徒然なる戰藻錄

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海防艦

はおヾ('ヮ'*)ノ

今回の四方山話は、運営のインタビューでもちらほらと見かける《海防艦》についてです。

◆海防艦とは
海防艦は大戦末期の活躍ぶりから、驅逐艦よりも小さな水上艦で、小さな護衛艦というイメージが定着していると思われます。
しかし、本来、海防艦はまったく別の意味、護衛艦とは違うかたちで用いられてきました。

日本海軍に海防艦が登場したのは明治31年(1898年)のことで、この年、日本海軍は一等から三等までの海防艦という艦種を設けました。
なお、三等海防艦は大正元年(1912年)に廃止となり、一等及び二等という分類は昭和6年(1931年)に廃止され、海防艦という単一艦種となります。

海防艦とは、その名の示す通り、我が国の沿岸防備を主目的としています。
とはいえ、戦前、帝國時代の日本は稀に見る貧しい国家で、海軍は実施部隊(前線配備の一線級艦で構成する部隊)とは別に沿岸防備の艦艇を別途、新規建造して配備する余裕はどこにもありませんでした。

そこで日本海軍が編み出した方策が―――

旧式化した往年の主力艦などの大型艦を、新兵の訓練を兼ねた沿岸防備用に転用、すなわち海防艦籍への編入でした。

もともとは主力艦であったことから、海兵団での新兵訓練や遠洋航海での実務訓練にはうってつけであり、さらに排水量がのきなみ5,000噸を上回るような巨艦でもあったことから、沿岸住民にとってはまことに頼りになる存在でした。
実際は旧式艦なので戦闘能力は推して知るべしですが……

このため、太平洋戦争開戦直前まで、日本国民のみならず、海軍の下は水兵から上は高級将校に至るまで、海防艦=往年の主力大型艦というイメージが定着していきました。

1930年代にはいるころから、世界恐慌のあおりを独自の国家再建計画で凌ぎ切った北の大国・蘇維埃(ソヴィエト)聯邦とのあいだで、オホーツク海や千島列島周辺での漁業問題にからむ事件が続発するようになりました。
沿岸警備隊による日本漁船銃撃、もしくは漁船の拿捕―――
この事態に、日本海軍は驅逐艦の配備によって対応しようとしました。

ですが、そもそも日本海軍の艦隊型驅逐艦といふのは、中部太平洋に於いて米主力戰艦のドテっ腹に魚雷をブチこむことを目的として計画・建造され、それを達成するために訓練され、整備されてきました。
それを、勝手の違う北方域に送り出し、毛色の違う沿岸防備に駆り出したところで、満足のいく結果が出るわけがありません。
運用コストの面でも、艦隊型驅逐艦の領海警備は割に合うものではありませんでした。

そこで―――

北方域における沿岸防備、領海警備、漁船漁民と漁場の保護を主目的とした小型で軽快、コストに優れた水上艦を造ろうという計画が持ち上がりました。

とはいえ、貧しい日本がいきなり新型海防艦を造ろうとしてもムリな話...

海防艦の新規建造については、倫敦(ロンドン)軍縮条約直後に持ち上がっていましたが、対米英主力艦比率を少しでも埋めようとやっきになっている最中であり、当然のごとく、建造計画は却下されています。

それでも―――

昭和12年(1937年)になってようやく予算が認められ、『占守』型4艦の建造が始められました。


◆『占守』型海防艦
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北方警備用として建造された新海防艦。
同型艦は『國後』、『石垣』、『八丈』。

本型は排水量860噸と二等驅逐艦ばりに小さいものの、艦首に菊の御紋章を戴くレッキとした《軍艦》として完成しています。
広義的には、軍艦とは武裝と他国の艦船や領土を攻撃することを国家によって認められた戰鬪艦のことを意味しますが、日本海軍では、国防の要となる主力艦という意味を持っています。
ちなみに、日本海軍で軍艦籍にはいっているのは以下の艦種です。

戰艦/練習戰艦
航空母艦
一等・二等巡洋艦/練習巡洋艦
水上機母艦
潜水母艦
敷設艦
海防艦
砲艦

軍艦籍にはいった艦は、艦首に菊の御紋章をいただき、日本帝國の象徴として、日本政府の顔として諸外国と交流することとなります。

上の方でも書きましたが、当時の日本国民、海軍関係者の多くは、海防艦=大型主力艦といふイメージを持っていました。
そのため、『占守』型海防艦の建造報告がなされた際、ある海軍高官は、「海防艦が860噸? ああ、これは0を1つ書き忘れたんだな」と従来の海防艦のイメージに沿って確認もせずに訂正してしまい、8,600噸として公表され、艦政本部があわてて860噸で間違いないと再訂正する騒ぎになりました。

建造は三菱重工が行ないましたが、設計までも三菱に任せるという体たらくぶりで、この時期、日本海軍の艦艇設計・建造の総本山たる艦政本部は、艦船設計の技術者集団と化しており、管理業務などがおざなりになっていました。
三菱はこの新型海防艦が戦時急造を見越した量産型海防艦だとは知らず、量産性よりも個艦ごとの能力に秀でたかたちで設計します。

『占守』型の特筆すべきものとして、極寒の北方域で活動することを念頭に置いているため、艦内の暖房設備は充実しておい、冬季航行中は艦外に出ることなく艦内各部を移動することができるつくりにもなっていました。
さらにさらに―――
小型艦ながらも入浴設備が艦内に設けられており、乗員は北方域の厳しい寒さのなかでの勤務をこれでこなすことができました。


◆『擇捉』型海防艦
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『占守』型海防艦は量産性を考慮しない設計でした。海軍はそんなことなど一顧だにせず、日米開戦間近といふ昭和16年夏、三菱に『占守』型30艦の量産を発注してきました。
三菱は突然の増産に困惑するも、北方用の裝備を外し、10万もの建造工程があった『占守』型を設計し直して工期短縮をはかり、戦時量産型海防艦として『擇捉』型を登場させました。
工期短縮の結果、『擇捉』型の建造工程は7万ちかくにまで減らすことができ、1番艦『擇捉』は昭和17年2月に建造を開始し、15箇月後の昭和18年5月に完成しました。

蘇維埃との漁業問題も、当の蘇維埃は昭和16年6月から獨逸と戦争状態に入っており、獨逸の同盟国である日本をへたに刺激して極東地域に攻め込まれることを恐れ、日本側への態度を軟化させていきました。
このため、太平洋戦争がはじまると、海防艦はその軽快性と対潜・対空能力が在来驅逐艦よりも優れていることから、北方域の『占守』型海防艦は順次、南方へと引き抜かれていきました。

同時に、護衛戦力として大量生産する必要が生じたこともあり、昭和17年7月に海防艦は軍艦籍からはずされ、《その他の艦艇》に組み込まれました。
これは驅逐艦や潜水艦、驅潜艇、掃海艇などが含まれている区分で、『擇捉』型以降の海防艦は艦首に菊の御紋章を付けることはなくなりました。

同型艦は『松輪』、『佐渡』、『隠岐』、『六連』、『壱岐』、『對馬』、『若宮』、『平戸』、『福江』、『天草』、『満珠』、『干珠』、『笠戸』。


◆『御蔵』型海防艦
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同型艦は『三宅』、『淡路』、『能美』、『倉橋』、『屋代』、『千振』、『草垣』。

太平洋戦争における船団護衛兵力の不足に悩んだ海軍は、海防艦の急速建造を進めました。
とはいえ、『擇捉』型は建造に1年ちかくかかっており、急速生産からはほど遠いものがありました。
設計をさらに簡略化させ、工程を5~7万にまで減らして建造期間を9箇月にまで短縮させた『御蔵』型を登場させました。
とはいえ、これでもまだ戦時急造海防艦としては建造期間が長すぎました。

『御蔵』型は対空・対潜兵装をさらに強化しており、搭載砲をそれまでの対艦・対地向けの艦砲から対空射撃が可能な高角砲に換装しています。
対潜兵裝についても、爆雷搭載数は『擇捉』型が36個だったのに対し、120個と激増しています。


◆『日振』型/『鵜來』型海防艦
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同型艦:『日振』型『大東』、『昭南』、『久米』、『生名』、『崎戸』、『目斗』、『四阪』、『波太』、『大津』、『友知』。
『鵜來』型『沖縄』、『奄美』、『粟国』、『新南』、『屋久』、『竹生』、『神津』、『保高』、『伊唐』、『生野』、『稲木』、『羽節』、『男鹿』、『金輪』、『宇久』、『高根』、『久賀』、『志賀』、『伊王』、『蔚美』、『室津』。

『御蔵』型をさらに簡略設計にしたのが『日振』型です。なお、海軍の公式記録には『鵜來』型になっています。工程がさらに簡素化したため、建造期間は半年を切るまでにいたり、量産性は大きく改善されました。
昭和18年にはいったころ、米潜水艦は欠陥魚雷を改善し、日本商船や護衛艦艇に対しても積極的な攻撃を仕掛けてくるようになりました。そのため、対空兵装や対潜裝備の爆雷の増強だけでなく、対潜探知能力の強化がはかられるようになりました。
『日振』型には電波に代わって音をだし、その反響音を捉えて敵潜の位置を探る九三式探信儀、敵潜のスクリュー音などの活動音を聞いて敵潜の存在を知る九三式聴音機といった対潜探知裝備が施されています。

『鵜來』型はブロック工法や電気溶接を取り入れて量産性を増したタイプで、曲線部分を徹底的に減らし、直線と平面で構成して建造工程を大幅に減らす措置が取られています。
艦首は円錐形、シアやフレアも直線、艦底からのラインも直線にするなど徹底したもので、これにより工程数は3萬にまで減り、起工から完成まで4箇月たらずという高速建造が可能となりました。

『鵜來』型は機雷掃海用の掃海具を撤去していますが、初期生産型には『御蔵』型と同じ掃海具が装備され、九四式爆雷投射機が装備されていました。
大半の『鵜來』型は掃海具を装備せず、爆雷投射機もK砲と呼ばれる三式投射機を装備しています。
ちなみに、『鵜來』型の三式爆雷投射機の裝備数は片舷8基の両舷あわせて16基という重装備で、艦尾から爆雷を落とせる軌条が2つあるので、『鵜來』型は一度に25発の爆雷を敵潜に投げつけることができました。
しかも爆雷は艦内の爆雷庫から電動の揚爆雷筒を経由して後部甲板の装填台に載せることができ、そこから各発射機などにセットすることができるというシステマチックな機能も有していました。

海防艦の艦名は島の名前から取られていますが、『日振』型の『昭南』は新嘉坡(シンガポール)の占領後の名前、『目斗』は台湾の澎湖諸島の1島、『波太』は現在は仁右衛門島と呼ばれている島です。

『鵜來』型の一部は戦後、海上保安庁などで巡視船として用いられました。
『鵜來』:海上保安庁巡視船『さつま』
『新南』:海上保安庁巡視船『つがる』
『竹生』:海上保安庁巡視船『あつみ』
『志賀』:海上保安庁巡視船『こじま』

このうち、『こじま』は退役後、千葉市海洋公民館として『鵜來』型海防艦の外観を現在に残していましたが、予算上の問題などから平成10年(1998年)、保存運動を無視して解体処分という暴挙によって喪われてしまいました。

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平成9年撮影の海防艦 志賀(海上保安庁巡視船こじま)


◆丙(『第一號』)型/丁(『第二號』)型海防艦
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『鵜來』型よりもさらに徹底した工期の短縮、工程の簡素化を図ったのがこの丙型、丁型の海防艦です。
排水量は700噸ちょっと、全長も70米を切る短さとなっており、大戦末期の日本海軍の主力はこういった小型艦になっていました。

両型の設計は昭和18年春ごろに始められ、わずか1箇月たらずで設計案が完成しています。設計案のまとまるのがはやいだけでなく、艦そのものの建造も早いの一言に尽きます。
丁型海防艦のある艦は、起工から竣工までにたった75日間しかかからなかったと記録されています。

米国のような隔月で大型空母、小型護衛空母を毎週建造していながら、それが粗製乱造に繋がらない工業大国と違い、基礎的工業力が米英にはるかに及ばない当時の日本では、急速建造のしわ寄せがほかの分野に重くのしかかっていました。
その最たるが居住性ですが、日本海軍の艦艇の居住性のヒドさはいまにはじまったことではないのでここでは省きます。

丙型、丁型にはそれぞれヂーゼルの二二號機関の搭載が予定されていましたが、艦の急速建造に機関の増産が追い付かず、丙型には同じヂーゼルの二三號機関が搭載されました。ただし、この機関はより小型の艦艇にもともと搭載されていたものなので、出力不足から丙型の航行速力は低下しました。

『鵜來』型:19.5節(時速約36.1粁)
丙型:16.5節(時速約30.6粁)
丁型:17.5節(時速約32.4粁)

丁型には民間戦時標準船と同じ蒸気タービンが搭載されましたが、ヂーゼル機関にくらべて燃費が悪いため、速度は丙型を上回ったものの、航続力は下がってしまいました。

丙型海防艦は『第一號海防艦』にはじまり、艦名は奇数番号が割り振られました。終戦までに53隻が完成。
丁型海防艦は『第二號海防艦』にはじまり、艦名は偶数番号が割り当てられました。終戦までに63隻が完成。


◆海防艦と対潜戦
新兵訓練と沿岸防備を目的とした海防艦は、太平洋戦争の突入とともに対潜・対空性能を強化した船団護衛用艦艇として重要な地位を占めるようになりました。
航空機、潜水艦の攻撃による商船被害を抑えようと、これら海防艦は強大な米英軍に太平洋各地で立ち向かっていきました。
とくに、対潜能力について言えば、日本海軍が建造した艦艇のなかでトップ・クラスの能力を持っていました。
艦これでは『五十鈴』改二などが対潜艦として強力ですが、実際の日本艦艇でもっとも充実した対潜能力をもっていたのは、実は戦時量産の海防艦だったのです。

とりわけ、戦時急造の『御蔵』型、丙型、丁型の対潜能力の高さは折り紙つきでした。
丙型、丁型には建造開始時から新鋭の九三式探信儀(のちに三式水中探信儀に換装)が搭載されていました。この探信儀は昭和15年ごろから聯合艦隊の一部驅逐艦や驅潜艇に搭載されだしたもので、建造時から標準装備となったのは『鵜來』型以降の海防艦でした。

爆雷搭載数ものきなみ120個となっており、この数は、戦前の日本艦艇の平均的な搭載数36個とは比べ物にならない量でした。

丙型、丁型にはこのほかに三式迫撃砲が搭載されました。
これは陸軍の九七式曲射歩兵砲という迫撃砲を海軍が採用したもので、海防艦に対潜攻撃用として搭載され、海防艦乗りのあいだでは対潜砲と呼ばれていました。
三式迫撃砲は横須賀工廠で生産されており、射程は2,800米に達し、この砲を艦橋前部に装備し、艦首方向への投射対潜裝備として用いました。

ただ―――

残念ながら、この対潜砲で撃てる砲弾は発音弾しかなく、大きな音で敵潜のソナーを邪魔する以外に効果はなく、運良く敵潜に命中しても撃沈撃破は全く期待できませんでした。

日本海軍は新型の海防艦で船団護衛と護衛艦艇の重要性に気づき、その増産には成功しましたが、敵機敵潜への効果的な攻撃手段をついに終戦まで手にすることができず、多くの海防艦が護衛の商船もろとも太平洋各地で散っていくこととなりました。

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南支那海に沈む第一號海防艦(昭和20年4月6日)



壁|'-')ノよいお年を。
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