徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

四方山なる話

はおヾ('ヮ'*)ノ

艦これ四方山話もネタ切れ感漂い始めてきた今日この頃。
本来であれば、艦娘たちにまつわるナニかを語るのがよいのかもしれませんが、たいていのことはwikiを見てしまえばそれで完結しちゃいますからネ。

wikiに載ってないような……載っていてもさらっとした程度でしかないようなネタをさらけ出すのを信条としているくろちゃんとしては、このままどうやって四方山をやっていこうか悩んじゃう次第。

まぁ日本海軍絡みでなんでもいっちゃえいっちゃえ☆ミ という結論に数秒で達しました。
熟慮したなぁ、くろちゃんも……ヽ(´ー`)ノ

それじゃぁさっそく―――


◇落下傘

落下傘部隊、パラシュート部隊―――
空挺部隊として知られる部隊ですネ。手持ちの輕武裝で敵地に降下、拠点を制圧したり友軍の進撃路を確保したりと、独力で優勢な敵と戦うことを求められる精鋭部隊ですネ。

昭和17年2月14日、久米精一大佐率いる陸軍第一挺身団が和蘭(オランダ)領スマトラ島の世界有数の油田地帯であるパレンバンに落下傘降下。空の神兵と国民に広く喧伝されて、日本の空挺部隊としてその名を轟かせました。

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パレンバンに降下中の第一挺身団


ところで―――
海軍にも落下傘部隊はありました。
まぁ四方山話でやるわけですから、あって当然ですね。

海軍も落下傘部隊を保有し……

日本で最初の空挺作戰を実施したのが、この海軍空挺部隊でした。

温情溢れる名指揮官として支那でも有名であった堀内豊秋海軍中佐が指揮を執る横須賀第一特別陸戦隊(横一特)がそれです。
攻撃目標は、和蘭領セレヴェス島(現スラウェシ島)の北部に位置する都市メナド。
ここには和蘭軍の拠点と飛行場があり、若干の航空兵力が配備されていました。この《若干》の航空兵力が、日本軍に脅威と映ったわけです。
メナド周辺の航空兵力は旧式著しいマーチンB-10双発爆撃機やコンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇などにすぎず、日本軍がきっちり偵察や情報収集をしていれば、その航空兵力が日本軍の脅威になることはないと判断できたのです。
戦場の霧と称される、戦時特有の過大評価や誤認により、日本軍はメナドの敵勢力撃滅なくして東部蘭印攻略は難しいとみるようになっていきます。

メナド攻略は海軍独力で実施することとなり、佐世保第一と第二の特別陸戦隊がメナド北方に上陸し、横一特はメナド南方のランゴアン飛行場に降下する計画が立てられました。

横一特は第一次降下334名、第二次降下74名が参加します。
空挺降下のため、重量級の裝備は身に付けたり運んだりはできません。各隊員は手持ちの武器のみで戦うこととなります。
士官は拳銃、兵士は三八式騎兵銃。この騎兵銃は騎乗兵が扱いやすいよう銃身を短くした歩兵銃で、空挺降下時にその大きさが邪魔にならないため採用されました。
ほかに、手榴弾は2発ずつ持ちました。
これ以外の裝備として、九六式6粍5軽機関銃、九二式7粍7重機関銃、八九式重擲弾筒(迫撃砲の一種)が若干です。
戦車や輕砲などの野戦裝備はありません。

昭和17年1月11日0630時、九六式陸攻を改造した九六式輸送機27機に分乗した横一特はミンダナオ島ダバオの飛行場を離陸。護衛には第三航空隊の零戦54機が参加。この第三航空隊は台南航空隊とともに、当時、零戦を装備する貴重な基地航空隊でした。

メナドへ飛行中、水上機母艦『瑞穂』発進の零式水上観測機がこの輸送機隊を敵機と誤認したため、1機が撃墜される悲劇が生じました(輸送機乗員5名、横一特隊員12名死亡)。

0950時、目標のメナド・ランゴアン基地に接近。高度150米から隊員たちは機外へ飛び降り、各種裝備が投げ出されていきました。
降下そのものは30分ほどで完了。大きな被害もなく、日本初の空挺作戰は成功しました。

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堀内陸戦隊長(左から3人目)と陸戦隊員

和蘭軍は日本軍の攻撃に備えており、軽機関銃8挺に装甲車輛2輛を配備して待ち構えていました。この装甲車輛は砲こそ積んでいないものの、機関銃を備えた車輛で、対戦車裝備を持っていない横一特にとって脅威でした。

横一特は対戦車裝備として九四式37粍速射砲(日本軍では対戦車砲を速射砲と呼んだ)を持ち込んでいましたが、空挺降下できるシロモノではないので、飛行場北東のトンダノ湖に九七式飛行艇で1門だけ運ぶ予定でした。

その砲を手に入れる前に装甲車輛と交戦状態に入ります。日本軍は拳銃と手榴弾で立ち向かい、なんとかこの装甲車輛を撃破しました。

和蘭軍は横一特と大差ない400名程度の兵力でしたが、落下傘の数を見て日本軍の兵力数を過大に見てしまい、脱走者や逃亡兵が相次ぎました。

横一特は1130時までに飛行場をほぼ制圧し、1500時ごろまでにメナド市街の占領を完遂しました。
夕方には、近傍の水上機基地に攻撃をくわえ、日没までに和蘭軍を撃退しこれを占領しました。

横一特は最終的に戦死20、負傷32の被害を受けましたが、翌12日に第二次降下部隊が降下して、兵力を立て直します。

5%を超える戦死率、負傷を含めれば15%をこえる損害に、海軍は新たな空挺降下に二の足を踏みますが、2月20日、チモール島クーパンの空に再び、彼らは白い傘を広げて降下することになります。

なお、この横一特はここでも紹介したサイパン戦に参加、唐島中佐指揮のもと、壮絶な玉砕戦のすえに全滅します。

海軍のメナド降下に対し、陸軍から、2月にパレンバンに降下するからそれまで公表を差し控えてほしい、旨申し入れがあり、海軍はそれを了承しました。
ところが―――

陸軍はパレンバン降下後、さっさと自軍の降下のみを宣伝し、海軍を差し置いてちゃっかり空挺降下の栄誉を手にしてしまったのです。
これにはさすがの海軍もおにおこ。抗議しようとしたものの……

昭和17年3月1日、和蘭領爪哇(ジャワ)攻略作戦中、バタビア沖で海戰が勃発。この際、第七戦隊の巡洋艦『最上』、『三隈』の発射した九三式酸素魚雷が敵艦を外れ、あろうことか揚陸作業中の陸軍輸送船『佐倉丸』、『龍城丸』、『蓬莱丸』、『龍野丸』、海軍の『第二號掃海艇』に命中、撃沈(!!?)1、大破3という被害が発生します。
しかもこのうちの大破した『龍城丸』には蘭印攻略部隊の陸軍第一六軍司令官の今村均中将が乗艦しており、今村司令官は三時間にわたって重油の浮かぶ海を漂流するハメになりました。

陸軍のフライング発表はこれで帳消しになったも同然ですね。

※『龍城丸』
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日本陸軍が建造した日本初の水陸両用戦艦艇。今日の強襲揚陸艦の原点ともいえる存在。秘匿性保持のため『神州丸』とも呼んだ。陸軍内の名称は特殊船。


◇山口多聞

艦これは艦娘たちが戦い、提督はプレイヤーのみとなっています。
さて―――
『那珂』ちゃんとならんで人気の『五十鈴』がよく口にする、「山本提督や山口提督もわたしの艦長だったのよ!」
山本提督は、誰もが知っている山本五十六GF長官。2011年に役所広司主演で映画もでたので知っている人は多いでせう。

もう一方の山口提督。
今回はこちらについてです。

山口多聞。
南北朝時代の名将・楠正成の幼名である多聞丸にあやかって名づけられました。
海軍兵学校40期生。ハンモック・ナンヴァーは卒業生144名中2番という優秀さでした。
この40期には大西瀧治郎、宇垣纏、鈴木義尾、城島高次といった同期生がいました。
1期先輩の39期生には、阿部弘毅、角田覚治、原忠一といった面々がそろっていました。

経歴などはwikiを参考にしてもらうとして...

ここではwikiにないところを載せようかと思います。

山口提督は旧制開成中学校に通っており、いかなる悪天候でも徒歩通学を貫き、寒風吹きすさぶ中でも外套なしですごしていました。
開成中学を開校以来の好成績で卒業し、明治42年、定員150名に対し応募3,000名が集まった難関の海軍兵学校に難なく入校します。
ちなみに、対露戦役の対馬沖海戰の大勝利からまだ4年しか経っておらず、海軍兵学校への進学は当時、全国の少年たちのあこがれの的でした。

山口提督の健啖ぶりは海軍に響き渡っていたそうです。

wikiにもあるエピソードですが―――
真珠湾攻撃を終えて祖国に凱旋したあと、GF旗艦『大和』で指揮官級の会食が開かれました。そこでフランス料理のフルコースがふるまわれたそうですが、食後、感想を求められた際に、「まことに上質だが、惜しむらくは量が足りなかったね」と答えたそうです。

山口提督の最後の戰鬪となったミッドウェイ海戰時における戰鬪食も、砂糖をたっぷりきかせた巨大な牡丹餅でした。

山口提督は昭和7年(1932年)、敏子夫人を三男出産後に亡くします。海上勤務の多い山口提督にとって、家に残すまだ幼い子供たちは心配の種でした。
それをみかねて縁談を持ちかけたのが、当時、海軍航空本部技術部長であった山本五十六少将でした。
昭和9年2月、山口提督は孝子夫人と結婚しましたが、その結婚生活は8年4箇月。ともに過ごすことができたのはわずか1年という短さでした。

孝子夫人は平成10年に亡くなられましたが、あとには250通にも及ぶ手紙が残されていました。
その文面は、ミッドウェイで激しく果敢に戦い散っていった鬪将の姿からは想像もできないほど情熱的なものでした。

「貴女の多聞より、わたしの孝子さんへ」」
「貴女の写真ばかり眺めている多聞より、なつかしくて食べてしまいたい孝子さまへ」
「瞬時も貴女のことを忘れられない多聞より、わたしの世界中で一番好きな孝子さんへ」

などなど...

孝子夫人は戦後、山口提督について聞かれたときにこう答えています。

「健康優良児がそのまま大きくなったみたいな人」

日本に忠誠を捧げ、家族に愛情を惜しみなく注いだ勇将・山口多聞少将は、昭和17年6月5日、ミッドウェイ沖に空母『飛龍』を駆り、米空母3艦を相手に壮絶な死闘を演じます。
旗艦『赤城』以下3空母が相次ぎ撃破され炎上する中、次席指揮官の阿部弘毅第八戰隊司令官に対し、「我 コレヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と宣言、飛行甲板に集まった搭乗員たちに対し発します。

「みんな死んでくれ。俺もあとから行く」

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ミッドウェイ海戰で米軍機の空襲を回避する『飛龍』

必死必中の覚悟で飛び立った『飛龍』攻撃隊は、二度に及ぶ猛攻で米空母USS『ヨークタウン』CV-5を撃破。同艦は翌日6日、『伊號第一六八潜水艦』によって撃沈されます。

暮れなずむ太平洋上で、最後の攻撃準備を整えつつあった『飛龍』に、USS『エンタープライズ』CV-6発艦の索敵攻撃飛行隊のSBDドーントレス艦上爆撃機24機が殺到。
米空母群を相手に獅子奮迅の活躍をみせた『飛龍』もついに命運尽き、直撃弾4発で炎上、航空戦能力を喪失。

総員退艦が命じられる中、退艦を求める幕僚らに首を振って拒絶。戰鬪帽を手渡したのち、「一緒に月でも眺めるか」と、『飛龍』艦長加來止男大佐とともに艦橋に姿を消しました。


山口提督が生前、部下たちによく語っていた言葉はこれです。

「甲乙決めがたいときは、より危険性があっても自分は積極性をとる」
「死ぬか生きるかの瀬戸際にたって判断に迷う場合、ほかのことはいっさい考えず真っ直ぐに死に突き進むことだ」




壁|'-')ノよいお年を。
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