徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

68年目の今日

はおヾ('ヮ'*)ノ

本日は終戦の日。
昭和20年8月15日、陛下自らの声を録音した玉音盤によるラヂオ放送が正午過ぎにながれ、その瞬間をもって、日本帝國の戦争に終止符が打たれました。

3年8箇月に及んだ大戦で、日本は多くの貴重な人命と財産、文化を喪いました。

フィリッピンで49萬8600名。
支那戦線で45萬5700名。
中部太平洋地域で19萬7600名。
ソロモン諸島で11萬8700名。
東部ニューギニアで12萬7000名。
西部ニューギニアで8萬2600名。
ビルマ戦線で16萬4500名。

本土での犠牲者を含めると、じつに212萬1000名の尊い命が喪われました。

いま、終戦の日を巡っておとなりのイカれた2つの国家、国内の愚かな団体が喧々囂々と騒ぎ立ててますが、多くの日本国民にとって、終戦の日とは、今日の平和な日本に生まれ変わるために犠牲となられた方々の冥福を祈る、慎ましやかな日でしかありません。

政争の具にされるのでもなく、歪められた歴史認識に固執する粘着国家に配慮することなく、ただ、正午の時間、黙祷を捧げる―――

それで十分です。


さて、日本では8月15日、ポツダム宣言受諾による降伏、陛下自らによる終戦放送によって大東亜戦争―――太平洋戦争が終結した《終戦の日》となっています。
対戦相手である米国では、終戦の日を9月2日としています。
すなわち、VJ-Day。対日戦勝記念日ですね。
これは昭和20年9月2日、東京湾にはいった戰艦USSミズーリBB-63の艦上で、降伏文書に日本側が調印した日をもって戦争終結と見なしているからですね。

15日の終戦以降も、滿洲や千島列島ではソヴィエトとのあいだで自衛のための戰鬪がつづいていましたが、ここでは15日の午前と、17日に起きた戰鬪について簡単ながらご紹介します。
これららhともに、関東地方が舞台となったものです。


◇8月15日の関東空襲

8月15日未明、房総半島沖に展開していた米太平洋第3艦隊(ウィリアム・フレデリック・ハルゼー大将指揮)第38任務部隊から、戦爆連合250~300機が発艦。ポツダム宣言受諾で終戦確実と思われる日本本土へのダメ押しの航空攻撃をかけてきました。
この攻撃に対し、第3艦隊の幕僚の多くは、日本の降伏による戦争終結も間近であるとして、人員と機材の損耗は避けるべきと提言したものの、ハルゼー大将はそれらを黙殺し攻撃を下令したとされています。
なお、この航空攻撃にはサー・バーナード・ローリングス中将が率いるイギリス海軍第57機動部隊の艦載機も参加しています。

鹿島灘方面から関東上空に侵入を開始した敵艦上機群を、千葉の茂原基地から飛び立った海軍第二五二航空隊の戰鬪三〇四飛行隊の零戦約10機が邀撃。複数の英軍機を撃墜するなど奮戦しましたが、衆寡敵せず、茂原基地が空襲に曝されたこともあり、邀撃隊は郡山や二本松の基地に退避しました。
厚木の第三〇二航空隊も邀撃に発進。

このほか、米機動部隊の本土接近を察知していた日本海軍は、三重県の鈴鹿基地に展開していた第六〇一航空隊(空母航空隊)戰鬪三一〇飛行隊の零戦48機に出動準備を命じ、愛知県明治基地の六〇一空の攻撃第一飛行隊の彗星も米機動部隊攻撃のための準備にはいっていました。
米機動部隊に向かえば、そのほとんどが未帰還になるかもしれない決死的任務でしたが、幸いにも、発進直前に玉音放送を聞くよう指令が届き、発進中止、そのまま終戦を迎えています。


◇終戦後の帝都防空戦

終戦の放送が流れてから3日目の昭和20年8月18日、この日、帝都上空における最後の空中戦が発生しました。
東京へ飛来したのは第386爆撃中隊に所属する新型重爆撃機B-32ドミネーター2機。
日本本土への進駐に先立って、関東地方の写真偵察と気象観測が飛来した目的でした。
任務を達成し、関東地方から離脱しようとした矢先、「恐るべき熟練度のエース級のパイロットが操る日本戰鬪機」隊の襲撃を受けたのでした。

B-32に対し邀撃行動をかけたのは、日本海軍最初の航空隊として誇り高い名門《横須賀海軍航空隊》の超熟練搭乗員たち。
激烈な太平洋の空中戦を生き抜き、戦前から戦い続けてきた技量超S級の戰鬪機乗りたちが、これが最後の戰鬪とばかりに邀撃をかけてきたのです。
この攻撃には、撃墜王として名高い坂井三郎氏(2000年9月22日没)も零戦を駆って参加しています。

終戦―――とはいっても、それは軍使が敵陣に赴き、降伏条件を受理して帰還するまでは本格的な停戦とまではいかない。日本側から攻撃敵対行動は取れずとも、敵側からの侵略的行為があれば、自衛のための戰鬪として許されるべき……というのが、この日の邀撃理由だと言われています。

終戦後の気楽な任務だったはずが、まさかの大空中戦になるとは思いもよらなかったB-32は、精鋭無比の横須賀航空隊戰鬪隊の激しい攻撃に曝され、死者1名を含む死傷者3名をだし、命からがら、本土上空から脱出しました。
日米ともに撃墜戦果を主張しましたが、双方に墜落被害はありませんでした。

これが日米最後の空中戦であり、B-32にとって最初で最後の対戰鬪機戰鬪となったのでした。


■B-32ドミネーター
1940年、アメリカ陸軍が策定したR-40B計画に基づいて、コンソリデーテッド社が開発した4發重爆撃機。
この計画ではほかにロッキード社、ダグラス社、ボーイング社も参加しており、XB-29からXB-32までの開発番号が割り振られました。
米政府の方針で、ロッキード社は戰鬪機開発と生産に重点を置くべきとして計画から離脱。ダグラス社の案は性能劣悪すぎて脱落。
最終的に、革新的な設計のボーイング社XB-29(のちのB-29スーパー・フォートレス)を主開発とし、XB-29が万が一に失敗した場合の保険機的扱いでXB-32も開発がすすめられました。
XB-32はXB-29よりも早々と初飛行を成功させるなどしましたが、米陸軍航空隊の関心はXB-29に向けられていたこともあり、その後の開発は遅滞。
それでも、昭和20年には爆撃部隊が編成され、ルソン島の日本軍陣地爆撃で初陣を飾りました。ですが、そのころには1,000機にも達しようかという大量のB-29が対日戦に投入されており、わずか15機の実戦配備機しかなかったB-32に本格爆撃にでる機会はありませんでした。
総生産数も100機程度と振るわず、戦争が終わると、B-32は早々と退役して歴史から姿を消していきました。

そんな不遇をかこった機体ですが、その性能はB-29に劣るものではなく、爆弾搭載量や防禦火器はB-29とほぼ同じで、航続力や高高度性能は負けていたものの、上昇力や運動性、巡航速度ではB-29よりも優れていました。
戦争が長引けば、1,000機以上の発注がなされていたB-32が中高度から猛爆撃をくわえ、B-29の高高度爆撃から生き延びた施設や部隊を潰滅に追い込んでいたかもしれない隠れた名機でした。

130815

なお、コンベア社が開発したとする資料もありますが、コンベア社はコンソリデーテッド・ヴァルティ・エアクラフト社のことで、これはコンソリデーテッド・エアクラフト社が1943年、ヴァルティ・エアクラフトと合併してできた会社です。
1953年にジェネラル・ダイナミクス社に買収されましたが、1976年にカナダに売却されてカナディアとなり、その後、1986年にボンバルディアに売却されました。



壁|'-')ノよいお年を。
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コメント

Re: 終戦の日に添えて

> 小生は昨日、先の大戦で亡くなった親族の墓参で冥福と平和を祈念。
いまの平和を感謝です。
まぁ、おとなりの支那がちょっかいかけてきてますが...


> 明日の早朝に出撃予定ですが、攻略成功と同時に「軍艦・金剛」の「竣工100周年」をお祝いできればと思います。
決戦の時、ですね。
長時間に及ぶ激闘の連続になりますが、ムリなく……しかし速攻で驕敵撃攘に邁進してください。

終戦の日に添えて

くろ提督、暑い日々が続きますが如何お過ごしでしょうか?

小生は昨日、先の大戦で亡くなった親族の墓参で冥福と平和を祈念。

一転、本日は一提督として「E4攻略」の準備中です。

明日の早朝に出撃予定ですが、攻略成功と同時に「軍艦・金剛」
の「竣工100周年」をお祝いできればと思います。

それではまた(`・ω・)ゞ

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