徒然なる戰藻錄

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日本の空母-黎明期から開戦間近まで

はおヾ('ヮ'*)ノ

今回から2~3連続ぐらいで、日本空母に関して四方山っていこうと思いマス。

艦これネタが尽きても四方山でお茶を濁せる……
訪問者の少ない辺境の過疎ブログならではの特権ですネ。

であ、まず1回目は日本海軍空母黎明期から開戦前までについてです。

空母の個々艦の戦歴などについてはほかの方のブログやらWikiを見てもらいませう。


◇日本初の航空母艦

日本海軍が初めて保有した航空母艦は、水上機を運用するいわゆる水上機母艦でした。
その艦の名は『若宮』。

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世界初の航空母艦・若宮丸

この艦はもともとは英吉利(イギリス)の貨物船『レシントン』で、対露戦役初期のころに禁輸品を輸送していたために日本海軍に拿捕されました。
その船を『沖ノ島丸』と改名し、明治38年(1905年)に『若宮丸』と新たに改名し海軍が運用する輸送船にしたわけです。

この『若宮丸』にキャンバス製の格納庫やデリックなどを組み込み、水上機の搭載と補給物資の積載が可能な状態に造りかえることで、いわゆる水上機母艦として完成しました。搭載するのは出力70馬力のルノー空冷発動機を搭載したモーリス・ファルマン水上機(偵察)。
この頃はまだ実用性のある射出機(カタパルト)はないので、艦上の水上機をデリックで海面に下ろし、水上滑走させて離水する方法で飛ばしていました。
回収はその逆で、着水させたあとにデリックで艦上に引き揚げていました。

『若宮丸』は大正3年(1914年)、極東獨逸領の山東半島の膠州湾に進出、ファルマン機を用いて青島要塞の偵察と爆撃(大砲の砲弾を上空より投下)を実施しました。
これが日本海軍初の航空運用作戰でした。

この時、『若宮丸』はまだ輸送船籍でしたが、海軍部内では非公式に《航空隊母艦》と呼ばれていました。
大正4年6月に軍艦籍である二等海防艦に艦種変更となり、艦名も『若宮』となりました。さらに大正9年には正式に《航空母艦》に類別変更され、ここに日本初、そして世界初の航空母艦が誕生しました。

ただし、航空母艦を、

航空機を搭載し、艦上にて離発艦可能な艦

と見るのであれば、『若宮』は空母とは言えません。
とはいえ、水上機母艦として見ても、『若宮丸』は世界初の座を手にしています。
『若宮丸』が水上機運用可能な状態に改装されて配備されたのは大正2年。英吉利が完成直前の商船をもとに水上機母艦HMS『アーク・ロイヤル』を就役させたのは大正3年でした。


◇世界初の正規空母

大正8年(1919年)、前年に策定された八六艦隊完成案に基づいて、横浜の浅野造船所で1隻の軍艦が起工しました。
計画・設計段階から航空母艦として建造された『鳳翔』です。

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正規空母として建造・完成した世界初の空母鳳翔

『鳳翔』は計画時から空母として建造されているため、排水量7,470噸と小柄ながらもリッパな正規空母です。
正規空母=大型空母というイメージがありますが、正規空母とは基本的に航空母艦として設計・建造された艦のことを指し、排水量の大きさは関係ありません。

この『鳳翔』ですが、初期計画では水上機をメインに運用することを狙っていたせいもあり、空母として完成した時点で、艦尾に水上機揚収用のクレーンを設置できるよう、飛行甲板両端に切り抜きが施されていました。
昭和の初めころまでは、水上機を運用するいわゆる水上機母艦も、航空母艦として類別されており、航空機の能力がまだまだ補助的な戦力でしかなかった当時、日本海軍は長距離偵察戦力として空母と水上機母艦を同一視していたわけですネ。

昭和9年に水上機母艦という艦種が制定されたことで、ようやく空母と水上機母艦は別々の艦種となりました。

『鳳翔』は航空母艦ですが、その能力から、偵察艦としての役割を与えられていたようでした。
『鳳翔』の就役当時の基本要目は、基準排水量7,470噸、搭載機21機(うち予備6機)、14糎砲4門を裝備し、巡航14節(時速約25.9粁)で1萬海里(約18,520粁)の航続力をもっていました。

当時、建造がすすめられていた俗に言う《5,500噸型二等巡洋艦》が巡航14節で5,000海里(約9,260粁)、大正12年度計画で偵察型巡洋艦として建造が始まった一等巡洋艦『古鷹』型ですら巡航14節で7,000海里(約12,964粁)の航続力でした。

このことから、『鳳翔』は主力戰艦部隊の目となる偵察艦として、主力部隊の前方に投入されて航空機で敵情を探ることを期待されていたようでした。
航空機の能力が限られていた当時、日本海軍は航空母艦を偵察巡洋艦の一種とみなして運用しようとしていたみたいですネ。

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ちなみに、航空母艦を意味する艦種記号で《CV》があります。
これは米海軍が制定したもので、現在ではCVのCはキャリアーのCを意味しています。
ですが、当時のCは巡洋艦(Cruiser)の意味でした。
Vは翼を象徴化したもので、航空機を意味します。

日本海軍だけでなく、空母黎明期は米海軍でも偵察巡洋艦として空母を見なしていたのです。


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建造中の『大和』を写した有名な写真。これの右端に移っているのが『鳳翔』です。
終戦まで生き残った最古参の、ある意味幸運艦な『鳳翔』と、日本海軍を象徴し、その終焉をも示した『大和』の貴重なツーショット。


◇改造空母による空母の大型化

大正9年(1920年)に制定された八八艦隊完成案で、海軍は12,500噸級の正規空母『翔鶴』型2艦の建造を計画しました。
『翔鶴』型といっても、太平洋戦争で活躍する『翔鶴』型戰鬪空母とは別物です。

ちなみに、八八艦隊完成案は16吋砲、18吋砲搭載の戰艦8艦、巡洋戰艦8艦を整備する計画で、八六艦隊完成案はその資金調達など事前整備の計画でした。

大正11年に日米英仏伊のあいだで成立した《海軍軍備制限に関する条約(ワシントン軍縮条約)》により、基準排水量1萬噸以上の空母保有量が米英の6割(81,000噸)に制限され、空母1艦あたりの排水量の上限も27,000噸以下にする制約が課せられました。

このため、海軍は『翔鶴』型空母建造を中止し、廃棄が決定した八八艦隊計画艦のうち、巡洋戰艦2艦の空母改造を決定します。これは条約の特例として、廃棄が決まった主力戰艦の艦体を利用して、上限33,000噸の空母の建造が認められていたためです。

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巡洋戰艦改造の航空母艦赤城

『天城』型巡洋戰艦の1番艦『天城』、2番艦『赤城』がただちに空母への改造工事に着手しましたが、運悪く、大正12年9月に発生した関東大震災で、横須賀で建造中の『天城』が破損してしまいます。米英の承認のもと、海軍は廃棄予定の『土佐』型戰艦2番艦『加賀』の空母改造に取り掛かりました。

こうして日本海軍は26,900噸という『鳳翔』の3倍以上の排水量を持つ大型空母を一挙に2艦も保有することとなりました。

当初、この2空母は三段飛行甲板というなかなか奇妙で奇天烈な外観をしていました。
上飛行甲板は発艦・着艦兼用で長さは190米。
中飛行甲板は小型機の発艦用で、格納庫と接続している関係で飛行甲板の長さはわずか15米。
下飛行甲板は大型機(当時の複葉機時代における大型機)発艦用で長さは55米。

これは多段式飛行甲板にすることで、発艦と着艦を同時に行なえる合理的な空母艦載機運用ができると思われていたからです。
この時代の艦載機は発着艦の速度が低くて機体重量も軽い複葉機でした。だからこそ可能な甲板形状でした。

これも艦載機の能力向上に伴い、多段式よりも全通甲板のほうが艦載機運用の面で優れているという判断がなされ、昭和9年(1934年)から13年にかけての大改装で、2艦とも250米もの長大な全通甲板の本格空母へと生まれ変わります。

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艦尾まで延長した煙突が特徴的な航空母艦加賀


◇新たな軍縮条約と空母戦力整備

大正13年(1924年)、海軍は大正14年度より整備する補助艦艇補充計画で、ワシントン軍縮条約における建造制限の排水量27,000噸級の航空母艦1艦、保有量制限外である1萬噸級の航空補給艦(実質小型の航空母艦)の建造を計画しました。
『赤城』、『加賀』、27,000噸級空母の3艦合計で排水量は制限枠内の80,800噸となるわけです。

しかし―――
この頃は関東大震災からの復興に伴う財政難から計画案は日を追うごとに縮小されていき、ついには2艦とも建造が承認されない事態にまで至りました。

それでも、米英に対する戦力不足を少しでも埋めようと躍起になっていた海軍は昭和2年(1927年)、ようやく8,000噸級の水上機運用母艦の建造を認めてもらうことができました。
この水上機運用母艦がのちの正規空母『龍驤』となります。

昭和3年、『赤城』、『加賀』、驅逐艦4艦から成る第一航空戰隊が編成され、戰艦主力の第一艦隊に配備されました。
この頃から、空母航空兵力の戦術研究が本格的に始まっていきます。

昭和5年、日米英仏伊のあいだで新たな軍縮条約が結ばれました。
補助艦艇の制限を求めた《1930年倫敦(ロンドン)海軍条約》です。

この条約では排水量1萬噸以下の空母も制限対象になりました。
このため、建造中であった『龍驤』がこの対象に引っかかってしまい、海軍は『龍驤』の能力向上を図って格納甲板を追加するなどの苦肉の策を採ります。
これは裏目になり、搭載機の増加には成功したものの、重心が上がって復元性が悪化。さらに艦体強度に不足が見られるなどしたため、その後、2度に及ぶ改善工事を実施するハメになりました。

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条約に翻弄された正規空母龍驤

『龍驤』と『鳳翔』も制限対象になったことから、日本海軍が条約下において新たに建造可能な空母は1萬噸級が2艦となってしまいました。
そこで海軍は、「純粋な空母を造るからマズい、ならば有事の際に空母に転用できる艦船を造ろう」という結論に達します。

マル一計画と称する、倫敦軍縮条約に対応した第一次補充計画で、海軍は9,800噸級航空母艦1艦の建造を要求しましたが、これはほかの多くの艦艇もろとも建造を拒否されてしまいました。
それでも―――
対米漸減作戰の一翼を担う潜水艦隊の支援艦である潜水母艦と、索敵哨戒と味方主力艦隊を攻撃してくるであろう敵空母を叩くための航空母艦の整備は急務とされ、昭和8年度の追加計画で空母予備艦―――戦時に空母へ改造できる設計の艦―――として1萬噸級潜水母艦1艦の建造が承認されました。
潜水母艦『大鯨』として完成した本艦は、太平洋戦争中に航空母艦『龍鳳』に改造されました。

昭和9年、マル二計画こと第二次補充計画で、海軍は1萬噸級航空母艦2艦、空母予備艦として給油艦2艦、水上機母艦3艦の建造を要求します。

この1萬噸級空母は一等巡洋艦なみの8吋砲を5門、5吋高角砲20門、機銃40挺以上を装備する、いわゆる航空巡洋艦の能力を持たされていました。
倫敦軍縮条約では、巡洋艦制限保有量の25%に飛行甲板を設けてもいいと認められていたからです。
その後、検討が進むにつれて排水量の増加や仕様の変更が行なわれ、ついには排水量18,000噸級にまで拡大してしまいます。

この検討段階のさなかに『友鶴』事件が発生。既存艦艇を含めて全艦艇の復元性調査や工事が行なわれ、過大な武裝要求が見直されることとなり、純粋な航空母艦として建造が承認されました。

それが『蒼龍』です。


◇無条約時代と空母戦力増勢

快速中型空母『蒼龍』は就役時、基準排水量15,900噸でした。これをさらにもう1艦建造してしまうと、『鳳翔』や『龍驤』を廃艦にしても保有制限枠を超えてしまいます。
どうも日本海軍はこの段階で、軍縮条約の破棄を視野に入れていたようです。

2番艦『飛龍』は軍縮条約失効を想定して建造着手を遅らせ、さらに艦橋の位置や飛行甲板の巾を広げるなど改設計したため、排水量は増加して17,300噸に達しました。

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海軍への引き渡しを待つ飛龍

マル二計画で給油艦として建造が始まった2艦は、建造開始まもなく潜水母艦への変更が行なわれました。
潜水母艦などの補助艦も仕様などが条約で定められていましたが、概ね排水量1萬噸以下、最大速度上限20節(時速約37粁)以下であれば問題はなかったようでした。
給油艦改め潜水母艦となった2艦は、それぞれ『剣埼』、『高崎』と命名され、太平洋戦争が始まるころにはそれぞれ『祥鳳』、『瑞鳳』の改造空母へと転身を遂げます。

水上機母艦3艦は『千歳』型の『千歳』、『千代田』、『瑞穂』型の『瑞穂』として完成し、太平洋戦争序盤は水上機母艦として運用されました。昭和17年5月に『瑞穂』が戦没したあと、『千歳』型2艦は昭和18年に航空母艦へと改造されました。

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空母転用を計画されて完成した水上機母艦瑞穂

この頃から、日本海軍は空母運用の方針を定め始めます。
日本海軍は敵空母を先制攻撃して撃破し制空権を掌握、彈着観測機を主力戰艦部隊上空に配備して敵主力戰艦群に砲戦を挑むという新たな艦隊決戦構想をまとめました。
これにより、空母の主攻撃目標は敵戰艦から敵の空母に切り替わり、昭和10年に編成された第二航空戰隊は、敵空母攻撃の機会が多いことを想定して、夜戦部隊である第二艦隊に配備されました。

昭和11年、華盛頓、倫敦両軍縮条約が失効し、世界は無条約時代に突入します。
無条約時代に備えて計画されていたマル三計画、昭和12年度海軍補充計画では24,500噸級航空母艦2艦の建造が盛り込まれていました。
ちなみに、このマル三計画では『大和』型戰艦の建造もひそかに始められています。

昭和12年には、有事における空母戦力増強を狙って、補助金を出す見返りとして、有事に即時空母改造可能な商船を建造する《優秀船舶建造助成施設》も始まりました。
この助成を受けて建造が始まったのが、12,000~17,000噸級の『春日丸』、『八幡丸』、『新田丸』、『あるぜんちな丸』でした。

さらに翌年には《大型優秀船舶建造助成施設》が始まり、北米航路用の豪華客船として完成予定の『出雲丸』、『橿原丸』の建造が開始されました。

これら商船群は太平洋戦争開戦までに相次いで海軍に徴用され、航空母艦に改造されて太平洋の戦場に送り出されていきました。

日本の空母の飛行甲板は板張りで、引火しやすい航空燃料を積載するなど、耐弾性に弱く防禦力も低いなど、脆弱な艦種でした。そのため、海軍は空母の保有量の増大を重視し、艦の性能はさほど重視しない方針でした。空母の保有量を増やし、空母戦力では対米均等の水準に達することを目標んしていたのです。

無条約時代にはいり、『翔鶴』型戰鬪空母2艦の建造がはじまると、空母予備艦や商船改造空母と組み合わせることで、十分、米海軍に対抗できると踏んでいました。
ところが、米海軍は矢継ぎ早に海軍戦力の増強計画をスタートさせ、正規空母の建造数は少なく見積もっても8~10艦に達することが予測されました。

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1943年より本格配備が始まった27,000噸級航空母艦エセックス級


◇重装甲空母と空母機動部隊

米海軍の海軍力増強計画に反応して、マル四計画こと昭和14年度海軍軍備充実計画で日本海軍は28,500噸級航空母艦1艦、空母に随伴して対空防禦を実施する防空専用驅逐艦乙型2,600噸級6艦の建造を要求します。
これらは太平洋戦争開戦後に、空母『大鳳』、『秋月』型驅逐艦として就役していきます。

マル四計画での特筆すべき点は空母にありました。
日本の空母はそれまで薄い鋼鈑に木板を張った爆撃に弱い構造でした。
マル四計画で建造が始まった『大鳳』では、艦上機の運用能力を喪わないよう、飛行甲板に1,000ポンド爆弾(およそ453瓩)の直撃に耐えられる厚さ95粍の装甲版が施されました。
とはいえ、飛行甲板全体にこの装甲を張るのは困難で、飛行甲板の前部と後部の航空機昇降機に挟まれたおよそ150米の部分にのみ張られました。
これは150米もあれば艦上機の発艦は可能という実証に基づいたものです。

さすがに重量級の装甲を張ると重心が上がって艦の安定性、復元性が損なわれるため、『大鳳』は格納甲板を削減し、重心を下げる処置をとりました。
これにより、『大鳳』の搭載機数は53機(うち予備1機)と『蒼龍』や『飛龍』と大差ない数になりました。

昭和15年、マル五計画―――昭和17年度艦船建造補充第一期において、『大鳳』型航空母艦3艦、乙型驅逐艦16艦の建造が盛り込まれます。海軍省は『大鳳』型3艦のうち2艦を『飛龍』型で建造するよう検討しましたが、最終的に『大鳳』型の防禦力などを強化した『大鳳』改型2艦、『雲龍』型1艦の建造が計画されました。

この時期、日本海軍は空母の運用配置を次のように行なっていました。

1.敵空母撃滅を目的とした空母主力の機動航空部隊
2.水雷戦隊中心の野戦部隊に随伴し、敵主力艦への漸減攻撃を実施する決戦夜戦部隊
3.戰艦部隊に随伴し、対空・対潜防禦を提供し、彈着観測機を支援する戰鬪機を飛ばす直衛部隊


機動航空部隊は敵空母の活動能力を奪うことを主務とし、当時、最も命中率の高かった急降下爆撃機を主力にしました。
決戦夜戦部隊は敵主力艦を叩くため、もっとも威力の大きい対艦攻撃方法である魚雷を運べる艦上攻撃機を中心にしています。
直衛部隊は制空権掌握のための戰鬪機と、対潜哨戒用の若干の艦攻という組み合わせです。

重装甲の空母として建造が始まった『大鳳』は、敵空母と殺りあう機動航空部隊の中核艦として、敵の攻撃に耐えながら敵空母を攻撃および補給拠点として活動することを求められていました。


機動航空部隊は中部太平洋での対米空母攻撃に用いられることなく、日本海軍は昭和16年12月8日、機動部隊を真珠湾へと送り込んだのでした


今回はここまで。
次回は開戦直前~終戦までの日本海軍の空母情勢、改造空母群について載せていきたいと思いマス。



壁|'-')ノよいお年を。
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