重機船のクレーンは中折れ式の塔型旋回俯仰式で、アームの有効作業長は27.5米で、この巨大なクレーンを動かすのに675馬力のヂーゼル機関が用意されていました。

この起重機船の建造目的は、長崎造船所で建造中であった戰艦『武蔵』の46糎主砲塔、46糎主砲身、15糎5副砲の搭載作業です。
とくに主砲塔や主砲身は呉でしか製造されておらず、呉で建造中の『大和』ではどうにかなる砲塔や砲身の搭載も、長崎の『武蔵』、横須賀の『信濃』では専属の艦船を造らねば対処できなかったのです。

事実、主砲塔の運搬のためだけに、1萬噸級の運送艦『樫野』が建造されています。

起重機船は無事に長崎造船所にたどり着くや、進水を終えて艤装岸壁に横付けされた『武蔵』に台船を接舷させ、台船にさらに『樫野』を横付けさせて、『樫野』が運んできた46糎主砲塔や砲身の搭載取り付け作業の大役を果たしました。

この起重機船は戦後、九州北岸から関門海峡周辺海域に戦没した多数の船舶の引き揚げ作業に活躍し、その後は大型商船の建造にも一役買ったあと、昭和52年、その36年の歴史に終止符を打ちました。

ちなみに―――

戰艦『武蔵』に主砲を載せる役目を果たした起重機船。現在、日本で三番目の大型起重機船である3,700噸級起重機船に『武蔵』といふものがあります。

深田サルベージ建設株式会社所有



壁|'-')ノよいお年を。
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コメント

350噸型起重機船について

初めまして、時々こちらを興味深く拝見させていただいています。
ツイッタ-上で起重機船について調べている者です。
350噸型起重機船の件なのですが、建造・長崎での活躍の資料は見つかったのですが、戦後の資料がわからないのです。特に戦後のサルべージの件は興味があります。
もし良ければ資料名をご教示願いませんか?

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