徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

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WoTとWoWs

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

もうすぐイヴェントですね。
そういえば、なんか最終海域突破で米戰艦USS『アイオワ』BB-61のほかに、なんかの飛行艇もくるっぽいですね。

まぁ米軍がらみでコンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇じゃないかなと思いますけどね。
太平洋戦争期における米軍の代表的な飛行艇ですからね。
日本軍はコンソリという名前で呼んでいたみたいですけど、米軍ではカタリナの名前からキャットという愛称をつけていたようです。

さてそれはさておき………

ちょいといくつか動画をば―――



WoTでシャーマン・ファイアフライ使用時のこと。
ガルパン劇場版対応ということで、サンダース付属Verならびにあんこうチームヴォイスになっています。

マップ西の丘にあがってみたところ、敵主力はすべて市街を前進してきたので、自分を含めた数輛は遊兵状態。
敵の背後を突く形で進撃し、2輛を撃破しているうちに、味方主力は敵主力と交戦して壊滅。
敵主力は残存5輛。のきなみ損傷しているのですが、ファイアフライの17ポンド砲ですべて美味しくいただきました。
味方の犠牲的勇戦で、くろちゃんは敵15輛中7輛撃破で撃破数トップをいただきましたヾ('ヮ'*)ノ



こっちはWoWS。
くろちゃんはTier6驅逐艦『睦月』で進撃中。
先行するTier8驅逐艦『吹雪』とともに、敵艦隊のTier8戰艦『天城』に魚雷戰を挑みました。

2つも格上の敵戰艦を叩くわけですから、『吹雪』ちゃんを主、本艦を従としてやるのがベストなのですが...

『吹雪』ちゃんの61糎魚雷9本は全部はずれ―――
『天城』は速度を落としながらの回避。そして本艦めがけて14糎副砲で反撃してきました。
必殺の61糎魚雷6本を全弾命中させるも、『天城』撃沈に至らず...

まぁ、至近距離からとはいえ、格上戰艦に6本すべて魚雷を命中させることができて、気分は上々です。



壁|'-')ノよいお年を。
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砲撃戰にまつわる小話 其の貮

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

今回も前回に引き続いて戦前の砲撃戰についての小咄。

光学裝備を用いての砲撃戰が華やかな戦前とうってかわり、第二次世界大戦では電波兵器がハバをきかせるようになってしまったのは、提督諸氏、ご存知のとおりです。

ちなみに―――
電波探信儀、現在ではレーダーの呼び方でしられるコレは、英語でRADARと書きます。

RAdio Detecting And Ranging/電波による発見と距離測定

の頭文字をとった言葉です。

今回は電波兵器によって過去の遺物へと追いやられた光学射撃などに関しての小咄です。

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光学射撃はそのシステム上、對艦監視・捕捉・照準が容易な昼間戰鬪を前提としており、荒天下や夜間での光学射撃戰は特殊なケースによる応用戰鬪とみなされていました。
光学射撃の始祖というべきものは砲側照準による射撃、独立打方というものです。

これは艦橋の砲術長から各砲台長を経由して、彼我艦隊の速力や風力などを修正した射距離と苗頭の指示を受けた各砲手が、砲側で直接照準してバラバラに射撃する打ち方です。
明治38年(1905年)の対馬沖海戦―――日本海海戦―――での射撃はこのやり方で行なわれました。

苗頭(びょうとう)というのは、砲の照準と、実際に砲口を向けた際のズレのことです。
対馬沖海戦時の砲戰は距離5,000~8,000米で行なわれ、この際の砲の仰角はおよそ6度。水平に近い状態で発射された砲彈は、緩い山なり弾道を描いておよそ13秒後に目標に到達します。
敵艦が20節(時速約37粁)で航行していた場合、敵艦は13秒でおおむね134米前進することになります。
砲の照準は敵艦を捉えていますが、命中弾を得るため、砲口そのものは敵艦の約134米前方を指向することになります。
この照準と砲口のズレを苗頭といいました。

さて―――
独立打方は問題がありました。
発砲後の砲口からは当然のように発砲煙が吹き出します。この煙によって標的が見えないもしくは見えにくくなり、再照準に遅れがでました。
横須賀の戰艦『三笠』を見たことがある人ならわかるでしょうが、艦の舷側にズラリと砲が並んでいます。
航行していれば煙はすぐに後方に流されるとお思いでしょうが、となりの砲から出た煙が流されてくるので視界は利かなくなるのです。

独立打方ではその名の通り、各砲が独自に発砲するため、自砲の撃った砲彈がどこに着弾したのかがわからないという欠点もありました。

対馬沖海戦以降、海上砲戰の主流は独立打方から一斉打方へと移行します。
この打方は、照準こそ砲側で行なっていますが、発砲は砲術長の命令により、砲手が一斉に引き金を引きました。
このころ、自艦のはなった砲彈の着弾を他艦の彈着と区別するため、彈着時計なるものも用いられました。

大正時代になると、一斉打方は方位盤射撃へと進化します。
これについては前回の四方山話でさくっとご紹介しました。

方位盤射撃の時代、遠距離の敵を観測するために艦の高い位置に方位盤を搭載する必要があり、それまで一番高い艦上構造物であった通信用檣にかわって、艦橋自体が高層化していき、測的所と発令所が艦橋内に新設されました。

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画像参考:MONOCHROME SPECTER
巡洋戰艦時代の『金剛』
方位盤射撃実装以前のため艦橋は煙突と同程度の高さでしかない


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画像参考:MONOCHROME SPECTER
大改裝により戰艦へ艦種変更となった『榛名』
方位盤射撃など新機軸対応の為に艦橋は高層化している


『金剛』型、『扶桑』型、『伊勢』型といった戰艦群は、平均して海面より36米ほどの高さに設けられました。
なお、当初は背の低い艦橋ではなく通信檣の上部に設けられました。

測距儀も砲戰距離の延伸にともなって基線長が増えていき、方位盤とともに艦の高い位置に搭載されました。
方位盤や測距儀は艦の一番高いところに設置されたため、海軍部内ではこれらの裝備をトップと呼んだりもしました。

方位盤が置かれた場所は主砲射撃所と呼ばれ、射手である方位盤俯仰手がここで全主砲の引き金を引きました。
砲術長は射撃所の下に位置する主砲指揮所で指揮を執りました。
その後、新型方位盤の開発により、砲術長用の観測鏡が方位盤と一体化して装備されたことにより、主砲射撃所と主砲指揮所の機能を統一し、射撃指揮所となりました。

『大和』型戰艦と、その先行実験に用いられた『比叡』では、最新鋭の九八式方位盤が搭載され、測距儀よりも高い位置に搭載されたため、名称は主砲測距・測的所へと変わりました。
あわせて、それまでの多脚檣型にかわって、塔型艦橋が採用されました。
この艦橋形状の変更は、方位盤に不要な振動が伝わるのを防ぐためでもありました。


◆砲身の呼び方
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主砲の打方にはいくつか種類があります。
二聯裝、三聯裝の砲塔で砲塔1基の全砲門を発射する斉發
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なお、三聯裝以上の砲塔では、2門以上の発砲を便宜上、斉發と呼びました。
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艦搭載の主砲を2基以上発砲する斉射
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砲塔の左右どちらかの砲もしくは1門おきに発砲する交互打方
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砲戰で早期に命中弾を得るには、正確な射距離と苗頭を得るか、彈着時の水柱により射撃条件を順次修正し、再度の砲撃を続けることになります。
これを試射と呼び、命中弾がでたら効果射もしくは本射と呼ぶ連続射撃に移行します。

日本海軍では大正時代、初彈観測二段打方という標準射法がありました。
たとえば―――
砲戰距離2萬米での平均測距誤差は1,000米前後となるので、第一斉射で苗頭を修正。
第二斉射で遠近を判断します。
第三斉射で彈着位置を的艦の向こうもしくは手前に300~500米程度の位置へ落とすように撃ちます。
この段階で的艦をはさみこめるので、第四斉射から本射に移り、夾叉を得ることができます。
このあとは一斉射で3~4發撃つごとに1發の命中弾が得られるようになります。

大正末期頃から、『金剛』型を筆頭に各戰艦の改裝が行なわれ、主砲仰角がそれまでの15~20度から30度へ引き上げられ、遠距離砲戰能力が向上しました。
砲戰距離の延伸とあわせ、測距儀の改良と測距動作の改善が行なわれました。
それまでは、測距儀の上下の映像が合致すれば、その測距データを報告していました。しかし、合致した後にそれを崩し、再合致させることで、その繰り返しが正しい平均値に結びつくことが判明しました。
さらに測距儀本体も、2つの独立光学系を組み込んだ、2人の測距手による同時測距を行なえる二重測距儀が『長門』型戰艦に搭載されました。
この二重測距儀は『大和』型戰艦の三重式15米測距儀へと進化していきます。

トップの方位盤故障時に用いる予備である砲塔搭載の測距儀や後檣の測距儀からのデータを加味することで、砲戰距離2萬4000米での測距誤差は350米程度にまで改善されました。

昭和5年(1930年)の倫敦(ロンドン)軍縮条約以降、日本戰艦の主砲仰角は43度にまで向上し、砲戰距離も3萬5000米にまで延びました。
このころの日本海軍の艦砲射撃法は完成の域に達しており、米海軍相手に戰艦数の不足を兵員の質で補える態勢が整いつつありました。

戰艦『長門』は昭和10年に大改裝が行なわれました。その際、主砲塔に新裝備が追加されました。
潜望鏡式の苗頭観測鏡です。
戰艦の主砲は天蓋、前面、側面ともに分厚い裝甲でよろわれていますが、砲側射撃に備えて、砲台長や射手用の観測鏡窓がいくつも開いていました。
この窓の数を減らして砲塔防禦力を向上させ、同時に観測能力を向上させる狙いがありました。
この潜望鏡式観測鏡は長さ75糎、直径10糎程度のもので、砲塔の左右に横方向に突出し、内部の光学系に苗頭量をセットしておくと、的艦に正対させるだけで、砲塔に必要な苗頭量が設定される仕組みになっていました。
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黄色い丸で囲んであるのが潜望鏡式観測鏡


さて、下の動画をご覧ください。



主砲発砲時に盛大な黒煙が噴き出るのは当然ですが、砲身が下に降りた際に砲口から白い煙を吹いているのが確認できると思います。
これは噴気装置によるものです。
砲彈を発射したあと、筒内には發射用火薬である裝藥の残滓火炎を砲口から吹き飛ばすためのもので、機関科が管理する空気圧縮機でおよそ300瓩に圧縮された空気を、150気圧にして送り出します。
それが白い煙となって砲口から盛大に吹き出すのです。
WoWSでも艦に画面を近づけてみると、発砲後に砲口から白い煙が噴き出るのが確認できます。
ちなみにこの動画では、艦前部の1番・2番主砲の交互一斉打方を行なっています。

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操砲訓練中の戰艦扶桑
6番主砲前の水兵とくらべ14吋砲とはいえ砲塔はかなり大きい


それでは、『長門』型戰艦での主砲による砲戰の流れを簡単に紹介します。

16吋主砲では1砲塔あたり、砲塔員21名、彈庫員と火薬庫員が各18名で、合計57名で1個分隊を構成し、第一主砲が第一分隊、第四主砲が第四分隊という構成になっています。
分隊士は各砲塔の砲塔長となり、前部1番・2番主砲を束ねる砲台長、後部3番・4番主砲を束ねる砲台長は、10米測距儀を備えた2番・3番主砲の将校塔が戰鬪配置となり、観測鏡で砲戰を観測または独立打方に備えます。

砲撃は戰鬪射撃、教練射撃があり、開始の喇叭が艦内に鳴り渡ると、乗員はすわっとそれぞれの持ち場へ向けて走り出します。
舷側に延々と伸びるハンドレール―――手すり―――とその支柱―――スタンション―――も倒されます。艦内へ通じる扉なども閉め、数分後には総員がそれぞれの戰鬪配置につきます。

各砲塔では砲塔長以下砲塔員が番号を発唱。砲塔長は左砲、右砲をすばやく一瞥確認。伝令に、「○番(第一主砲なら一番、第四主砲なら四番)よし!」と伝えます。
伝令は指揮所に電話、伝声管、通信盤ボタンを押して報告します。

つづいて、「試動」の号令で、砲を稼働させる水圧弁が開かれます。旋回は水圧發動機を可動し、俯仰は水圧起動弁を開きます。水圧機が故障している場合、砲塔は使用不能となります。
これで砲塔は戰鬪即応態勢となります。

一番砲手は気圧弁に減圧された圧縮空気が150気圧と明示されているかを確認します。
これが足りていないと、発砲後に尾栓を開放すると火薬の残滓が砲塔内に逆流し、甚大な事故に至る恐れがありました。

俯仰旋回の試動が終わるころには、戰鬪用意の喇叭が鳴り渡ります。
砲塔長は砲塔内を見渡し、各部の戰鬪用意を確認、伝令に、「○番戰鬪用意よし」と知らせるよう伝えます。

指揮所では各主砲塔からの戰鬪用意よしを受けると、戰鬪もしくは教練戰鬪を命じます。

戰鬪喇叭が2回鳴り渡るや、砲塔長は、「彈藥揚げ」、「弾丸こめ」を命じます。
ここからが熟練砲塔員らのウデの見せ所になります。

一番砲手が右手の掌を外側に向けパッと前いっぱいに腕を伸ばします。
二番砲手はその手信号の動きを見るや即座に尾栓開放レバーを開位置に倒します。
噴気装置が作動してその音が響くなか、尾栓が開き始めます。
一番砲手は砲身の上に設置されている墳気圧力計と筒内の墳気状況を一瞬だけチェックし、よければ突き出している掌をぎゅっと握ります。
この動きに二番砲手は墳気レバーを叩いて墳気停止。二番砲手は十数本の雷管を差した火管帯を身に着けているので、火管を尾栓発火装置の火管口に挿入します。
この火管による事故としては、戰艦日向が昭和17年5月に砲塔爆発を起こしており、その原因はこの火管にありました。

一番砲手は砲室底部の床安全装置を注意しながら、左手の掌を上にして、横いっぱいに腕を水平に出します。
一番砲手の左に配置されている三番砲手はその手信号を受け、彈藥筺の把手を静かに上げの位置にします。

床安全装置が彈藥筺に30糎ほど押し上げられ、支点を通過して蓋が開いたとき、一番砲手は左手をサッと下げ、装填用のラマー桿を握ります。
三番砲手は一番砲手の左手が下がるや、彈藥筺の把手を上げいっぱいの位置まで動かします。

彈藥筺が尾栓の開いた砲尾まですばやく移動し、ピタッと定位置に止まります。
このとき、彈藥筺を引き上げるワイアロープが新品交換直後や古くなって伸びが生じているときは、彈藥筺が定位置より下に止まります。そうすると安全装置が作動して装填不能となります。
また、ロープがわずかでも短いと、砲尾に激突して装置を破損するので、ロープの調整は一番砲手のワザの見せ所でもありました。

一番砲手はラマー桿を静かに出し彈底に当てます。彈が少し動いた瞬間に全力で装填します。この間わずか2~3秒。
装填音が響いたら即座にラマーを引き抜きます。
直後、自動で二段落下式の装薬4個がラマーの前に下ります。
『長門』型戰艦の16吋砲は、砲彈1発を発射するのに55瓩の重さがある装薬4つを必要としました。
砲彈装填が不十分だと、砲彈が落下し、自動落下してきた装薬を押し潰す危険がありました。『長門』型戰艦の主砲は自由装填型で、砲身がどの俯仰角度でも装填できましたが、1噸ちかい砲彈を完全装填するため、通常は砲身仰角7度で装填しました。

一番砲手は装薬底部にラマーを当て、4つ前部を藥室に装填します。この際の薬室装填の速度には熟練の技術が必要でした。下手に装填すると、砲彈とラマーのあいだで装薬つぶれる恐れがありました。

装薬を装填し終えると、一番砲手はラマーを全速で引き抜きます。同時に、左手を掌を下にして左いっぱいに伸ばします。
三番砲手はこの手信号を受け、彈藥筺の把手を下げいっぱいに全力で操作します。
一番砲手は彈藥筺が急速降下して換裝室に収まり、防火扉が閉まるのを確認します。
ここで防火扉が完全に閉まらないと一番砲手が大けがをします。なぜなら、砲身はすぐさま砲撃のため仰角がかけられ、扉の閉鎖が不完全の場合、砲架台が防火扉を壊してしまうからです。

彈藥筺が砲尾から離れると、自動的に尾栓水圧發動機が作動し、尾栓が閉鎖されます。このとき、射手は尾栓が完全に閉め切らないうちに砲身に仰角をかけます。これは少しでも時間を短縮するための動作です。
尾栓の閉鎖機は断隔螺旋式の隔螺鎖栓で、120度ごとに4段の嚙合螺子がきってあり、30度回すだけで完全閉鎖できました。
水圧發動機が故障した場合、砲身側面には尾栓人力開閉ハンドルが取り付けられているので、これを操作して尾栓を開閉します。

閉鎖と同時に一番砲手は人差し指と中指をピンとたてた右手をいっぱいに伸ばします。
この手信号を受けた二番砲手はすばやく発砲電路開閉器を接にします。
このとき、砲身の仰角次第では、二番砲手は相当無理な姿勢をとることがあります。
発砲電路開閉器は砲身側面の尾栓人力開閉ハンドルのそばにあります。戰艦の主砲は基本的に長距離砲戰を行なうため、砲身は30度から40度の大仰角がかけられます。
一番砲手は砲身を載せた砲架台に乗っているので、大仰角時は数米下の砲室底部に下がっています。二番砲手は膝をつき、手を下に伸ばして覗き込むようにして電路を接にします。

二番砲手が電路を接にすると、一番砲手は砲塔長に報告します。右砲なら、「右よし」、中砲なら、「中よし」といった具合です。
砲塔長はこの報告を受けると、伝令に指示し、発令所に發射用意よしのボタンを押させます。

このとき、艦のトップでは方位盤と測距儀など各種測定器が、刻々と変化する敵味方の動きや環境条件などを射撃盤に送っています。
艦隊は針路を変え、速度を増していきます。
太平洋の大波をかきわけ、きりさき、艦首両舷にふきあがる波しぶきを引き裂いて4萬噸級の艨艟群が驀進する光景は、今日の自衛隊艦艇の航進にくらべても、ゾクゾクと震えがくるほどの景観でした。

いよいよ砲撃開始です。
的艦との距離2萬5000米。
「測距250(に、ご、まる)」の報告に、砲術長は静かに、しかし力強く、「一斉打方」。
各砲塔長は発令所からの指示を受け、左右砲の状況を確認、「左右砲よし」と伝令に伝えます。伝令は通信盤の発射準備よしのボタンを押します。

このとき、各砲塔の旋回手と俯仰手は、旋回角受信機、俯仰角受信機の基針を凝視し、追針が少しでもズれてしまわないよう全精力を傾注しています。

「打方はじめ!」の喇叭が鳴り響き、受信器の警笛が二秒間鳴ります。
受信盤の右の赤、左の青が点滅し、発砲します。

艦外では砲撃の轟音が海上に響き渡りますが、砲塔内は意外と爆音は響きません。
発砲と同時に、反動で砲身が大きく後退します。この砲身が後退する位置には一番砲手がおり、彼にとっていつか押しつぶされるのではという緊張感がありました。

発砲の瞬間、俯仰ハンドルを支える射手の手には、ハンドルが仰角側にぐっと引き込まれる感触が伝わります。
即座にハンドルを回して砲身の仰角を7度にまで下ろします。

砲身がもどると、自動で尾栓發動機が作動し、噴気装置も作動してその音が響くなか、尾栓が開き始めます。

ここからまた砲彈と装薬の装填作業が始まります。
このようにして、主砲内での作業は射撃やめの指示が来るまで繰り返されるのです。


最後に―――
日本海軍艦艇に搭載されたある裝備について簡単に紹介します。

艦砲による射撃は方位盤射撃により行なわれますが、発射した砲彈は目標のある一点に集彈されず、目標海面に散らばって着弾します。
これは精密射撃が可能な電探射撃でも同じことです。

この彈着範囲を散布界といいます。
当然ながら、散布界が狭いほど命中率は高まります。そして砲戰距離が短いほど散布界の範囲は狭まります。
なお、砲戰距離1萬米になると散布界の問題はほぼなくなり、よほどのことがないかぎり、この距離以下では確実な命中が期待できました。

しかし、その距離では当然、敵の砲撃も確実に命中するわけです。
自艦隊の被害を抑え、且つ敵艦隊を撃破するには、やはり遠距離砲戰で確実な命中弾を得る必要がありました。

散布界をおさえるため、方位盤射撃の際の基針と追針の合わせ方が研究されましたが、敵味方ともに動き続ける中で、絶えず追針を基針に合わせるのは熟練を要しました。

發射用意の合図の時に追針を動かし、発砲時に基針と追針を合わせてみたらどうか? と思う方もいるかもしれません。
このやり方ですと、砲身が早目に動くため、砲身を振るかたちとなってしまい、砲彈が目標から逸れてしまいます。

散布界縮小の研究が行なわれるなか、あることが見つかりました。

斉射をつづけていると、ときどき大きく離れて着弾するのがわかりました。
これは、発射された砲彈が近接して飛翔するときの相互作用で弾道が曲がってしまった結果でした。
砲塔1基に2本以上の砲身を備えた聯裝砲塔で起きる問題でした。

砲身の内部には螺旋状の溝が掘られ、砲彈はその溝に沿って回転しながら撃ちだされます。
飛翔中も回転しているので、わずかでも砲彈に前後のズレがあると、後続の砲彈が先行の砲彈が作り出す空気の流れにまきこまれ、弾道が変化してしまいました。

この問題を解消するには、砲身の間隔を広げればいいのですが、艦の幅に制限がある以上、砲塔の幅にも制限があり、間隔を広げるのにも無理がありました。

なら、影響が出ない程度に発砲の間隔をずらそうということになりました。
問題は―――
その間隔です。

間隔が短いと先行彈の影響を受けて弾道が曲がってしまいます。
間隔が長いと、先行彈の発砲による反動で砲塔がわずかに動き、砲身が左右に振れてしまいます。

短すぎず―――
長すぎず―――

その間隔を探り出す実験が繰り返されました。

この問題は昭和5年頃から検討されてきましたが、大規模な実験は昭和14年になってからようやく実施されました。

実験は14吋聯裝6基12門の多砲塔戰艦『扶桑』を用いて行なわれました。
砲彈には着色料が入れられ、どの砲が撃った砲彈がどこに着弾したかをわかるようにしました。
また、『扶桑』を固定し、着弾海面を定め、着弾箇所を正確に測定するための観測所が複数設置されました。

『扶桑』には試作品の電気式時隔付与装置が搭載されました。
各主砲の左右砲の發射時隔を、0秒/100分の8秒/100分の20秒の3段階とし、それぞれ3回の斉射を行ないました。

この射撃実験の結果、時間差を大きくするほど的の前後に着弾する遠近散布は縮小しますが、左右の着弾散布は広くなる結果が得られました。
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この結果をもとに、時隔対散布状況の曲線が求められ、各口径の砲に適した時隔が決められました。

14吋砲では0.1秒、18吋砲では0.3秒の間隔をあけて発砲するのが最適と決められました。
つまり、『金剛』型など搭載の14吋砲では、右砲発砲後0.1秒後に左砲を発砲する………というわけです。
『大和』型戰艦の18吋砲では中砲発砲、0.3秒後に左右砲としました。

映像や写真などでは同時に発砲しているように見えますが、実際は若干の差をあけて発砲しているのです。

発砲時隔を電気式に自動調定する九八式発砲遅延装置は昭和14年ごろに正式採用され、主力艦艇に順次、搭載されていきました。

この遅延システムは、発砲時に電流を流してヒューズを切ることを応用したもので、片方の砲に流れる発砲電流を回転型のリレーに分流させ、所定の時間だけ遅らせたのち残りの砲の発砲回路に流しました。



壁|'-')ノよいお年を。
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砲撃戰にまつわる小話 其の壱

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

次期イヴェントでは基地航空隊が参入するそうですね。
日本海軍の基地航空隊については、艦これサーヴィス開始年の夏にこちらで四方山話として載せているので、参考までにどうぞ。

基地航空隊

基地航空隊・其の弐


さて、今回の四方山話は砲撃にまつわるものです。

160418
出師準備が完了し臨戦態勢下の戰艦陸奥/昭和16年冬

戦前、海上戰鬪の主役は砲撃戰でした。
艦これ提督であればご存じ、ビッグ・セヴンたる『長門』、『陸奥』といった巨砲搭載艦がハバをきかせていたのです。

艦隊砲撃戰では、いかにはやく敵を見つけ、砲彈を射ちこむかが求められていました。

御承知のとおり、艦船は、海にただ浮かんでいるだけでもたえず上下左右前後に揺れています。
荒海を全速航行で突っ走り、ロデオの暴れ馬のごとく揺れ動く艦から砲を撃っても、同じように動いている目標に命中させるのは、ゲームや映画に描かれている以上に困難でした。

しかも、砲撃距離は日を追うごとに遠くなっていき、20世紀初頭では5,000~6,000米程度の砲撃距離だったものが、欧州大戦―――第一次世界大戦―――のころには1萬米をかるく超えてしまいました。
そして海軍休日に突入するや、列強海軍は制限された戰艦保有量で効果的な戰鬪をこなすべく、砲射程のさらなる延伸を追い求めました。

第二次大戦がはじまったころには、日本海軍の『大和』型戰艦や米海軍の『アイオワ』級戰艦が、射程をついに40粁台に到達させました。
40粁の距離ともなれば、艦上からは目標の姿はほとんど見えません。

この超長距離で命中弾を得るための精密な機械装置の開発、そしてそれを完璧に使いこなす熟練の兵員の育成が重要となりました。

当時の砲射撃システムは、方位盤という照準装置で目標を捉えてその方向を定め、測距儀で距離を測り、目標の角度と距離とを、艦内に設けた射撃盤という計算装置におくりこみ、砲を向ける角度を計算し、それから各砲にデータを送る―――という流れで構成されていました。

目標をよりはやく、より遠くから発見し、照準するためには、方位盤についている望遠鏡を艦のなるべく高い位置に置くのがベストです。距離を測るうえでも、やはり高いところに測距儀を置きたいのです。

『扶桑』型戰艦は前檣楼のトップに測距儀を置き、その下に方位盤を設置しました。
『長門』型や『大和』型戰艦は逆で、トップに方位盤を置き、その下に測距儀を置きました。
160418c
日本海軍で最初に方位盤を装備した戰艦扶桑
測距儀は前檣楼トップに置かれている



160418d
昭和6年7月に大阪港で一般公開中の戰艦長門
方位盤は前檣楼トップに置かれている


それでは―――
敵を方位盤照準装置の照準望遠鏡で捕捉しましょう。
方位盤には砲術長の射撃指揮官、旋回手、射手を担当する俯仰手の3人が乗り込んでおり、それぞれに望遠鏡が据えられています。
旋回手は方位盤を旋回させます。方位盤は防弾蔽いのなかにはいっており、方位盤全体が動くようになっています。

なお、『大和』型戰艦の方位盤は八角形の固定室にはいっており、3つの望遠鏡の先が中心部に集められ、その先端部分が方位盤の天井中心部から潜望鏡のようにつきでて、周囲を見渡す構造になっています。

方位盤が目標を捉えると、各主砲塔もその方向へと旋回します。
とはいえ、方位盤の望遠鏡がとらえた方角が、主砲塔の砲口が向く方角ではありません。自艦同様、的艦も動いているのですから、的艦に砲口を指向して発砲しても、砲彈は的艦の通り過ぎたあとの海面を虚しく乱打するだけです。
160418e
戰艦長門の九四式方位盤照準装置/1946年5月米軍撮影
旋回/俯仰用望遠鏡など部品が一部喪われている


目標を捕捉したら、次は各種データ―――海軍ではこれを諸元と呼びました―――を射撃盤に取り入れて計算しなければなりません。
どういった諸元を入力するかというと―――

方位角と呼ぶ、方位盤で捉えた目標の向き。
自艦の針路と速力。自針、自速といいます。
測距儀で測った彼我の距離。
これらの諸元の変化率から計算される的艦の針路と速力。これを的針、的速といいます。
ここまでの情報は、砲撃戰においてもっとも重要な諸元ですが、実際に目標を捕捉してからでないとわからない数値です。

これらにくわえて―――
自艦の上下、左右、前後の動揺による角度変化。
徹甲彈か通常弾かといった砲彈の種類と形状、重量など。
発射用火薬の種類、量、温度、製造後の時間経過による質的変化。
砲齢とよぶ砲身の使用回数。戰艦級の大口径主砲の寿命は75~100發程度です。
砲彈が飛翔する空中の気温、気圧、風向、風速。
砲撃戰実施海域の地球の自転速度。
砲戰時における各砲の高低差、水平距離など。

これらの射撃諸元が、測定機や数値表から、艦の主要防禦区画内の中心部にある射撃盤計算装置に送られ、電気的に自動追尾したり、担当員がハンドルを回して機械式計算機構に調定し、刻々とかわる時間の要素もとりいれて、各砲ごとの旋回角、砲身の俯仰角を算出しました。
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戰艦長門の主砲射撃盤/1946年5月米軍撮影
終戦時の混乱のせいか部品が失われている


ちなみに―――
これら射撃システムには、驚異的なまでの精度が要求されます。
旋回角で例にとりますと、『大和』型戰艦の46糎主砲の射程は4萬2000米になります。目標の艦が全長300米の大型艦で、距離4萬米で併走しているとします。
このとき、方位盤の望遠鏡で的艦の中央に照準を合わせても、砲の向く角度が左右どちらかに1度の5分の1程度ずれただけで、発射した砲彈は的艦の前後に外れて着弾します。
的艦との距離が4萬米から1萬米になった場合でも、角度が1度ずれれば、もう砲彈は当たりません。
そのため、射撃装置の精度は1度の60分の1である±1分となっていました。
ハイテク時代の21世紀ならいざ知らず、機械式、電気式全盛期の当時にあって、±1分の精度を維持するのは容易ではありませんでした。

なお、当時はトランジスタは実用化されておらず、日本の貧弱な基礎工業力で製造される貧相な真空管が主力で、艦上という過酷な環境下に耐えられる品質はありませんでした。そのため、射撃盤の中では、電気的計算回路と機械式函数計算機構を立体的に複雑に組み合わせて運用していました。

ここでちょっとわき道に逸れて………測距儀について。
とくに15米測距儀が有名ですね。『大和』型戰艦に搭載されていましたから。
艦これでも実装されている15米測距儀ですが、これについて簡単に紹介します。
『大和』型戰艦には4つの15米測距儀が搭載されました。この15米というのは基線長の長さを示しています。左右のレンズの間隔をあらわしています。
前檣楼トップ、後檣、第二と第三の主砲塔に搭載されましたが、設置位置の低い主砲塔の測距儀は予備とされ、主として前後檣の測距儀が用いられました。
この測距儀は従来のものよりはるかに大きく、精緻に造られており、製造を担当した日本光学工業株式会社は工場を増設して対応せざるをえませんでした。
なお、価格もケタはずれでした。
15米測距儀の価格は40萬圓。これは現在の貨幣価値に換算すると、ざっと5億円をこえる額になります。

話を戻して―――
砲戰中は自艦も的艦もたえず動いているので、前檣楼の方位盤では、旋回手と俯仰手は常にハンドルを操作して、望遠鏡を目標に合わせていなければなりません。
艦がローリングで、たとえば2度動いたとすると、乗員はほとんど揺れを感じませんが、10粁先の目標を捕捉している望遠鏡からですと、およそ700米も上下に動いてしまいます。
倍率の大きい望遠鏡ですと、目標はすぐに視野から飛び出てしまいます。それに距離も変化し続けます。

刻々と変化する値はたえまなく射撃盤に送られるので、射撃盤から諸元を受け取る各主砲側でも、砲身を諸元に合わせて動かさなければなりません。
『大和』型戰艦の主砲塔は砲塔重量およそ2500噸をこえ、砲身も1本あたり165噸という重さでした。
この重い砲塔と砲身は、500馬力原動機から送られる水圧を100馬力の水圧モーターに導き、そのバルブを各砲塔内の旋回手、俯仰手が操作して、射撃盤から来た角度を示す基針に、砲の動きと連動させた追針をあわせることで動かしていました。
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この基針と追針がぴったし一致しないと、トップの射手が引き金を引いても主砲は発砲しません。
砲塔の旋回受信器の基針、追針。
砲塔の俯仰受信器の基針、追針。
この4本が一致していないと、発砲回路が形成されないわけです。
『大和』型戰艦の場合ですと、3基の主砲のそれぞれで砲塔旋回用の旋回受信器1箇、砲身を上下に動かす俯仰受信器3箇―――3聯裝主砲の為3箇―――の針8こがぴったし一致していないと、主砲は発砲されません。
主砲3基9門の全門斉射を実施するには、各砲塔の旋回手1人、俯仰手3人の計12人が、最高水準の技量でピタリと揃ってないといけないわけです。

旋回手も俯仰手も、艦が出港すれば絶えず持ち場で訓練に励んでいました。
そうやって各員は自身の伎倆を高め、来るべき決戦に向け、備えていたのです。
その機会はほとんどありませんでしたが………

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弾着観測用の気球を繋止している戰艦陸奥/大正末期撮影
上空からの観測データも主砲射撃に必要なものであった



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荒天下を航行する戰艦榛名と先航する霧島
このような状況下でも命中弾を得るべく乗員は猛訓練に励んだ




壁|'-')ノよいお年を。
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エース

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

『沖波』の可愛さゆえにアンドロ版艦これの選考結果がきていましたネ。
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艦これサーヴィス当時からのプレイ時間の古さと『沖波』への愛だけが自慢の古参艦隊である我が艦隊は、『沖波』LOVEと年功序列なのか当確。
可愛い『沖波』的にこれはヒジョーに心苦しい限り。

なぜなら、ここ2週間ちかく、『沖波』ヴォイス聞く以外まったく艦これをやっていないから。
そんな『沖波』派艦隊が当確し、脂がのっている今をときめく中堅~新規の艦隊諸氏が落選しまくっているわけですから。

いや、ほんと申し訳。

『沖波』の、「ちかい..ちかいですっ」を聞きながら任務の方をちょこっとのぞいてみたところ...
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そういえばこんな任務もあったな~と気づいた次第。

さて、Wikiや艦これWikiにもあるとおり、元ネタは海軍戰鬪機隊の零戰乗りである岩井勉氏。
日本海軍戰鬪機隊でも有数のエース・パイロットですね。

今回の四方山話はちょこっと方向を変えて、この《エース》についてです。


エースとは、当然ながらトランプの絵札名に由来しています。
最初にエースという名称を用いたのは、歐州大戰―――第一次世界大戰―――においての佛蘭西(フランス)空軍でした。
当時の航空先進國であった佛空軍で、空中戰において切り札的な役割を果たす戰鬪機乗りを讃える言葉として用いられました。
ほどなくして、米英獨といった各國にも、ウデに自慢の戰鬪機乗りを意味する言葉として広まっていきました。

エース、日本では撃墜王として呼ばれるこの表現ですが、これは歐米で用いられているもので、じつは日本陸海軍ではエース認定や最多撃墜記録保持者を顕彰する慣習は、まったくといっていいほどありませんでした。

エースだ撃墜王だといった言葉は、飛行機乗りの間でかわす雑談の一種に過ぎず、陸海軍当局も個人の撃墜記録や認定はいっさい行なっていませんでした。

さてさて―――
エース、と呼ばれるにはどうしたらいいのでしょうか?
当然ながら、多数の敵機を撃墜することです。
戰鬪機だけでなく、爆撃機や輸送機、水上機でもいいわけです。

歐州大戰時の獨逸空軍では、10機撃墜を達成することでエース認定としていました。
その後、歐州大戰に途中参戰した米陸軍航空隊が5機以上の撃墜達成者をエースと呼ぶようになると、英佛伊などの各國もそれにならって5機以上撃墜でエースとして認定するようになりました。

ところで………
撃墜、と言うは易いですが、撃墜《認定》は各國まちまちでした。

◆獨逸
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獨逸空軍では、歐州大戰でも第二次大戰でも、厳格厳密な個人撃墜記録を残しています。空戰場のほとんどが地上であることも大きいですね。撃墜機の残骸を確認しやすいですし、軍民問わず目撃者に事欠きませんので。
それでも、撃墜認定はガンカメラによる記録か、撃墜者本人以外の目撃証言が必要で、個人申告は一切認められませんでした。
多数で敵機を攻撃する共同撃墜に関しては、トドメをさした操縦者を特定し、その者に戰果を与えました。
誰がトドメをさしたか特定できない場合は、個人記録ではなく部隊戰果としていました。


◆英吉利
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英空軍では歐州大戰でも第二次大戰でも、原則として個人記録は公表しない方針を採っていました。
ただ、公表はせずとも、個人撃墜記録は作成しており、優秀な戰鬪機乗りの戦歴や撃墜数をときおり報道機関に提供し、國民の戦意高揚に役立てていました。
撃墜認定は、『完全撃墜』、『撃墜ほぼ確実』、『撃破』の3段階に分けられ、とくに完全撃墜の認定は複数の目撃証言や物証が求められていました。


◆亞米利加
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米國ではエース認定がまちまちで、統一された基準がありませんでした。
多数で敵機を撃墜した場合、歐州大戰のころは攻撃に参加した全員に撃墜戰果として認めており、いわゆる重複算定が行なわれていました。
この場合、当然ながら実際の撃墜数とのあいだに大きさな誤差が生じ、今後の航空作戰に支障が生じる結果になりました。
そのため、戦後になって改められ、第二次大戰中は攻撃に参加した搭乗員で公平に分割する方式が採られました。
つまり、2機で敵機1機を撃墜したら0.5、3機で1機を撃墜したら0.3、4機で1機を撃墜したら0.25―――といった具合です。
米陸海海兵の3航空部隊のエース・リストなどに、端数の付いた数字を見かけるのはこのためです。

なお、部隊によっては割り算による認定を嫌い、籤引きや指揮官の判断による戰果の割り振りが行なわれてもいました。このほか、空対空戰鬪だけでなく、地上攻撃での車輛撃破も撃墜とみなす部隊もありました。
部隊ごとのローカル・ルールが存在したため、米軍でのエース保持者のスコアは、実際の撃墜数とかなりの差が生じているといわれています。

米海軍航空隊では、共同撃墜については格下の搭乗員に戰果を譲る習慣がありました。


◆佛蘭西
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エース発祥の軍である佛蘭西ですが、その撃墜記録の認定はほかの國にくらべてヒジョーに雑でした。
佛空軍では、撃墜確実、不確実、撃破、単独撃墜や共同撃墜などをごっちゃにし、明確な分類をしていませんでした。
そのため、第二次大戰における佛空軍のエース保持者の戰果は、相当な水増しによるものとみなされています。


欧米では個人記録を重視し、エース認定を受けた搭乗員はまさにヒーローでした。
エース・パイロットは認定と同時に前線を引き払い、本國に凱旋し、國民的英雄として遇され、なかには昇進し、戦意高揚のための宣伝広報として、國内各地を巡業することもありました。
そのため、実際はたいしたウデを持っていないのに、空中戰という混沌とした戦場の特異環境を悪用して戰果を水増し、捏造して不当にエース認定を受けた者も少なくありませんでした。
そういったパイロットは本國に凱旋するや、宣伝担当として戰鬪とは無縁の安全な本土でぬくぬくと広報活動にいそしみ、終戦まで馬脚をあらわすことはありませんでした。

一方で、空の戦場こそ我が生涯とみなし、大空で散華することを求める生粋のエース戰鬪機乗りも多く存在しました。
そういった戰鬪機乗りは、安穏とした後方勤務でくすぶることをよしとせず、ことあるごとに第一線の戦場に戻ることを熱望していました。
たとえば―――
1944年8月24日にルフトバッフェ(獨逸空軍)史上初の300機撃墜を達成するや、翌日にはヒトラー総統よりダイアモンド騎士十字章を授与されたエーリッヒ・ハルトマンは、1945年1月、最新鋭ジェット戦闘機Me262を裝備する第44戰鬪機集団に転属しましたが、ほどなくして古巣の第52戰鬪航空団に戻っています。
新鋭ジェット戦闘機よりも、ハルトマンは東部戦線でともに戦ってきた戦友を選んだわけです。
ハルトマンの最終記録は、撃墜352機です。

戰鬪機乗りではありませんが、第二次大戦における伝説的軍人のひとりであるルフトバッフェの急降下爆撃機乗りであるハンス・ウルリッヒ・ルーデルも、ヒトラー総統より、特別にデザインされた獨逸最高の勲章であるダイアモンドおよび剣付黄金柏葉騎士十字章を授与されていますが、ヒトラー総統とゲーリング元帥から飛行をやめるよう伝えられると、「ならこの勲章はいらない」と告げます。
その後、伯林(ベルリン)にせまる蘇維埃軍への地上攻撃に出撃。1945年2月9日の出撃で乗機が被弾、片足を喪う傷を負います。しかし4月、義足をつけて再出撃する強靭な精神力、体力を発揮します。
戦後、片脚の登山家としても有名になりました。

エース・パイロットには本土帰還の優遇措置のほか、搭乗機に撃墜マークであるキル・マークや、派手な塗装が認められました。こういった機体は、ネット検索をかければズラズラでるのでおなじみですね。

では………
日本はどうだったのか?
当局は個人記録を取っていません。これは確かです。
個人が日記などに自主的に記録した数字が、撃墜記録ということになります。
たとえば、著名な撃墜王である坂井三郎氏は64機の撃墜記録をもっていますが、実際の撃墜数は不明です。64機よりも少ないかもしれないし、多いかもしれない………
空戦における撃墜確認、認定が非常に難しいゆえのことです。
とくに広漠たる太平洋が主戦場であるため、撃墜した敵機の残骸が、戰鬪後に確認できないことも認定困難の要因になっています。

日本軍の戰鬪機にも、撃墜マークを描いています。
欧米と違う点は、日本軍の航空機は搭乗員ひとりひとりに与えられたものでなく部隊の装備品であるため、搭乗員の撃墜記録というより、戰鬪機の戦歴とみる方が正しいです。
侵攻作戦でAという搭乗員が乗って、後日、基地上空での邀撃戰でBとという搭乗員が乗り、損傷修理したあとはCという搭乗員が乗り込んで出撃する―――といった具合で、描かれる撃墜マークが誰が墜としたかわからなくなってしまうのです。
さらに、部隊交代の際には、後任の部隊に機材を引き渡すことも多く、撃墜マークも後任部隊に引き継がれていくわけです。

とはいえ、多数の撃墜マークが描かれた機体は、激戦を戦い抜き、熟練の整備員が丹精こめて整備しているだけに調子のいい機体が多く、熟練搭乗員の乗機に割り振られることが多く、結果的に、さらなる撃墜マークが描かれていくことになります。
撃墜マークの多い機体は、戦歴を示すだけでなく、搭乗員の活躍を示すものでありました。搭乗員が活躍できるということは、それを可能にする快調な機体を維持できる整備員たちの努力の証でもあり、機体の無事生還とマークの増加は、搭乗員以上に、整備員たちにとって誇りでもありました。
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チモール島クーパン基地の第三航空隊所属一號零戰
広報写真なので機密保持の為垂直尾翼の部隊表記が消されている


日本軍では個人での撃墜記録はとっていない―――これは先にも述べました。
個人記録を作成しないのは、搭乗員同士の功名争いをなくすためと、部隊の団結を維持するためといわれています。
海軍戰鬪機隊での、戰果集計や確認はどうしていたのか?
当然、参加した搭乗員個々の口頭による報告です。
それを各指揮官が聴取、集計し、撃墜確実不確実の判定をくだしました。重複戰果も考慮にいれて、最終的な部隊報告としてまとめあげます。
この戰果確定に、地上や海上からの目撃や観測が加われば確実性は増します。
とはいえ、残骸の確認や目撃者が多く、敵味方ともに搭乗員の生存率が高い大陸戦線などの地上にくらべ、海上での空中戰はどうしても搭乗員個々人の申告に頼らざるを得ません。それだけに重複や誤認が多くなるのはやむを得ないことです。
なかには戰果の水増しをもくろむ不届き者もいるかもしれません。
それでも―――

戰果報告は厳格に行なわれました。

この戰果報告、戰鬪報告に虚偽の申告がはいることはほとんどありませんでした。このことは、実際に、その場に居合わせた者でしかわからないでしょう。それほどの張りつめた空気の中で報告は行なわれました。
ガダルカナル、モレスビーといった激戦地を担当する南東方面に取材に赴いた報道員や従軍カメラマンは、部隊の報告の模様をこう伝えています。

ラバウル基地の指揮所前で、彼らの報告を聞きなれたわたしは、なんど聞いても、その戰果報告にウソがあろうなどとは一度だって考えたことはない。
長官の目も司令の目も、『嘘はつかせんぞ』と怒鳴りつけそうな目つきで、搭乗員の目をにらみこんでいる。これでは、どんな図々しい奴でも嘘はつけないし、水増しなんてできるもんではない。
ラバウル基地の報告は峻烈だった。こんな雰囲気の中での報告を信用しないような奴は、よほどの天邪鬼だ。


これはラバウルの航空隊に限った話ではありません。
程度の差こそあれ、日本海軍戰鬪機隊全般で見られた光景でした。
第一線で米英空軍と戦う実施部隊には、水増しや虚偽の申告を受け入れる余地はありませんでした。
理由は単純です。
いい加減な報告を受け入れてしまえば、今後の戰鬪の推移や戦局に影響を及ぼしてしまうからです。

たとえば―――
敵が100機の戦闘機を配備したので、我が軍は零戰50機で攻撃をしかけました。
我が軍は10機が未帰還となりましたが、敵機撃墜40機の報告が行なわれました。
これをそのまま信ずれば、次の戰鬪は敵機60に対し我が軍は40機での空戦となります。初戦で2倍の敵を相手に戦い、損失に4倍する戰果を挙げたのですから、こちらの優勢は疑いようがありません。
さらなる反復攻撃を仕掛け、敵戰鬪機を撃滅するのが作戰の常道となります。

ですが、もし、敵機の実際の損失が我が軍と同等の10機でしかなかったら………?
押せ押せで攻め込んだ40機の我が零戰隊は、想定よりも多い、我に倍する90機もの敵機と交戦することになります。

攻めるも―――
守るも―――
戰鬪で絶対的基礎となるのは、的確な情勢分析です。

戰果の水増しや虚偽申告は、この分析を誤らせ、徒に被害を累増させる結果につながります。

だからこそ、戰果判定は峻厳なものにならざるをえないのです。

それでも、戦場の霧と称する過誤や錯誤はなくなりません。これは21世紀の戦場にあっても同様です。
どれほど厳格をこころがけても、戦場という異質な環境下では、報告者の観測能力に狂いが生じてしまうものです。
その観測能力は、搭乗員の実戦経験、熟練度に直結しているのです。

坂井三郎氏も著作で述べています。
飛行時間も一人前と呼ぶにふさわしいほどになった部下に、初の撃墜をさせようとしました。
部下は敵機に食らいつき、射撃し………敵機は地上に墜ちていきました。激しい旋回機動で徐々に高度が落ち、敵機は自ら地上に墜落したのです。
基地に戻ってから、部下に尋ねました。
敵機は墜ちたか? わかりません。目の前から消えました。
敵機の種類は? とにかく零戰や中攻(陸上攻撃機)じゃなかったです。
敵機の國籍は? わかりません。

実戦経験が十分でないと、視野狭窄を起こし、このように戰鬪をどのように進めていったのかわからなくなってしまうのです。

昭和18年中ごろまでは、前線の戰鬪機隊には中支以来の熟練搭乗員や、開戦以来の実戦経験豊富な搭乗員がまだ一定数生存しており、彼らを軸に組織的な戰鬪が可能でした。司令官など幕僚クラスも、ながく前線で米英軍と対峙し、その戦いぶりをイヤというほどみてきているので、戰果報告や判定は厳格でした。
しかし、熟練搭乗員の戦死や負傷や病気による後方撤退が増え、経験未熟な若手搭乗員の比率が大きくなってくると、次第に制度は低下していきました。
指揮官クラスにおいても、華々しい戰果を期待し、搭乗員の申告を疑うこともせずに取り上げる経験の浅い士官が増え、撃墜戰果を挙げても挙げても―――挙げていると信じている―――衰えを見せない米英軍機との戰鬪という、蟻地獄のようなジリ貧的状況に追い込まれていきました。

そんな末期的状況の太平洋戦争終盤、突如として登場したのが綺羅星のごとき熟練搭乗員をあつめ、最新鋭機の紫電二一型を装備した松山第三四三航空隊でした。
海軍の至宝ともいうべき超熟練搭乗員を集めた精鋭部隊であり、エース級の搭乗員がごまんと揃っていました。
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終戦後米國へ空輸される主翼に米國籍マークが描かれた紫電二一型
2016年時点で現存する3機の紫電二一型のうちの1機




壁|'-')ノよいお年を。
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潜水艦操縦練習機

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

今回の四方山話は、海軍が戦前に開発・運用していたシミュレーターについて。

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イラスト:芹野いつき

◆潜水艦操縦練習機

水上を航行する水上戰鬪艦艇に対し、海中に潜って機動する潜水艦は、水平移動だけでなく、潜航深度を変化させる垂直方向の機動も可能な艦種です。
航空機と同じく、三次元機動が可能な唯一の海軍艦艇ということになります。

潜水艦は洋上艦艇にくらべ、海中でのバランスの保持が難しく、航行や戰鬪時の洋上監視も異なってきます。
現代の潜水艦は、無尽蔵ともいうべきエネルギーを引き出す原子力推進によって、海中の恐るべき刺客として君臨していますが、戦前・戦中のころの潜水艦はそうではありませんでした。
ざっくばらんに言えば、可潜艦―――海中にもぐることができる洋上艦―――でした。

こういった特殊な艦である潜水艦は操縦操作が難しく、その習得には長期間にわたる絶え間ない訓練が必要です。
一番いいのは、潜水艦用乗組員を実際に潜水艦に乗せて訓練することです。

しかし、この場合ですと、咄嗟の際の緊急対処が困難で、最悪の場合は沈没事故につながる恐れがあります。
指導要員や教官が同乗していたとしても、乗員のほとんどが訓練生であれば、緊急時の対応は厳しいといえるでしょう。

そこで、実際の潜水艦とおなじ操縦機能をもつものを陸上に設け、これで訓練を行なうことが検討されました。いわば、潜水艦実習シミュレーター、というべきものです。

とはいえ、シミュレーターをつくりにあたり、まずは海中において潜水艦がどういった挙動をするかを調査、把握しなければなりません。
実際の潜水艦に搭載されている各種計器、操作装置。それら計器や装置の操作手順、潜水艦を動かすことによって生じる反応など、シミュレーター開発のためにはさまざまな事象を調べる必要がありました。

たとえば舵。
日本海軍艦艇では、おおむね舵の数は1つです。
ですが、こちらの四方山話でも紹介しているとおり、『扶桑』型戰艦は並列配備で2枚の舵を備え、『大和』型戰艦では推進軸にはさまれるように小さい2つめの舵が備え付けられていました。

海中での三次元機動をおこなう潜水艦では、舵が1枚では不十分でした。
潜水艦には縦舵、横舵、潜舵の3つが備わっています。

縦舵と横舵は艦尾側にそれぞれ垂直と水平になるように取り付けられています。
潜舵は艦首付近に水平に取り付けられていました。
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参考画像:ウッドマンクラブ

縦舵は洋上、海中での航行時の方向転換に用いられます。
横舵と潜舵は潜航、浮上、深度の調整に使用します。

推進システムに関しては、戦前、戦中のころの、日本をはじめとした各國潜水艦の推進動力は、ヂーゼル機関と主電動機―――モーター―――の2種混載が普通でした。
洋上航行時はヂーゼル機関でスクリューを回し、推進軸に取り付けてある主電動機を発電機として用い、艦内に積んである蓄電池に充電します。
ひとたび潜航すれば、ヂーゼル機関と主電動機間の接手を切り離し、蓄電池で主電動機を動かしてスクリューを回します。

ヂーゼル機関を動かしていると、大量の空気が必要となります。通常は、艦橋の両側に設けてある空気取入口より空気をガブ飲みします。
ですが、波が高い時や荒天時は海水が流入する恐れがあるので、艦橋にある乗降ハッチを開放し、空気取入口として利用します。このハッチの直径は60糎ほどで、航行時はかなりの風が発令所などに吹くことになります。

潜水艦の中枢部は発令所になります。
映画とかでもおなじみ、潜望鏡やクルーらが映っているアレです。
発令所は艦内にあり、艦橋内にはありません。
ですが、潜水艦にも艦橋はあります。
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参考画像:K-DOCK

潜水艦の艦橋は窓があるので、独立した部屋があるように見えます。実際は外とつながっており、潜航すれば水没します。
この艦橋と艦内をつなぐハッチ内には梯子がありますが、これを使って上り下りする際の注意点として、踏み棒ではなく横の手すりをつかむことが叩き込まれます。
なぜなら―――
潜航時ともなれば、乗員は飛び降りるような勢いで降りてくるため、踏み棒をつかんでいるとほぼ100%、上から降りてくる乗員に手を踏みつぶされます。

潜水艦の浮上と潜航は、艦体各部に浮力タンクが設けてあり、潜航時はここに海水を入れて潜ります。
浮上時は空気を充填して海水を押し出し、浮かんでいきます。
洋上にいるときは空気がはいっており、浮力を艦にもたらします。
このタンク内の空気の抜き方には熟練が必要とされます。艦のバランスを保ちつつ潜航するため、担当の乗員は傾斜計、深度計を見ながらレバー操作を細かく行なっていました。

潜航する際は、ヂーゼルから主電動機に航走システムを切り替え、全乗員が艦内にはいって艦外部への開放部をすべて閉鎖します。
艦内の隔壁にも直径60糎ほどの通路が開けられていますが、これも防水扉で閉鎖します。
次に、浮力タンクのキングストン弁を開いて海水を下から入れていきます。
タンクへの注水が進むと艦は徐々に沈んでいき、上甲板が海面と同じ高さにまで潜っていきます。
このあと、タンク上部のベント弁を開くと、タンク内の空気が一気に放出され、艦は海面下へと沈降していきます。
この際、潜航角度はダウン角―――ダウントリム―――5度程度になります。あまり急角度にすると艦首を持ち上げることが困難になります。

浮上の際は、浮上海面に障害物やほかの艦船がいないことを確かめた後、空気ボンベから高圧空気を浮力タンクに送り込み、海水を押し出して艦橋から浮上を始めます。
艦が浮上するや、見張り員が飛び出して周囲の状況確認を行ない、ついで艦長が艦橋に上がります。
同時に、低圧空気ポンプを作動させ、高圧空気を低圧空気に切り替え、推進システムをヂーゼルに変更します。
ヂーゼル機関が始動すると、再び空気を大量に吸い始めますので、艦内に新鮮な空気が満ち満ちていくことになります。その後、空気取入口が開かれ、艦は完全な浮上状態となります。

さて―――
潜水艦の通信システムは無線です。
しかし、大半の電波は海面にあたって跳ね返ってしまい、海面下に潜っている潜水艦にまで届く電波は超長波程度になります。これを用いて交信は可能ですが、海面下付近にいると敵の對潜部隊に捕捉される危険が高いため、必要な情報のやり取りは、あらかじめ定められた符号や略号を用いることになります。
現代の原子力潜水艦でも、潜航中の交信はELF交信に頼っており、ELFでは15~30秒でアルファベット1文字を受信するのがやっとという遅さです。

日本海軍の潜水艦では、波長1萬5000米の超長波を用いており、艦首もしくは艦尾と司令塔のあいだをむすぶジャンパーワイヤーに、5~6糎ほどの太さの水防空中線を用いて受信を行なっていました。

短波無線については、専用のアンテナを海上に突出させて交信していました。
このアンテナは昇降短波檣、短波無線檣と呼ばれ、潜望鏡に似た太い金属円柱の上部に、1米くらいの長さの絶縁物の筒を取り付け、そのなかにダブレットアンテナを納めていました。
必要な時に潜望鏡と同じく昇降させることができました。
この短波無線檣は当時、日本独自の裝備でした。

こういった様々な裝備、動きをする潜水艦の操縦、操作技術の習得のために、操縦練習機が開発されました。
用兵側と設計技術者のあいだで協議が何度も繰り返され、代表的な潜水艦が選ばれたのち、その艦内設備を模した練習機が呉の潜水学校に2基設置されました。
練習機は、発令所を模した箱、指揮・訓練用の管制盤、専用電源で構成されました。

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指揮官用として各種の命令發受信器のほか、速力表示器、操舵用の縦舵、横舵、潜舵の舵輪、転輪羅針儀、舵角指示器、注排水用キングストン弁、ベント弁の遠隔操作レバー、高圧空気バルブと圧力計、各浮力タンクの圧力計などが備わっており、操作、練習が実艦を用いずとも可能となりました。
さらに、潜水艦の状態を示す傾斜計、深度計、水圧計、動力系統の速度計、軸回転計、電圧電流計、温度計、湿度計、気圧計、海図盤、航路図、聴音機や探信儀指示盤なども備わっており、これらの訓練も可能でした。

各種計器には、管制盤から種々の指示が与えられます。これに従って訓練生が操作すると、計器には実艦で現れるのと同じ電気的、機械的反応が表示されます。
さらに発令所を模した箱は、潜航や浮上時に、その操作にあわせた傾斜や動揺がモーターによって与えられました。

通常の操作習熟だけでなく、異常時に相当する指示命令を与えることで、正常運転から非常時に対処する応急処置の訓練も行なうことができました。

これほどの練習システムをつくっておきながら、日本海軍は潜水艦を漸減作戦の一環として対艦隊攻撃に振り向け、さらに日々進歩する潜水艦裝備、對潜裝備の開発、情報収集を怠り―――

日本の潜水艦は犠牲に見合う戰果を挙げることなく、就航した潜水艦の大半が太平洋の海底に永眠することになってしまったのは、まことに残念でなりません。

最後に―――

日本海軍の伊號潜水艦はおよそ90名程度の乗員が乗り込んでいました。
驅逐艦などの小艦同様、艦内は家族同然の一体感が醸成されており、艦長から階級の低い一等水兵や二等水兵に至るまで、形式ばったことのない親密さが生まれていました。
そんな潜水艦で………尾籠なネタですが………

人がいるところ、排泄はつきものです。
海軍の古い潜水艦には、じつは厠―――つまりトイレはありませんでした。
用便はどうしていたのかというと、洋上に向けて………ですね。
広大な太平洋が洗浄トイレだったわけです。
出来うる限り我慢はしますが、どうにもならなくなると、甲板にあがり、支柱につかまりながら用を足すわけです。

伊號潜水艦では上甲板の司令塔下部にありましたが、潜航中は水没するので使用できませんでした。
艦内にも厠はありますが、用を足した後、各種バルブを操作し、圧力ポンプで押し出すので、乗員はなるべく我慢していました。

平成の世に生きるキレイ好きな若者には想像もできないし、到底耐えられない潜水艦生活でしょうね。



壁|'-')ノよいお年を。
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ぴょん?

ウェイーイヾ('ヮ'*)ノ

気づけばすでに季節は卯月。
櫻花隊も旅立つ特攻の候、いかがお過ごしのことでせう。

我が艦隊は現状、かような有様。
160404

艦これは現状維持、『沖波』可愛い『沖波』を配して、今後も変わらずWoWSを主軸にしていく所存。

さて―――

先ごろ、戰車搭載型大發の実装や、水陸両用戰車の配備など、艦艇用裝備以外の実装もつづいている艦これ。

なので、我が過疎ブログの四方山話に、そういった直接、間接を問わない旧海軍の装備品などを簡潔に紹介していこうと思います。
1発目は文面は出来上がっているので、あとは遂行して誤字脱字を訂正するだけです。

日々の閲覧者数を至高の1ケタ台にすべく、艦これに関係ないようなあるようでないような四方山話を仕上げていく次第。期待せずに忘却の彼方に忘れ去って、気づいたときに駄文拙文を流し読みいただければ幸い至極に存じます。



壁|'-')ノよいお年を。
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