徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

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金剛型戰艦の航跡

はおヾ('ヮ'*)ノ

ネタがないなかごきげんよう。

本日はメンテですからね、さらりさらりと四方山話でつっきちゃいマス。

決してネタがないわけではないのDEATH
ホントはないけどあると偽装してるだけなんDEATH

といふわけで、本日は『金剛』型戰艦のさりげないお話の数々―――


そんな『金剛』型戰艦について、ここでちょっとイロイロと小話でもしていこうかと思いマス。


■米騒動
大正7年7月23日に富山県魚津から始まった米騒動(越中女一揆)は、戦時特需に沸く中で庶民はその恩恵になかなかあずかれず、物価高騰によりむしろ不満が高まっている最中に起きました。米騒動を機に、国民の不満は各地で爆発。日本各地に暴動が広がっていきました。
その鎮圧は陸軍が主として担当しましたが、8月、広島県知事の要請を受け、『金剛』は海軍陸戦隊を呉に輸送し、暴徒鎮圧にあたりまし。
ただ、陸戦隊は国民に銃を向けて撃つのをよしとせず、実弾を携行していませんでした。そのため、暴徒の暴力行為で負傷者が出るに至ります。
やむを得ず陸戦隊は銃剣着用による鎮圧を実施、4名の尊い命が喪われました。


■『榛名』ハ海上ニ在リ
英国発注の『金剛』につづき、日本海軍は国内での新型戰艦建造に着手します。これは日本が新世代型の超弩級戰艦を国内建造する初のケースとなり、さらに民間企業が戰艦建造を担当する重要な案件でした。
この民間企業である川崎と三菱の競争意識はすさまじいものがありました。

神戸川崎造船所で『榛名』が明治45年3月16日、三菱長崎造船所で『霧島』がその翌17日と、起工に於いては川崎が先手を取りましたが、進水は三菱の『霧島』が大正2年12月1日に対し、川崎の『榛名』かなり遅れて同月14日でした。
そして翌年、悲劇が起きます。
『榛名』は大正3年11月18日に機関の運転試験がありましたが、直前になって不具合が見つかり、運転試験は6日間延期となりました。
本来の運転試験日であった11月18日、機関担当である川崎の造機工作部長・篠田太郎技師が自宅で自殺。遺書はありませんでしたが、自殺の原因は機関の不具合による延期であろうと推測されました。
この時代、これほどの気魄と信念をもった技術者が日本にはいたのです。
篠田技師を喪うも、『榛名』の建造は順調に進み、海軍へは『霧島』と同じ日の大正4年4月19日、引き渡しが行なわれました。

篠田技師が『榛名』へ捧げた情熱と命は、物言わぬ鋼鉄の艦である彼女に伝わったようでした。
彼女の姉妹がソロモンの海、台湾沖にとつぎつぎと殪れ、深い海の底に沈みさったのに対し、『榛名』は撃破着底という被害を受けたものの、戰艦としての威容を依然として海上に示し続けました。
終戦のその日まで―――
『榛名』は帝國海軍の戰艦として江田島の海に在り続けたのでした。
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江田島の榛名。満身創痍となりながらもその主砲は空を示しつづけた。


■日本戰艦で最初に敵を発見
太平洋戦争開戦―――
最前線には『金剛』型全4艦が投入されていることはご存じでせう。真珠湾攻撃に出撃した『比叡』、『霧島』。この2艦は空母直衛任務のほか、空母が損傷した場合の曳航任務、米太平洋艦隊出撃時の対水上戰鬪が任務でした。
『金剛』と『榛名』は馬來半島方面に派遣され、新嘉坡に進出した英国海軍の至宝トーマス・スペンサー・ヴォーン・フィリップス提督に率いられたHMS『プリンス・オヴ・ウェールズ』、『レパルス』の2戰艦と対峙します。
幸い……というべきか、米太平洋艦隊は真珠湾内で壊滅し、英艦隊の戰艦は海軍航空隊が撃沈という快挙を手にしたため、4戰艦は敵を見ることなく開戦後まもない時期を過ごしました。
その『金剛』型戰艦が初めて敵を間近に見たのは昭和17年1月16日でした。
この日、『比叡』はトラック環礁にあり、偵察のため飛来したB-17型爆撃機を目視確認しました。これが、日本の戰艦が初めて敵を捉えた最初のケースです。


■残念すぎる砲撃戦
蘭印方面の敵水上兵力撃滅のため、昭和17年2月、『金剛』型戰艦は南雲提督の機動部隊の随伴艦として印度洋に進出。3月1日、『金剛』型戰艦についに水上砲撃戦の機会が巡ってきました。
敵は我が基地航空部隊の攻撃を受けて撃破四散した連合国軍艦隊の1艦、USS『エドソール』DD-219。機動部隊の艦載機をもってすれば容易く沈められる相手でしたが、水雷専攻の生粋の船乗りであった南雲忠一司令長官は、水上艦隊に華を持たせようと、航空攻撃ではなく水上追撃戦を下令。
これを受け、第三戰隊の『比叡』、『霧島』、第八戰隊の『利根』、『筑摩』が勇んで砲戦を挑んでいきました。
驅逐艦1に対し、戰艦、重巡あわせて4艦が挑んだこの戦い、予想以上に日本側は苦戦します。

米驅逐艦『エドソール』艦長は沈着冷静な指揮でこれに応じ、煙幕をめぐらし、速度の増減や予測不能な左右への転舵をくりかえし、日本側を翻弄します。弾着観測機を飛ばして万全の体制である日本軍は、この驅逐艦にただ1発の命中弾を浴びせられず―――

やむを得ず、応援ということで九九式艦爆9機が発艦し、これで『エドソール』の行動を抑えることに成功。砲撃開始からおよそ1時間、4艦の集中砲火を浴びて炎上した同艦は19時ごろ、ついにインド洋上から没しさったのでした。
たった1艦の驅逐艦相手に、日本側は以下のごとき大量の砲弾を浪費する、あまりに無様な戰鬪となったのでした。

『比叡』:14吋砲弾210発/15糎砲弾70発
『霧島』:14吋砲弾87発/15糎砲弾62発

第八戰隊に至っては、『利根』、『筑摩』あわせて840発以上もの20糎砲弾を消費しています。

南雲機動部隊の第一航空艦隊航空参謀であった源田実氏が、『エドソール』は艦爆隊によって沈めたと記すほど残念すぎる砲戦でした。

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インド洋上で一斉回頭中の『金剛』型戰艦群。『金剛』型4艦すべてが揃って参加した戦いはこのインド洋での作戰が最後となりました。

この戰鬪でお粗末な砲戦を演じた第三戰隊は、3月7日、爪哇島南方の英領クリスマス島を砲撃。『金剛』、『榛名』によるわずか20分たらずの砲撃で、同島の英軍はたちまち降伏。
『エドソール』戦で味わった屈辱を少なからず晴らすことができました。


■『金剛』型戰艦とミッドウェイ島の関係
開戦以来、無敗の絶頂期にあった聯合艦隊が絶望の淵に立たされたのが、昭和17年6月5日~6日のミッドウェイ海戰です。
日本軍は主力空母4艦を一挙に喪失、太平洋における積極的攻勢能力を喪い、新戦略としてソロモン諸島に向かい、日本が決して臨んではならない消耗戦に引きずり込まれることになります。

このミッドウェイ海戰では第三戰隊の『金剛』型戰艦は再編成され、ミッドウェイ島攻略部隊に『金剛』と『比叡』、南雲中将の機動部隊に『比叡』と『榛名』が派遣されました。
『霧島』は6月5日、ミッドウェイ島を飛び立って空襲に飛来した米陸軍航空隊の双発爆撃機マーチンB-26マローダーに対し、日本戰艦として初めて主砲による対空射撃を実施しています。
さらにこのとき、『霧島』は米潜水艦USS『ノーチラス』SS-168の雷撃を受けています。『霧島』は對空戰鬪で回避行動中のため、魚雷は命中しませんでした。これは日本戰艦が米潜の雷撃を受けた最初のケースです。

さらにこの日、『榛名』は米空母機の攻撃を受け、2機を撃墜しています。資料によっては至近弾などによって被害を受けたといわれています。
『榛名』は日本戰艦で開戦以後、はじめて空襲を受けた戰艦となりました。

さて―――
恨みのミッドウェイ島ですが、じつは『金剛』にちょっと関係がありました。
それは欧州大戦(第一次世界大戦)のころのことです。
日本は英国と同盟を結んでいた関係で、獨逸に宣戦布告します。当時、獨逸は中部太平洋を支配しており、巡洋艦による通商破壊戦を仕掛けてくるものと日本海軍は予想しました。
日本海軍は通商破壊戦阻止と日本商船保護を目的として、最新鋭戰艦『金剛』を大正3年8月26日に横須賀から出撃させ、日米航路の中間であるミッドウェイ島まで進出させました。
28年後、そこで日米艦隊が激突するなど、当時はだれも想像すらしなかったでせう。

幸か不幸か……
広大な太平洋上で少数の船を捕捉することは容易ではなく、『金剛』は9月23日に本土に帰還しました。

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大正3年夏ごろの巡洋戰艦時代の『金剛』


■ソロモン戦線異常あり
昭和17年8月7日、アレクサンダー・アーチャー・ヴァンデグリフト海兵少将率いる米第1海兵師団がソロモン群島ガダルカナル島に上陸。ここに、半年間に及ぶガダルカナル島一大消耗戦が幕を開けます。
ソロモン海域でも『金剛』型は活躍します。

8月24日、第二次ソロモン海戰勃発。
この海戰で『霧島』はエスピリッツサント方面から来襲した米陸空軍ボーイングB-17フライング・フォートレスに対し、はじめて三式弾を用いた主砲対空射撃を実施しています。
敵機に対し使用されたこの三式弾が、地上を激しく焼き尽くしたのが、『金剛』、『榛名』によるヘンダーソン基地(日本軍のルンガ飛行場跡)艦砲射撃でした。
昭和17年10月14日、山本GF長官の強い意向によって実施されたこの砲撃は、危惧された戰艦の喪失という事態にはならず、逆に戰艦の艦砲の威力をまざまざと見せつける結果になりました。皮肉にも、戰艦による艦砲射撃の威力を米側に知らしめた日本軍は、以後、太平洋各地の島や沖縄で、米戰艦の激しい艦砲射撃に曝されることとなります。

ちなみに、この時代、戰艦による地上砲撃は危険な戦術と見なされていました。
欧州大戦が激しさを増していた1915年3月、オスマン帝国領ガリポリ攻略をめざした連合軍は、ダーダネルス海峡で地上砲撃を実施した際、沿岸要塞からの反撃で仏蘭西(フランス)戰艦『ブーヴェ』、英吉利(イギリス)戰艦HMS『オーシャン』、HMS『イレジスティヴル』を沈められ、ほかに戰艦3艦が撃破される大損害を被りました。この戰鬪の教訓から、戰艦による陸上砲撃は無益で危険なものという認識が海軍関係者に広まったのでした。


最後は―――

『金剛型』戰艦の最後の戰鬪を振り返ってみます。
海戰について詳しい詳細はwikiなどを見てもらうとして...

まずは『比叡』からです。


■『比叡』南溟に消ゆ
昭和17年10月、海軍は南太平洋海戰で米艦隊に辛勝するも、陸軍の仙台第二師団による総攻撃は失敗し、ガダルカナル島の戦況は急速に悪化していきます。
『比叡』は『霧島』のほか乙巡1、驅逐艦14という大兵力を率いて11月12日深夜、ガダルカナル沖に突入します。
そこには、ダニエル・ジャドソン・キャラハン少将率いる甲巡2、乙巡1、防空巡2、驅逐艦8の大部隊が待ち構えていました。
新型レーダーで日本艦隊を捕捉していた米軍は、距離9,000米より戰鬪開始。一方、日本軍も驅逐艦『夕立』が立ち回るなど彼我入り乱れての乱打戦に発展。
『比叡』は突如出現した米艦隊に対し、陸上砲撃用の三式弾を変える暇もあらばこそ、三式弾による近距離射撃でこれに応戦。防空巡洋艦USS『アトランタ』CL-51は三式弾の猛火に包まれ炎上、次席指揮官ノーマン・スコット少将が戦死するなどの被害が出ます。
キャラハン司令官も旗艦USS『サン・フランシスコ』CA-38艦上で戦死し、指揮官、次席指揮官の両方が戦死するという事態に米側は大混乱となります。
一方、探照燈照射による射撃を実施していた『比叡』は米艦の集中射撃に曝され、ついには舵故障で操艦の自由を喪います。
旗艦『比叡』の撃破により、米側に続いて日本側も指揮系統が喪われて混乱状態となります。

操艦の自由を喪った『比叡』は戦場に取り残されます。
夜明けとともにヘンダーソン基地から米軍機が来襲、さらなる被害を蒙ります。それでも、『比叡』乗員の士気は非常に高く、阿部弘毅司令官はガダルカナル島への座礁を決意します。
しかし―――
主機械使用不能という誤報が届けられ、阿部司令官は『比叡』自沈を決定。
損傷漂流中の米驅逐艦USS『アーロン・ワード』DD-483と不時会敵、これに砲撃を加えるなど、『比叡』は最後の瞬間まで戦闘意欲を喪うことはありませんでした。

自沈処理された『比叡』の最後を見た者はおらず、沈没は13日の午後であろうといわれています。


■米新鋭戰艦を撃て
13日午後、『霧島』、甲巡2、乙1、驅逐艦9からなる部隊は近藤信竹中将指揮のもと、ふたたびガダルカナル沖に戻ってきました。ヘンダーソン基地砲撃を諦めていなかったのです。
一方、米軍もこの海域に増援を送り込んでいました。米海軍におけるレーダー射撃の大家、ウィリス・オーガスタス・リー・ジュニア少将指揮の戰艦2、驅逐艦4でした。
日本軍は当初、米艦隊を水雷戦隊に任せ、『霧島』によるヘンダーソン砲撃を目論んでいましたが、米艦隊に戰艦がいることを知り、急遽、対戰艦戰鬪を開始します。太平洋戦争初の、戰艦同士の砲撃戦がここに始まりました。
『霧島』は徹甲弾の換装が間に合わず、三式弾による射撃を米新鋭戰艦USS『サウス・ダコタ』BB-57に浴びせます。この射撃で『サウス・ダコタ』は炎上、さらに『サウス・ダコタ』乗員の不手際で射撃機能を喪失し、同艦は這う這うの体で戦場から離脱します。
格上の16吋砲搭載戰艦を撃破した『霧島』ですが、米側にもう1艦の16吋砲搭載戰艦がいることに気付くのが遅れました。気づいた時には、『霧島』の対14吋砲装甲防禦に米戰艦USS『ワシントン』BB-56のはなった16吋砲弾が炸裂。8,000米という戰艦同士の砲撃戦では超近距離と言える至近から撃ちこまれた16吋砲弾6発が命中し、『霧島』は大破炎上し、傾斜します。

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米戰艦『サウス・ダコタ』級USS『サウス・ダコタ』BB-57

『比叡』のあとを追ってソロモンの海に沈んだ『霧島』ですが、米戰艦、それも無条約時代に設計された最新鋭の
16吋砲戰艦を相手取っての戰鬪でした。沈んだのは残念ですが、戰艦の最後としては華々しいものといえるでせう。
ちなみに、米戰艦USS『サウス・ダコタ』の3番主砲には、『霧島』より放たれた九一式徹甲弾が穿った大穴が開いていました。


■最古参戰艦、台湾沖に逝く
昭和19年11月21日、『大和』、『長門』とともに『金剛』は内地帰還の途についていました。
1箇月前に発生したレイテ島を巡る捷一號作戰で損傷した状態のまま、『金剛』は老体にムチ打って台湾沖を本土へ向かって北上していました。
多くの艦が沈み、傷つき、戦勢の挽回もままならず、戦場は着実に本土へと迫っていました。
そのような状況のもと、『金剛』、『大和』ら第二艦隊は本土へと向かっていました。どうせ沈むのなら、せめて祖国の海で沈みたい……『金剛』がそう思っていたかは知る由もありません。

11月21日0300時ごろ、米潜水艦USS『シーライオン』SS-315は北上する日本艦隊を発見。先頭を行く日本戰艦特有のパゴタ型艦橋を備えた艦めがけて魚雷6本を発射。そのうちの2本が『金剛』に命中。
先の戰鬪の被害を満足に修理していない情況での被雷により、艦内への浸水を食い止めることは困難でした。
『金剛』は鈴木義尾第三戦隊司令官など1,300名もの乗員とともに、台湾沖にその巨影を沈めさったのでした。
明治45年5月の進水以来、日本海軍の最古参戰艦としてミッドウェイから印度洋まで、広大な戦場を走り抜けた英国生まれの高速戰艦は、ここに32年の生涯を閉じたのでした。


■『榛名』海防の任を全うせり
『金剛』亡きあと、ただ1艦のこった『榛名』は昭和20年、特殊警備艦として江田島沖に申し訳程度の偽装を施した浮き砲台として最後の時を待っていました。

7月24日、米艦載機の大空襲が呉軍港地区に対して行なわれ、『榛名』のそばでともに最後の戰鬪に臨んだ『日向』、『利根』、『青葉』ら歴戦艦が相次いで傷つき、撃破着底していきます。
回避行動のための燃料すらなく、ただじっと座したまま攻撃に耐えるしかないその姿は、帝國海軍の終焉を示していました。
そして―――
28日、呉軍港への再攻撃が行なわれました。
この日、米機の攻撃は『榛名』に集中します。沖縄から飛来した米陸空軍のコンソリデーテッドB-24リベレーターを撃墜するなど、『榛名』は最後の瞬間まで護国海防の責務を果たしました。
10を超える直撃弾で大破した『榛名』は江田島の海底に艦底を落とし、着底状態のまま終戦を迎えました。

姉妹3艦は南洋に、台湾の沖に沈み去るなか、多くの海戰で損傷しつつも最後まで残り、祖国の空を乱舞する敵機へ主砲を向けたまま、『榛名』は終戦とともにすべての義務から解放されたのでした。



壁|'-')ノよいお年を。
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コメント

NO TITLE

艦隊の一斉回頭は綺麗で素晴らしい。金剛型四隻の一斉回頭、きっと鳥肌が立つほど素晴らしい光景だろう。

NO TITLE

セイロン沖の部分で残念なって記述あるけど、全力で回避行動取る単艦の駆逐艦に1万以上の距離から命中なんてそうそうさせられるはずがない。
相手が砲撃命中上げるために一定の速度保ち急激な操舵を行わず、艦隊内での衝突を防ぐための統制行動をとっているならば、他の海戦のように命中率は高くなっただろう。
前提条件自体が違うのに同じが考えるほうが馬鹿なのだ。
そして航空専攻で砲撃屋や水雷屋を馬鹿にしていた源田の言葉だけをあげるのもおかしい。

Re: NO TITLE

> 戦後、榛名は日本復興の為の資材としてして生き続けてるんでよねぇ、今もどこかで静かに日本を見守ってると信じたいですね
そうですね

あと...

先の大戦で亡くなられた200数十万の英霊の犠牲の上に今日の日本がなりたっていることも忘れずにいたいですね

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戦後、榛名は日本復興の為の資材としてして生き続けてるんでよねぇ、今もどこかで静かに日本を見守ってると信じたいですね

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