徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

飛行艇母艦秋津洲

はおヾ('ヮ'*)ノ

ワルナンデス司令長官が九七式飛行艇について語ってくれるといふことなので、それに連動して飛行艇の作戰支援艦について、急遽、予定を繰り上げて四方山話としてご紹介させていただきまふ。

◆飛行艇母艦『秋津洲』

水上機や飛行艇に浪漫を感じる人は少なくありません。
とりわけ、日本では飛行艇への認知度はそれなりに高いと思われます。
今年の春ごろ、どこぞのS坊なにやらとやらの救助に出向いた飛行艇しかり……
まぁ、おおかたの国民にとっては、やはりスタジオ・ジブリの紅の豚が一番わかりやすいことでせう。

飛行艇に関して、旧日本海軍は太平洋戦争開戦当時、世界の追随を許さぬ高性能機の開発を求め、日本の技術陣は見事にそれに応え、傑作の名をほしいままにした名機を世に送り出しました。

今回、ご紹介する『秋津洲』はそれら飛行艇の作戰を支援する母艦として建造された旧海軍の軍艦です。

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日本海軍は昭和11年(1936年)、《對米作戰用兵ニ關スル研究》という海軍大学校がまとめた文書に於いて、米領布哇(ハワイ)真珠湾の米海軍根拠地を空襲して艦隊決戦に引っ張り出そうという意見を提示しました。

開戰前敵主要艦艇特ニ航空母艦ALニ在泊スル場合ハ敵ノ不意ニ乘ジ航空機、空母航空機竝ニ中艇、大艇ニ依ル急襲ヲ以テ開戰スルノ着意アルヲ要ス

山本五十六GF長官が真珠湾攻撃を計画するよりもはるか以前に、日本海軍は航空兵力をもって真珠湾を空襲するアイディアを出していたわけですネ。
なお、ALというのは真珠湾を意味します。

このような意見が出た背景には、対米戦が始まったとしても、米太平洋艦隊主力が出撃してこなければ、日本海軍が中部太平洋で想定する艦隊決戦が起きないことが危惧されたからです。
そこで、海軍は米太平洋艦隊の前方根拠地である真珠湾を奇襲することで、太平洋艦隊の対日戦出撃を強要することを目論んだわけです。

そして真珠湾攻撃には、空母機のみならず、航続力の大きい飛行艇を動員する予定でした。

この文書にはさらに、

而シテ現狀ニ於テハ大艇、中艇ハGK東端附近ヨリ出發シ豫メ洋上靜穩ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中繼補給ヲ行フ等ノ手段ヲ講ズルヲ要ス

とあります。
航続力が長いといっても、東太平洋にぽっかりと浮かぶ布哇諸島の真珠湾を叩くには、どうしても中継点で燃料補給する必要がありました。
そのための補給拠点として、艇母こと飛行艇母艦が求められたわけです。
なお、GKとはマーシャル群島のことです。

マル四計画(昭和一四年度海軍軍備充実計画)にて1番艦『秋津洲』の建造が認可され、昭和15年10月起工、昭和17年4月に竣工しました。飛行艇母艦という艦種はないため、水上機母艦に類別されています。
このほか、マル急計画(昭和一六年度戦時追加建造艦船)で2番艦『千早』、マル五計画(昭和一七年度艦船建造補充航空兵力増勢計画第一期)にて大小あわせて7隻の飛行艇母艦の建造が予定されていました。

『秋津洲』建造に際し、当初、マル四計画では大小2つの案が検討されていました。最終的に大小検討案の中間的な性能に帰着し、『秋津洲』として建造されました。
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大型案は装甲を施し、飛行艇用の射出機を装備するなど極めて攻撃的な運用を予定していました。さらに搭載物資量から、ほかの飛行艇母艦への弾薬輸送もこなすことも視野に入れていたようです。
小型案は独力で飛行艇隊に補給・整備するよりも、泊地に飛行艇基地を設営することを目的にしていたように思われます。

最終的には、小型案をもとにそれを大型化、機能の効率化をはかって『秋津洲』として建造されることになりました。

『秋津洲』の任務は、飛行艇が離着水できる環礁内などで燃料・弾薬の補給、予備搭乗員の待機、機体整備や修理、救難、周辺警戒です。
多数の水上機を搭載して活動する『千歳』や『千代田』といった水上機母艦と違い、飛行艇という大型機を何機も載せることはできないため、主要な任務は補給・整備・休養などの作戰支援に特化していたわけです。

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飛行艇運用についてですが、『秋津洲』は当初、飛行艇の整備能力を確保するため、艦尾にスロープとバラスト・タンクを設け、飛行艇揚収時にはタンクに注水して艦尾を水面下1.75米まで沈め、ウインチで艦上に引き揚げる計画でした。
ところが、飛行艇を含む海軍航空の大御所・海軍航空本部より、大型飛行艇の揚収には艦尾の水深が最低でも3米は必要との通告があり、スロープ方式を断念しました。飛行艇の揚州は大型クレーンを用いて、飛行艇を吊り上げるかたちで艦上に載せることとなりました。

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揚収した飛行艇は、修理のことを考慮して甲板上で旋回、ある程度の移動が可能でした。
ただし、母艦が波などによって大きく揺れると、飛行艇の翼端が海面に触れるため、搭載状態での航行は海が穏やかでないと厳しいものがありました。

なお、『秋津洲』の支援対象が二式飛行艇のような大型飛行艇なのは、中艇や水上機では真珠湾への攻撃に必要な航続力、兵器搭載量が不足していたためです。とりわけ、この時代の対艦攻撃のエキスパートである航空魚雷の運用ができなかったことが一番の要因でした。
外南洋(マーシャル群島)から真珠湾を叩くことができるのは、二式飛行艇以外にはありませんでした。

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『秋津洲』の補給物資は上の方に載せた大型案・小型案との比較にもあるとおりで、航空燃料689噸、航空魚雷36本、八〇番(800瓩)爆弾30個、五〇番爆弾15個、二五番爆弾と六番(60瓩)爆弾が各100個。
糧食や真水などの生活物資も積み込んでおり、飛行艇8機を2週間程度独力で支援できる補給能力を有していました。

さらに『秋津洲』には飛行艇を装備する航空隊の司令室を備え、士官や准士官用居室、兵員室がしつらえてありました。
整備能力の面に於いても、電気・機械・木工などの各工場、発動機調整所、兵器調整所、計器試験所などの各種設備が整っており、航空機用工作艦としての能力も併せ持っていました。

さらには前線や遠隔地に進出する必要もあったためか、移動飛行艇基地としての通信能力も重視されていて、艦尾のジブ・クレーンの支柱頂部には無線空中線支塔が設けられ、クレーンが起倒旋回していても十分な長さの空中線を展張できるようになっていました。

艦内の通信関連設備についても、艦橋構造物内に広い通信指揮所兼受信室、気象作業室などが備わっていました。


飛行艇母艦として就役したのは、最終的に『秋津洲』1艦だけでした。
同型艦や同類艦は、戦況の変化に応じて計画の修正が行なわれ、最終的にはすべてが建造中止となってしまいました。

2番艦の『千早』は昭和19年1月には聯合艦隊に引き渡される予定でしたが、開戦に伴う準備でほかの艦艇の建造が優先されて工事が進捗せず、建造中止となりました。
改マル五計画で建造予定の『秋津洲』型3艦は戦況悪化により、すべて建造中止の決定が下されました。

唯一の飛行艇母艦として聯合艦隊にはいった『秋津洲』は、開戦後は南方に進出、マーシャル群島で飛行艇部隊の第一四航空隊(昭和17年11月より第八〇二航空隊と改称)の支援に従事。

米軍のガダルカナル島上陸に伴うガ島攻防戦がはじまると、ソロモン群島のショートランド泊地、ブーゲンヴィル島ブカなどに進出して飛行艇作戰でガ島戦を支援。

昭和18年にはいり、戦況が徐々に悪化していくと飛行艇母艦としての運用の必要性が薄れだします。そのため、魚雷艇4~6艇を輸送できるよう小改装が施されたほか、兵員輸送などの輸送業務に従事するようになります。

飛行艇の支援母艦という本来の役目を喪い、輸送艦の代理として細々と活動していた『秋津洲』に、ようやく活躍の場が与えられました。

昭和19年3月、聯合艦隊の有力な支援戦力であった工作艦『明石』が戦没したため、『秋津洲』は艦内の工作能力を活かして、工作艦の代用艦となるよう求められたのです。

『秋津洲』は内地に帰還し、呉で工作艦としての艤裝工事を行ない、勇躍、前線へと向かいました。

しかし―――

9月24日、比律賓(フィリピン)のコロン湾で米空母機の攻撃を受けて戰没。
海軍唯一の飛行艇母艦にして、輸送や工作艦任務と活躍した同艦は、ここに2年5箇月の戦歴に終止符を打つこととなりました。


ダイビング・スポットなので、海底に眠る『秋津洲』を見ることができるそうです。




壁|'-')ノよいお年を。
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