徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

日本海軍潜水艦

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

DMMにログインできなくなって久しいので、今回は四方山編として日本の潜水艦についての画像をちょこっと載せてヒマつぶしあてようかと存じます。

DMMも、これを投稿し終ったころには復旧していることでせう。
そう願いたいところです。


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これは昭和17年3月下旬ころのペナン。
ペナンはマラッカ海峡北部に面した馬來(マレー)半島西部に位置する都市で、21世紀の今日では東南アジア有数の観光地になっています。
ペナンは開戦から10日ほど経過した12月19日に日本軍に制圧され、以後は印度洋方面の潜水艦作戦の策源地として活用されました。
獨逸海軍の潜水艦もペナンの日本海軍施設を補給・整備拠点として活用したため、ペナン市街では日獨両軍の海軍将兵の姿を見ることができました。


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ペナンを出撃する『伊號第一五九潜水艦』。
昭和17年2月21日の模様で、当時、ペナン地区には『伊一五九潜』のほかに『伊一六二潜』、『伊一六四潜』の3艦が在泊していました。

『伊一五九潜』は昭和5年(1930年)に竣工した海大3型bに分類される艦で、開戦当時は旧式化しつつありましたが、南方作戰に従事して複数の船舶撃沈戰果を挙げました。
ミッドウェイ海戰に参加したのを最後に第一線を退き、練習潜水艦として終戦まで生き残りました。


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昭和18年8月ごろ、ペナンに碇泊中の巡潜乙型潜水艦。
手前が『伊號第二九潜水艦』、奥が『伊號第二七潜水艦』で、ともに開戦後の昭和17年2月に完成しました。
画像が悪くてわかりにくいかもしれませんが、2艦の塗粧は異なっています。一説によれば、潜水艦に施す迷彩塗粧の効果を試験するために2種の塗粧が行なわれたといわれています。
最終的には、『伊二九潜』のような全体を黒く塗るタイプになりました。

※塗粧:海軍では塗装のことをこう呼びました。


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昭和18年秋ごろに印度洋で作戰中の『伊號第三七潜水艦』。
巡潜乙型の1艦で、零式小型水上機と呼ぶ潜水艦搭載用小型機を1機搭載しています。
上の画像ではそれを射出させようとしているところで、右主翼の手前にある細長い棒状のものは、帰還して潜水艦の至近に着水した零式潜偵を揚収するためのクレーン。

艦体には敵味方識別用のケンバス製の日章旗が結ばれていましたが、戦争中盤以降にはケンバス製から艦体へペンキで直接描く方法に変わりました。ペンキで描かれた識別用の日の丸は、作戰海面に近づくころには消されます。
このほか、友軍機による誤爆を防ぐため、甲板上に識別用の白い帯布を敷いたりもしました。


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零式水上機を射出した『伊三七潜』。前方に射出された零式水上機が写っています。
画像手前の円筒部分は水上機格納庫で、ここに水上機は分解されて格納されます。浮上してから、分解された水上機を組み立てて射出するまでの所要時間はおよそ30分でした。
この種の潜水艦搭載用水上機には潜水艦大國である獨逸海軍は非常に興味を抱きました。


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『伊二九潜』より撮影の獨逸海軍Uボート『U80』。
昭和18年4月28日、マダガスカル島南西洋上において、『伊二九潜』と『U80』が会合しました。
このとき、『U80』から印度独立運動の指導者の一人であるスバス・チャンドラ・ボースと秘書のハッサンを受け入れ、『伊二九潜』からは日獨技術研究のため2名の海軍士官が酸素魚雷、金塊およそ15瓩とともに『U80』に乗り込みました。


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『伊二九潜』上で『U80』を見送るチャンドラ・ボースたち。
中央の聯裝機銃の銃身の左に立つのがハッサン、その左の眼鏡をかけたのがチャンドラ・ボース。ボースの手前に立つのは第一四潜水隊司令官の寺岡正雄大佐。
『伊二九潜』は『U80』と別れたあと、5月8日にスマトラ島サバンでボースらを下艦させ、内地へと帰還。獨逸訪問の準備に取り掛かることになります。


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『伊號第三三潜水艦』を巡察中の山本五十六聯合艦隊司令長官。
『伊三三潜』は『伊二九潜』や『伊三七潜』と同型の潜水艦で、開戦後に竣工した新鋭艦でした。『伊三三潜』は昭和17年9月26日、トラック泊地内で修理中に浸水事故が発生し沈没。航海長である阿部鐡也大尉ら33名が殉職しました。
同年12月29日に引き揚げられた後、山本GF長官の巡察を受けました。


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幌筵泊地に碇泊する『伊號第一七一潜水艦』と特設潜水母艦『平安丸』。
昭和18年6月ごろのもので、キスカ撤収準備が潜水艦を中心に行なわれつつありました。『伊一七一潜』は6月12日、キスカ等へおよそ16噸の物資を届け、キスカ守備隊の一部およそ80名を収容し帰還しました。
『平安丸』は『伊一七一潜』をふくむ第一潜水戰隊の旗艦を務めています。
画像ではわかりにくいですが、『平安丸』には北方迷彩が施されています。


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『波號第一〇一』型潜水艦。
『波一〇一』型潜水艦は潜輸小とも呼ばれた輸送専門潜水艦で、『波號』からわかるように、排水量370噸という小型の潜水艦で、ろーちゃんこと『呂五〇〇潜』よりも小さい潜水艦です。
『波一〇一』型潜は輸送用のために魚雷兵裝はもたず、搭載武裝は機銃のみでした。昭和19年11月から終戦までに10艦が完成し、戦没艦はありませんが輸送特化のために目立った戰果もありませんでした。

輸送物件の搭載量は60噸と、小型艦ながらその搭載量は大型の輸送潜水艦である『伊號第三六一』型潜水艦に匹敵しました。
『伊三六一』型潜水艦は排水量1,400噸級の大型輸送潜水艦でしたが、搭載量は艦内62噸、艦外20噸でした。


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獨逸占領下の仏蘭西ロリアン基地に入港する『伊號第三〇潜水艦』。
『伊三〇潜』は昭和17年2月に完成した新鋭の巡潜乙型で、『伊二九潜』や『伊三七潜』と同じ『伊號第一五』型潜水艦の1艦です。
本艦は就役してほどなく、1回目の遣獨潜水艦に選ばれて出航。米英軍の厳しい哨戒をかいくぐってロリアンに到着。その後、無事に日本側勢力圏まで帰還することができましたが、そこで運が途絶えたのか、昭和17年10月13日、新嘉坡(シンガポール)港内で機雷に触れて沈没しました。


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昭和18年8月31日、第2次遣獨潜水艦作戰に選ばれて歐州へ派遣された『伊號第八潜水艦』。
上の画像は仏蘭西ブレスト基地に到着しつつあるところ、もしくはブレスト港を航行しているものですが、詳しいところはわかりません。

日本海軍は合計5回の遣獨潜水艦作戰を実施しましたが、沈没せずに任務を全うしたのは『伊八潜』だけでした。
第1次:『伊三〇潜』/『伊一五』型潜水艦
 歐州より帰還後、昭和17年10月13日に新嘉坡港内で触雷沈没。

第3次:『伊三四潜』/『伊一五』型潜水艦
 歐州より帰還後、昭和18年11月13日にペナン沖で英潜水艦HMS『トーラス』の雷撃により戰没。

第4次:『伊二九潜』/『伊一五』型潜水艦
 歐州より帰還後、昭和19年7月26日に呂宋(ルソン)島北方で米潜水艦USS『ソーフィッシュ』SS-276の雷撃により戰没。

第5次:『伊五二潜』/『伊五二』型潜水艦
 歐州へ向かう途中の昭和19年6月24日、大西洋上で米空母機の攻撃を受けて戰没。


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ブレストに碇泊中の『伊八潜』。
画像左の『伊八潜』の甲板上に設置されている二聯裝砲は、日本の伊號潜水艦の標準艦砲である14糎砲の二聯裝砲タイプで、日本の伊號潜水艦のなかでも『伊七潜』と『伊八潜』の2艦にのみ搭載された希少な潜水艦搭載艦砲です。

『伊八潜』は昭和18年12月22日に無事、呉軍港に帰還しその任を全うしました。
遣獨潜水艦作戰における『伊八潜』の総行程はじつに3萬5000海里(約6萬4820粁)に達しました。


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ペナン港を出港する『呂號第五〇〇潜水艦』。
この潜水艦は獨逸が283艦も完成させた『UボートIX』型の1艦で、獨逸は日本海軍にこの種の汎用小型潜水艦を増産させ、印度洋方面の通商破壊戰を肩代わりさせようともくろみました。印度洋における日本潜水艦の活動が活発になれば、獨逸は印度洋に配備した潜水艦を北大西洋に戻すことができ、米英軍の強力な對潜部隊に対抗できると踏んだからでした。
残念ながら、日本はこの種の潜水艦を量産することはありませんでした。


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ペナン港に並ぶ獨逸海軍潜水艦乗員。
シュネーヴィント大尉を艦長とする獨逸側回航要員の士気は旺盛で、日本側関係者を感服させました。日本への回航要員のほかに、『呂五〇〇潜』にはエルンスト・ヴェールマン大使、野村直邦海軍中将が便乗していました。

乗員の背後に《ロ500》と書かれた『U511』が写っています。この画像は昭和18年7月のもので、この時点では正式には『呂號第五〇〇潜水艦』とはなっていませんでした。


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昭和18年8月、米軍が撮影したキスカ島の日本海軍特殊潜航艇基地跡。
キスカ島には昭和17年7月、甲標的とも呼ばれた特殊潜航艇が6艇配備され、キスカ島をふくむアリューシャン方面の防備に就きました。配備後は悪天候と空襲で3艇が喪われ、残る3艇はキスカ撤収時に破壊・放棄されました。


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昭和19年8月17日、呉港外の大浦崎基地で『第五號輸送艦』に搭載準備中の甲標的甲型。
甲標的は真珠湾攻撃で目立った成果を挙げなかったものの、シドニー攻撃やマダガスカル島のディエゴ・スワレス攻撃、ガダルカナル島をめぐる攻防戦で幾度となく投入されました。


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昭和35年、布哇・真珠湾の湾口で沈没している特殊潜航艇を米軍が引き揚げました。
真珠湾攻撃時、特殊潜航艇は5艇が出撃しました。
岩佐直治大尉、佐々木直吉一等兵曹の乗った艇は真珠湾内で米驅逐艦に撃沈されました。
横山正治中尉、上田定二等兵曹の艇は攻撃成功の報告後、消息を絶ち未帰還。
酒巻和男少尉、稲垣清二等兵曹はオアフ島海岸に座礁、酒巻少尉は米軍の捕虜となりました。
古野繁実中尉、横山薫範一等兵曹の乗った艇と、広尾彰少尉、片山義雄二等兵曹の乗った艇は真珠湾口で米艦艇により撃沈されました。
この画像の特殊潜航艇は古野中尉もしくは広尾少尉の艇のどちらかです。

この甲標的は日本に返還され、江田島に置かれています。



壁|'-')ノよいお年を。
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『浦波』とその仲間たち

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

予想に反してE-1で、あっさりさっぱりポン酢風味に『浦波』を確保・回収できてしまい、ずるずる引っ張っていくネタがなくなってしまったので、今回は『浦波』とその僚艦について簡潔かつてけとーにご紹介していこうと思います。


◆『磯波』
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横濱港を出港する第一九驅逐隊の『磯波』(昭和5年9月5日撮影)

『磯波』は『吹雪』型第9番艦として、浦賀船渠にて建造されました。
『磯波』は9番艦ながら、『吹雪』型でイの一番に竣工した艦で、昭和3年6月30日に竣工しました(1番艦『吹雪』は同年8月10日竣工)。
ちなみに起工は大正15年10月18日で、『吹雪』より4箇月遅い起工でした。

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碇泊中の『磯波』(昭和5年ごろ撮影)右遠方の艦は同型の『薄雲』

『吹雪』型驅逐艦は合計で24艦が建造されましたが、その第1グループであるネームシップの『吹雪』から始まる10艦は、最後の10番艦を除き、外観上の特徴として第一煙突両舷に煙管型の罐室給気口を設けています。

下画像のブッキーが背負っている機関系統の艤裝を見るとよくわかります。
海水の流入を防ぐため、口が進行方向ではなく艦尾側を向いているのも特徴です。
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『吹雪』型の機関系統は艦首側から第一~第三罐室、両舷に二分された前部機械室、補機である後部機械室の順となっています。
主罐はロ號艦本式重油専焼罐が4基で、第一罐室に一號罐、第二罐室に二號と三號罐、第三罐室に四號罐が置かれ、一號と二號罐が第一煙突、三號と四號罐が後部煙突から排気する形になっています。

主機は艦本式ギアード・タービン2基で、2軸推進で5萬馬力を発揮し、満載2,200噸のこの艦体を最高38節(時速約70.4粁)で疾驅させることができました。
『吹雪』型は日本驅逐艦で初めて巡航タービンを搭載した驅逐艦でもあります。

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碇泊中の『磯波』

『吹雪』型驅逐艦の艦尾艦内は1層、途中から2層となっていて、洋上に浮かんでいるときは艦尾部分がそれほどの高さをもっていないことはわかりません。
艦尾部分には、第四と第五兵員室が置かれ、その後方に第三運用科、第一機關科、第二水雷科の各倉庫が置かれました。
第五兵員室の下には水雷火藥庫、小銃彈藥庫、第二機關科倉庫が置かれています。

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第二艦隊第二〇驅逐隊時代の『磯波』
『磯波』は昭和6年12月に第一九驅逐隊よりのぞかれ、翌年11月まで『吹雪』、『東雲』とともに第二〇驅逐隊を編成しました


『吹雪』型驅逐艦は軍縮条約によって主力艦による決戦が厳しくなったことを反映して、魚雷による敵主力撃砕を目的として、魚雷兵裝を強化して登場しました。
竣工時に『吹雪』型に搭載された魚雷發射管は、兵員が露天状態で操作する一二年式61糎三聯裝發射管改一を3基で、一番聯管が第一と第二煙突のあいだ、二番聯管は第二煙突後方、三番聯管はそのさらに後方に設置されました。
搭載魚雷は予備を含めて18本。予備魚雷は第二煙突両舷に3本ずつ。三番聯管用の予備魚雷は後部甲板左舷の格納筐に3本が用意されています。

次發裝填裝置はなく、クレーンを使って發射管に装填しました。
洋上行動中にクレーンを使う装填に危険を感じるかもしれませんが、『睦月』型などの古い驅逐艦に装備されていた甲板軌道運搬車で運ぶよりは、はるかにはやく装填できたといわれています。

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上画像の『長月』が脚部につけている水雷艤装のように、一二年式61糎三聯裝發射管は、3つの發射管が水平に並んでいるのではなく、中央の發射管が左右より若干高い位置にかさ上げされています。
このようなかたちになったのは、魚雷の直径が61糎と大型化したため、發射管の装置の巾を少しでも狭めておこうという配慮だといわれています。
發射管は人力と機械併用で旋回させることができ、360度旋回に機械なら23秒、人力だと35秒かかりました。

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昭和4年12月ごろの『磯波』

艦これの『睦月』型、『吹雪』型は防楯裝備の發射管となっていますが、竣工時は防楯をもたない兵員操作部がむき出しとなった發射管でした。
これだと、高速航行時や荒天下では激浪を水雷科員が浴びることとなり、最悪の場合は波にさらわれて海に投げ出される危険がありました。
現場から波浪防禦用の防楯取り付けの要望が出され、運用評価のためベニヤ板を用いた仮設防楯が装着されました。運用評価は高く、その防禦効果は十分なものでした。
最初の防楯は愛知時計が製作したジュラルミン製のものでした。これは軽量ではありましたが、海水に曝される艦上では腐食することがわかり、その後、鋼鉄製に改められました。

防楯の改良はその後も続き、機銃弾から兵員と装置を守るため厚さ3粍の鋼鈑を用いた特殊製鋼製防楯を備えた下画像のようなタイプが正式に採用され、『暁』型4艦に建造時点から搭載されました。
ほかの『吹雪』型20艦も、昭和7~8年ごろから順次、改装されていきました。
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◆『綾波』
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昭和6年8月ごろの『綾波』

『吹雪』型驅逐艦は以後の日本驅逐艦の基本形ともなったクラスであり、艦の指揮中枢である艦橋構造物もまた、以後の驅逐艦艦橋構造の基本となりました。
『吹雪』型の艦橋は塔型三層構造で、艦橋内の層状は『睦月』型とくらべて変化はありませんが、トップの羅針艦橋に天蓋が設けられ、全周を鋼製板で塞ぎ、窓ガラスが設けられました。
『神風』型までは羅針艦橋は露天となっており、雨天の際は天井にケンバスを被せる仕様となっていました。『睦月』型は天井以外は鋼製板を設けていましたが、天井はケンバス製でした。
ケンバスでは荒天時、海水が浸入し戰鬪指揮、操艦に支障を生じることがままありました。

艦橋が大型化したことで、重心の上昇を防ぐため、軽量化を狙ってジュラルミンなどの軽合金が用いられました。大正末期から昭和初期にかけて、この種の素材を艦艇に用いるのは画期的なことでしたが、海水による腐食が著しく、改裝で順次、鋼鉄製に改められていきました。

『吹雪』型の第一グループの10艦の艦橋内は、下層の船首楼甲板部に艦長室、その後方に予備室。中層に前部電信室、その後方に海図室兼射撃指揮通信中継所、無線電話室。上層には左右に大きく張り出した構造の羅針艦橋、發射發令所、その後方に艦長休憩室があり、その後方には露天の信号所があり、前檣基部があります。
羅針艦橋の左右天井にハッチがあり、そこから羅針艦橋天井部に設置された手旗信号台にあがることができます。
羅針艦橋の上は射撃指揮所である上部艦橋で、測距儀や方位盤が置かれていました。上部艦橋は前面と側面に鋼鈑製の板とガラス窓を備えていましたが、天井はケンバス製でした。


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横濱港で出港準備中の『綾波』と『敷波』(昭和6年9月5日撮影)

上の画像でもわかるように、『吹雪』型の艦尾両舷には丸みを帯びた張り出し部が設けられています。
『吹雪』型は設計当初、8組32個の連携機雷と、艦尾に大掃海具2基を装備する予定でした。機雷関係裝備は搭載見送りとなり、爆雷裝備のみが搭載されました。
艦尾のこの張り出し部は大掃海具搭載の名残で、掃海具裝備の可能性を考慮して設けられたといわれています。

艦尾端には八八式三型改一發煙罐4基が搭載され、發煙展張器2本が舷外へ突き出て装備されていました。
煙幕を展張しつつ敵主力に肉薄し搭載魚雷を放つ―――
そういった魚雷戰を想定しての裝備でしょう。


◆『敷波』
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昭和5年ころの『敷波』

『綾波』からはじまる10艦は、『吹雪』型第2グループに属します。いわゆる『綾波』型と称するタイプで、改『吹雪』型驅逐艦です。
外観の特徴としては、第1グループの特徴でもあった煙管型給気口を廃止し、第一、第二煙突基部にお椀型の給気口を設けた点です。このお椀型給気口は以後の日本驅逐艦の特徴となり、『秋月』型8番艦『冬月』以降の艦と戦時量産の『松』型、『橘』型以外の驅逐艦に装備されました。

『吹雪』型第2グループ9番艦の『漣』には空気予熱器を備えた罐が搭載されました。これはエア・プレヒーターとも呼ばれ、主罐から発生する余熱を利用して、炉へ供給する空気を熱するもので、省エネをはかるために採用されました。
『吹雪』型のほかの驅逐艦にも、改修などの機会を利用して順次、装備されていきました。

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昭和6年ころの『敷波』と右遠方の艦は『綾波』

第2グループは射撃関連装置の更新も行なわれ、それに伴って艦橋構造も第1グループに比べて大型化しました。
艦橋の外観は、第1グループが丸みを帯びているのに対し、第2グループはやや角ばった形状となりました。
艦橋内の配置はほとんど変化はありませんが、上部艦橋には大型の円筒構造物が置かれ、ここには方位盤照準装置が設置されました。
第1グループは2米測距儀と方位盤のみが搭載されていましたが、『綾波』以降の第2グループは方位盤照準装置が搭載されたため、射撃指揮所と方位盤照準装置は別個に配置されました。

以下に、略図ですが第2グループの基本的な艦橋内配置図を載せます。

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イ:手旗信號台
ロ:魚雷戰方位盤
ハ:發射指揮盤
ニ:12糎双眼望遠鏡
ホ:方位測定用従羅針儀

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舞鶴沖で全力公試運転中の『敷波』(昭和4年11月13日撮影)

『吹雪』型以降、『夕雲』型までの驅逐艦に搭載されたのが、50口径三年式12糎7二聯裝砲です。一部の艦には單裝砲型も搭載されました。
第2グループ以降の『吹雪』型に搭載されたのは、B型と称するタイプです。
これは對水上だけでなく、對空戰鬪も考慮したもので、砲身の仰角は75度にまで引き上げられました。主砲による對空射撃は、昭和2年ごろに開かれた軍備制限研究委員会での答申によるもので、同じころには『高雄』型巡洋艦の主砲も對空射撃用に仰角の増大が検討されました。
B型砲は後述のA型砲と比べ、砲塔形状がやや平たくなっています。

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砲塔の左側に半円形の突起があり、ここに鎧戸式のシャッターが設けられ、高角照準を目的としていました。上の画像は『敷波』の艦首1番主砲で、砲塔左側に半円の突起があるのがわかります。
B型主砲は昭和10年頃に、半円の突起をフラットな平板に改め、鎧戸式シャッターを引き戸式の窓覆いに改修されています。
これは第四艦隊事件による砲塔や照準孔の強度不足に対する措置とみられます。

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『綾波』改二でこのB型砲を見ることができます。
裝備図鑑の12.7cm聯裝砲はデフォルメされすぎて使い物にならず、むしろ砲塔上面をのたくるパイプのようなものの配置から、A型單裝砲に似た形状で参考になりませんでした。

B型砲塔は毎秒6度の角度で旋回可能で、俯仰速度は毎秒20度で砲身を上下させることができます。


◆『浦波』
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昭和5年ころの『浦波』

『浦波』は『吹雪』型第1グループの最終艦で、特Ⅰ型に属している艦です。ですが、いくつかの改良が行なわれており、Ⅰ型改とも呼ばれます。
最大の特徴が、第1グループの外観上のポイントであった煙管型給気口がお椀型になっていることです。

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『浦波』中破画像でその点も確認できます。
艦橋構造については変更はありませんでした。

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主砲3基すべてを右舷に指向し砲身に仰角をかけている『浦波』

前述したとおり、『吹雪』型には50口径三年式12糎7二聯裝砲が装備され、第1グループの10艦にはA型砲が採用されました。
この主砲は当初、その口径を秘匿するため12糎砲と呼ばれていました。
『睦月』型や『神風』型に搭載された12糎砲は装薬をつめた薬莢と砲彈が一体化した莢砲式でしたが、三年式12糎7砲は砲彈と装薬を分離してそれぞれを砲身に装填する嚢砲式になっていました。

砲彈重量は23.5粁で、装薬は常裝、弱裝、減裝の3種類がありました。
砲身は最大仰角40度、俯角は7度で、旋回速度は毎秒6度、砲身の俯仰速度は毎秒12度で、砲1門あたり毎分10發の發射が可能でした。

砲彈の初速は毎秒910米で、射程は仰角5度でおよそ7,200米、10度でおよそ1萬米、20度でおよそ1萬4000米、30度でおよそ1萬6600米、最大の40度の際は1萬8200米となります。

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砲塔はB型と違って四角い箱型をしており、ひとめでB型砲との区別がつきます。
戰艦の主砲塔は敵主力艦の砲彈を弾き返すだけの厚みを持たせていますが、驅逐艦では砲塔に耐彈・抗彈性能は全くありません。
驅逐艦の主砲が砲塔形状をしているのは、艦首から甲板上に突っ込んでくる波浪に砲操作員がさらわれることがないようにとのことからです。
なので12糎7砲彈どころか格下の3吋砲彈ですら貫通できます。初速のはやい機銃弾なら、たやすく貫通する程度の薄い裝甲厚しか持っていません。

砲塔の側面に3本のレールが走っています。
これは砲塔が激浪に叩かれて破損しないようにするための補強フレームで、A型主砲の特徴でもありました。

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上の画像は昭和6年9月5日、本牧沖を横須賀へ向かう第二水雷戰隊の驅逐艦群で、中央の艦は第一九驅逐隊『浦波』。続航艦は同隊の『敷波』。
遠方の2艦は第一一驅逐隊『吹雪』、『白雪』、『深雪』、『初雪』のうちの2艦です。



壁|'-')ノよいお年を。

6月15~16日の防空戰鬪

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

すでにたっぷり日数も経過しておりますが、6月15日、16日は全日本的にB-29本土初空襲の日です、ごきげんよう。

といふわけで、今回の四方山話は昭和19年(1944年)6月15日から16日にかけて戦われた、本土防空戰における初の対B-29戰鬪についてご紹介します。

艦これ基地航空隊で、空母機でない陸軍機の三式戰が登場しているので、今後も陸軍機の追加はあると予想できます。
ifイヴェント的に、本土空襲をもくろむ深海棲艦高々度爆撃機に対する邀撃戰鬪。その策源地である飛行場姫への突入撃滅。敵が基地化をもくろむ島嶼部への逆上陸戰―――
そういったことも期待できますね。

実行はされませんでしたが、昭和19年6月の米軍サイパン島上陸に応じ、海軍は増援兵力および物資を載せた艦隊をサイパン島に送り込む計画を立てていましたしね。

それでは、本土防空戰についての駄文拙文、流し読み程度にでも目を通してやってくだしあヾ('ヮ'*)ノ


◆電探情報

蒸し暑さを感じ始めた昭和19年6月15日、この日も山口県下関市の小月飛行場(現:海上自衛隊小月基地)に展開する飛行第四戰隊では、ちかい将来予想される米軍新型爆撃機による本土空襲に備え、1800時より夜間訓練を開始していた。
第四戰隊は昭和15年から北九州の防空任務に就いており、昭和19年の5月からは夜間専任部隊に指定されてもいました。

第四戰隊の裝備機は、双発複座の二式複座戰鬪機35機。
川崎航空機の開発した長距離侵攻用戰鬪機で、機体番號キ45改。屠龍の名でも知られている。
新基尼(ニューギニア)方面で戰鬪機や爆撃機として使用され活躍していたが、本機がその真価を発揮するのは本土防空戰においてでした。
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飛行第四戰隊第二中隊の二式複戰甲型/昭和19年春ごろ

本機は發動機を2つ備えた関係で出力が單發機より大きく、重武装を実現している。
その最たるものが、歩兵砲を改造した37粍機関砲ホ203で、このほか斜め上向きに20粍機関砲を2門搭載している。
この上向き砲は、操縦席の前席と後席のあいだにあった燃料槽を撤去し、30度の角度をつけて搭載し、大型爆撃機の下方を平行飛行しながら射彈を送り込むことを狙ってのもの。
海軍の夜間戰鬪機《月光》が同様の斜銃を装備し、南方戦線でB-17を相手に大きな戰果を挙げている武裝であった。

米軍の新型爆撃機が本土を襲うとなると、進撃途中で見つかりにくいうえに、目標付近の對空警戒が鈍く、戰鬪機が活動しにくい夜間になることが予想された。
昭和19年当時、日本陸海軍戰鬪機隊の機上電探は開発途上にあり、頼りになるのは空中勤務者の肉眼だけであった。
しかし、操縦員のほかに機上通信を担当する同乗員を載せられる二式複戰では、地上からの無線指示を受けて活動することが可能で、さらに簡単な航法も行なえるので、当時は夜間戰鬪にうってつけの機体であった。

ちなみに―――
海軍ではパイロットなど航空機に乗り込む乗員を搭乗員と呼ぶが、陸軍では空中勤務者と呼んでいた。

2200時ごろには夜間訓練を終えた二式複戰が、翼端燈を点けながら1機また1機と小月の飛行場に帰還してきた。
飛行場の一角には、夜間の緊急出動に備えて、濃緑の斑迷彩を施した二式複戰8機が並べてある。これは警急中隊と呼ばれ、夜間戰鬪可能な伎倆甲の認定を受けた熟練勤務者が交代で搭乗する。
この日の警急中隊の指揮官は第一隊長小林公二大尉と第二隊長佐々利夫大尉で、佐々大尉は戰隊本部の待機所仮眠室で仮眠中。小林大尉は飛行場営門ちかくの空中勤務者用宿舎で、南方の戦況に気をもんでいた。

南方の戦況。
それは―――
6月15日未明、空母機による大空襲と艦砲射撃のもと、米海兵隊の大部隊がマリアナ列島のサイパン島に上陸。
夕刻1730時には本州、四國、九州に警戒警報が発令され、陸海軍の各基地の緊張は高まっていた。
サイパン侵攻を援護するため、米機動部隊が本土近海に進出することが予想されたほか、この年の春ごろから大陸奥地に進出が始まったと伝えられる米軍新型爆撃機による攻撃の恐れもあった。

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昭和19年当時の本州太平洋岸對空監視体制/地図はクリックで拡大可

米機動部隊の北上に関しては、海軍が本土南方に索敵機を繰り出しており、その動向を把握できる体制が整いつつあり、空母9艦を主力とする第一機動艦隊も"あ"號作戰に基づいて行動を始めていた。

大陸からの爆撃機については、大陸に展開している陸軍第五航空軍および支那派遣軍が逐一、情報を内地に送る手はずになっていた。

2331時、福岡市にある西部軍司令部に無線連絡が入る。
それは済州島南西部に位置する摹瑟浦(もしっぽ)の電波警戒機乙からの緊急電であった。

『彼我不明機290度60粁および120粁付近を東進中』

西部軍司令部は緊張に包まれた。
ほぼ西方から済州島へ向かっているので、もしこれが大陸奥地を飛び立った爆撃機であるなら、北九州が目標の公算が大きい。
もちろん、友軍機の可能性もある。
長崎県大村基地の海軍哨戒機が、帰還時にとるコースに似ているからだ。

この夜、当直にあたっていた羽場光中佐は第一報を受けて、海軍機ではないかと考え、済州島付近で活動中の航空機があるか関係各部隊への照会をはじめた。
15分後、摹瑟浦から再度の入電。

『彼我不明機 済州島北50粁』

非常事態の可能性があるため、西部軍参謀長の芳仲和太郎少将ら幕僚も司令部に集まってきた。
この探知目標が米軍機であれば、九州空襲の恐れがある。
日本本土は開戦から間もない昭和17年4月18日の、ジェームス・ドゥーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機による帝都空襲以後、今日まで空襲を受けたことがない。
この探知目標が米軍機であれば、それは新型爆撃機もしくは長距離仕様の既存の爆撃機であり、ただちに邀撃態勢を整えねばならない。
敵爆撃機による攻撃意図を鈍らせるには、第一回目の邀撃戰鬪で大きな戰果を挙げる必要がある。

空襲警報を出すべきと主張する幕僚がいるが、問題があった。それは北九州最大の最重要防護目標である八幡製鉄所。
空襲警報を出せば、決まりにより溶鉱炉の火を落とすことになる。しかし、もし誤報であれば………
炉を再稼働させるために莫大な費用と時間がかかり、國内銑鉄生産量の3割を担う製鉄所の機能は再稼働まで失われてしまう。

西部軍司令部が空襲警報発令に慎重になっているあいだにも、済州島の電探基地からは情報が次々に送られてくる。
日付がかわり、6月16日0008時に、

『済州島東20粁に4箇編隊』

0015時に入電したのは、

『済州島西方150粁から170粁に探知目標。一部は旋回中』

電波兵器の要である真空管の性能の劣悪さから、精度の高い観測は不可能な陸軍の電波警戒機乙だが、これほどの探知情報から不明機は相当数にのぼっていると予想された。
西部軍司令部ではまだ警報発令に二の足を踏んでいた。

大陸から飛来する爆撃機については、支那派遣軍から事前に情報が入るはずだった。しかし、大陸からは一切の情報が来ない。
大陸奥地を飛び立った爆撃機は、どうやっても支那派遣軍の活動域上空を通過しなければならない。当時はまだ、多数の航空機へ燃料を給油する技術と空中給油機は存在しないため、爆撃機は自前の燃料でやりくりする必要があった。そのため、支那派遣軍占領地を大きく迂回してやってくることはできない。
漢口を中心に11箇所の電探基地を持つ支那派遣軍と、常時偵察機を出し、敵の無線通信を傍受する特種情報部を持つ第五航空軍から連絡が来るはずなのだ。

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昭和19年当時の九州對空監視体制/地図はクリックで拡大可

0015時には済州島以外の電探基地からも目標捕捉の情報が入り始めた。
長崎県平戸~対馬の厳原~五島列島の福江を結ぶ電波警戒機甲からの情報。

『不明機の干渉音を認む。東進中なり』

0020時には、済州島の電探基地は捕捉目標の飛行速度の算出を行ない、時速400粁程度と伝えてきた。
この速度は哨戒機が哨戒中や帰還時に出す速度ではない。

このころには、九州や朝鮮の各基地への照会も終わり、捕捉目標は友軍機ではないという結論に達していた。
捕捉目標は米軍機であり、大陸奥地を飛び立ち、支那派遣軍と第五航空軍の警戒監視網を突破した爆撃機であるのは間違いなかった。
0024時、西部軍は空襲警報を発令した。

※電波警戒機甲
昭和15年に陸軍が開発した電波兵器。ドップラー効果を応用したもので、送受信所間に流された電波の直接波と、空中目標に当たって戻る反射波との干渉により唸りを生じさせ、侵入機を探知する。
唸り―――干渉音―――は、航空機が送受信所間を結ぶ線(警戒線)に近づくか横切るかしたときに出て、その音にちなんでワンワン方式と呼ばれた。
目標までの距離が測れないので、正確にはレーダーではないが、実用価値はそれなりにある兵器であった。
量産型は4型式が生産され、最大のものは出力400ワットで警戒線長350粁、最小は出力10ワットで警戒線長80粁。
探知範囲が狭く、目標の位置や規模を知ることは不可能で、また取り扱いも不便で設置場所も限られるため、海軍は試作にとどめ、おもに陸軍が主として運用した。

※電波警戒機乙
昭和16年10月に陸軍が完成させた、指向性アンテナを用いてパルスを応用したメートル波レーダー。海軍が千葉県勝浦に設置したメートル波レーダーである一號一型電波探信儀と同じ要地用對空捜索電探で、昭和17年6月に千葉県銚子に第一號機が設置され、運用が始まった。
Aスコープと呼ぶブラウン管上に送受信パルスと距離目盛が映り、距離と目標の大小を判断でき、方向探知はアンテナを回転させて感度の最も高い位置を見つける最大感度方式を採用している。
探知距離はおよそ300粁で、精度は高いとは言えないが、しかし実用に足る性能を持つレーダーであった。


◆第四戰隊出撃

北九州の防空を担当するのは、防衞総司令部西部軍管区の指揮下にある第一九飛行團で、南方帰りの古屋健三少将が指揮を執っている。
飛行團は小月基地に司令部を置き、おなじ小月基地に展開する飛行第四戰隊と飛行團司令部偵察中隊、福岡県芦屋基地の飛行第五九戰隊を掌握している。
第四戰隊は昭和15年から防空任務に就いていたため戰鬪損失の被害もなく、裝備する35機の二式複戰も常時25機が稼働状態にあった。
空中勤務者についても、夜間戰鬪可能な勤務者15名をふくむ相当数の熟練勤務者をかかえ、南方で鹵獲したB-17を用いた対大型機襲撃訓練を重ねるなど、その錬度は内地の飛行戰隊でも指折りであった。

一方、第五九戰隊は地獄の新基尼戦線から戻ったばかりで、実戦経験を持つ勤務者はマラリアなどの療養中で、若手を中心に部隊は再建途上にあった。新鋭の三式戰を25機装備していたが、發動機の不調から稼働機数は10機に満たず、夜戦可能な勤務者と機体はわずか4機しかなかった。

九州方面にはこのほか、新編成の第一六飛行團指揮下の飛行第五一戰隊が山口県防府基地、飛行第五二戰隊が福岡県芦屋基地に展開していたが、両戰隊は最新鋭の四式戰鬪機を裝備しているものの、南方派遣へ向けて錬成途上で、防空戰鬪命令は受けていなかった。

九州地域には西部高射砲集團が展開し、主力の31箇中隊が北九州に展開していたが、裝備するおよそ150門の高射砲の大半は旧式の八八式7糎野戦高射砲(実口径75粍砲)が大半で、この砲は最大射高9,100米、有効射高およそ7,300米と性能が振るわず、野戦防空としては有効ではあったが、対B-29用としては明らかに性能が不足していた。
射撃用レーダーである電波標定機もわずか5基ほどしか配備されておらず、訓練も十分には行なわれていなかった。

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飛行第四戰隊所属の二式複戰丙型
機首から突き出ているのは37粍機関砲ホ203


空襲警報発令を受け、古屋飛行團長は0027時、飛行第四戰隊長の安部勇雄少佐に戰鬪機発進を命じた。
安部戰隊長はただちに警急姿勢―――全機がすぐに発進可能な状態―――への移行を伝え、飛行場各所に取り付けられた拡声器からは警急中隊発進が伝えられる。

警急中隊の8機の二式複戰には整備員がとりつき、燈火管制のためヘッドライトに赤い布をかぶせた始動車が、發動機のスピナーに始動機を接続させ、プロペラを回転させている。
小林大尉はすでに機上の人となり、発進準備を素早く済ませる。
樫出勇中尉は同乗員の田辺軍曹に無線の調子を確かめさせている。
佐々大尉は操縦席に飛び乗っているが、同乗者がやってこない。夜なので佐々機を見つけられないのかもしれない。胴体下面の20粍機関砲の弾倉装着は後席でなければできない。
発進までもう時間がない。佐々大尉は地上員に合図し、代わりに弾倉を装填してもらう。
警急中隊の8機は0052時までに小月基地の滑走路を離れた。夜間訓練を重ねてきただけあって、暗夜の緊急発進にもかかわらず、全機が無事、離陸していった。

中隊は4機ずつの2隊にわかれ、1隊は小林大尉が、もう1隊は佐々大尉が指揮を執った。
訓練時には点燈している翼端燈と尾燈は警戒のため消してある。そのため、いつものような編隊飛行は無理だった。各機ごとの單機行動を採らざるを得ない。
出撃機の操縦員は小林大尉、佐々大尉、樫出中尉、木村准尉、内田曹長、森本曹長、村田曹長、藤本軍曹と、夜間飛行可能な腕っこきばかりであったが、それでも夜間の編隊行動は困難であった。

飛行高度は2,000~4,000米。待機空域は小林隊が倉幡(小倉・八幡)方面、佐々隊が関門海峡東側と決められている。

上空から眼下をみやれば、燈火管制のため墨一色。どこにも明かりは見えない。
月があればある程度判別はつくのだが、今夜の月の出は0055時と遅い。わずかな星明かりと、これまでの訓練で覚えてきた土地勘だけが頼りだ。
さいわい、風はあまり強くないので機体が流されることがないのが救いだ。

そのころ、小月基地に1輛のトラックが突っ込んできた。
トラックから飛び降りたのは西尾准尉。この夜は非番で外出していたのだが、空襲警報を聞いてあわてて帰隊したのだった。
熟練者が多い第四戰隊でも夜間戰鬪可能な勤務者は少ない。ひとりでも欠ければ戦力に響く。
自身の待機空域は把握している。細かな情報は飛び立ってから聞けばいい。
西尾准尉は夏服の上に飛行服を羽織り、待っていた同乗員の原田曹長とともに昼間用の二式複戰に飛び乗り、先発隊のあとを追ってただ1機、小月の滑走路を飛び立っていった。


◆会敵

佐々大尉は関門海峡方向へ機体を上昇させていく。緊急発進で基地を飛び立ったため、僚機はどこにいるか判別がつかない。夜間ゆえに水平飛行を維持する目安が見つからず、飛行姿勢の保持に苦労する。

『来襲機は対馬東方海上上空を旋回しあるもののごとし』

飛二號無線機に一九飛團司令部からの情報が断続的に入ってくる。
日ごろから無線機の整備に力を入れているおかげで、この夜の出撃でも無線機の感度、明度は良好だ。
本当に敵機は来るのか………そんな疑問が頭から離れない。
旋回しつつ上昇することしばし―――
突如、無線機の受聴機にジャズ調の軽快な音楽が流れてきた。
深夜の放送は行なわれていないし、このような敵性音楽を流すことは禁じられている。
敵編隊から流れてくるのか、敵の基地の放送だろうか?
佐々大尉は感じ取った。
今夜は本当に敵機がやってくる、と。

一方、倉幡地区上空の小林大尉、樫出中尉らは、一定の高度まで上昇すると海の方角へ機首を転じ、37粍機関砲の試射を行なった。
搭載弾数はわずか15發しかないので、試射は1~2發にとどめる。弾丸は貴重だが、イザというときに故障で発砲できなければ意味がない。この機関砲が搭載され始めたころはよく故障していたのだ。
引き金を引くと、ドンという音とともに機首から青白い炎が噴き出し、機体が一瞬止まるような反動を受けた。その反動の強烈さこそ、複戰乗りにとって頼もしい衝撃だった。

今夜、出撃した8機のなかで、実際に敵機とやりあったことのある勤務者は樫出中尉しかいなかった。
ノモンハンでの空戦経験を持つ樫出中尉以外の、小林大尉をはじめ第四戰隊の勤務者のほとんどは、連日連夜の猛訓練で実戦未経験というハンデを補っているにすぎなかった。

一九飛團司令部からの情報が、目標機の接近を的確に伝えてくる。敵機群は意を決したかのように要地へ向かって進撃している。

『六連島北方に爆音』

六連島は倉幡地区からおよそ10粁。あとわずかで敵機は侵入してくるはずだが、いっこうに照空燈が光らない。
照空隊はなにをしている! 樫出中尉は焦りを感じていた。目視のみではとうてい敵機は捕捉できない。

関門海峡の東側で、佐々大尉は旋回を続けていた。
海峡上空で待機しないのは、照空燈を誘導する聴音機の聴測をジャマしないためだ。

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聴音機は爆音を捉えて方位と高度を測定する

敵機接近中の情報に続いて、地上にいる安部戰隊長の声が入った。

『命令。敵機は要地上空に侵入。各機は攻撃すべし!』

その瞬間、夜空を切り裂いて、150糎照空燈の光が走った。光の線はみるみる数十条に増えていく。その光芒のなかに、1機の大型機が浮き上がった。
日本軍本土防空戰鬪機隊が初めてB-29を捕捉した瞬間であった。時に6月16日0111時。

おあつらえむきに、敵機の高度は佐々機より1,000米以上低い。
2本目、3本目の照空燈がこの敵機にからみつく。位置は小倉北方。

「佐々、アカ発見!」
アカとは敵機を意味する符牒。ほかにも四戰隊は松屋、高度はヤマ、八幡は饅頭、下関を雲丹などと決めてあった。

敵機の進行方向を見定めると、佐々大尉は發動機を全開にして機首をめぐらし、降下接敵に移った。地上から撃ち上げられる高射機関砲の曳光弾が噴水のように押し寄せてくるが、みな、途中でタレてしまう。怖いのは高射砲による味方撃ちだ。高射砲弾に曳光弾はないので、いきなり炸裂するから避けようがない。
佐々大尉は20粍機関砲の上向き砲攻撃に決めて、敵機の後下方にもぐりこもうとした。
操縦席を覆う風防硝子の頂上にポッと光の輪が点る。上向き砲用の照準環で、計器盤上についた一〇〇式射爆照準器から反射投影させているものだ。
二式複戰はいきおいよく降下して敵機を追う。しかし意外にも敵機の速度の方が速く、ともすれば引き離されがちになる。これでは十分に射撃距離を詰めることができない。このままぐずぐずしているとこの敵機を取り逃がしてしまう。

「佐々、ただいまより第一撃!」
意を決した佐々大尉はそう地上へ送信するや、操縦桿に付いた上向き砲發射釦をグイと押した。
敵機の尾部から曳光弾がサーッと向かってくる。佐々大尉は二撃、三撃と撃ち続けたが、どうしても距離が縮まらず、ついに照空燈圏外へ抜けられてしまった。

しかし、この敵機を別の照空隊が八幡南方で捕捉した。
すかさず攻撃に入ったのは、1機だけで遅れて離陸した西尾准尉だった。准尉が高度をとったとき、すでに敵機は北九州上空にあった。
西尾准尉は小倉南から敵機に向かってまっしぐらに突進。機首裝備の37粍砲を発射した。照空燈の明かりを反射する敵機の外鈑を目にして離脱する。
撃破か? 西尾准尉がそう思うと同時に、左耳の伝声管から後席の久保伍長の声。
「敵機、照明弾を投下します!」

ひとつ、ふたつ………
敵機の腹の下から投下されたまばゆいばかりのフレアが、いくつもゆっくりと地上へと落ちていく。それまで明かりひとつ見えなかった倉幡地区が、一気に浮かび上がった。
敵機は照明弾を投下後、南西方向へ去っていった。この敵機は爆撃編隊に先行して侵入し、照明弾で目標を照らすパスファインダー(先導機)だった。
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◆深夜の防空戰鬪

佐々大尉は攻撃後、待機空域の関門海峡東側へ戻ろうとしたが、若松上空に差し掛かったあたりで、六連島方向から侵入してくる敵機2機を発見した。その敵機は、間隔を大きく開けて飛行しており、編隊を組んでいるようには見えなかった。
今度こそ! と巧みに機を操って後下方にもぐりこみ、ふたたび上向き砲からの射撃を浴びせた。
二式複戰のオレンジ色と敵機の青い曳光弾の流れが夜空に交差する。
数秒後、敵機の右翼内側發動機から細長い火焔が噴き出した。火は見るまに広がっていく。
佐々大尉は火焔に浮かび上がる敵機を観察した。写真でよく見知っているB-24によく似ている。
もう一撃、と思い至ったが、敵機は照空燈の光芒から逃れていってしまった。
「佐々、1機撃破。八幡北方、高度2,000」

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米陸軍爆撃機コンソリデーテッドB-24リヴェレーター

手負いの敵機は門司南方上空にいた森本曹長の目に留まり、小倉付近で攻撃を行なったが、またも照空燈の照射圏外へ脱出していった。
森本曹長は小月の戰隊本部に、「敵機はB-24なり」と報告を送った。

遭遇し、しかし取り逃がしたり撃破にとどまっていた戰鬪も、0140時ごろについに初の撃墜戰果が挙がった。

最初に撃墜を報じたのは、芦屋南方で待機中の木村准尉であった。
木村准尉は八幡上空を飛ぶ敵機を確認し、距離200米にまで接敵し、37粍砲の射撃を開始した。
ドン………ドン………と間をおいて発射される37粍砲。照準器からたちまち巨大な胴体があふれだす。木村准尉はさらに肉薄し、目測50米ほどにまで接近した。
そのとき、敵機は逃れるためか、急な角度で上昇に移った。
木村准尉は追躡し、さらに37粍砲を撃ち続ける。發射速度の遅さがもどかしい。
ぎりぎりまで食い下がって急反転し、下方へと避けた木村准尉は、敵機が大きく傾き、すぐに機首を下げてコントロールを失ったまま落下していく姿を確認した。
「木村、木村、1機撃墜 敵は錐揉み状態となって落下中!!
この無線電話は第一九飛行團司令部、第四戰隊本部だけでなく、在空の二式複戰全機に響きわたった。

木村か、よくやった―――
八幡上空にいた小林大尉はこれを聞いて、いっそうの戦意がみなぎるのを感じた。小林大尉はいましがた、西尾准尉と1機ずつ攻撃したばかりだった。
照空燈の照らす範囲は限られており、そのうえ敵機の速度が大きいので、後方から追いかけての攻撃では致命傷を与える前に照空燈圏外へ逃げられてしまう。
第2の目標を探していると、おあつらえむきに照射を浴びた敵機がいた。
「あいつをやるぞ!」
伝声管で後席の田川准尉に伝え、小林大尉は後上方からまっすぐ降下して敵機の腹の下に潜り込んだ。その勢いで機首を上げてぐっと近づき、50米の至近距離から左主翼付け根に37粍砲彈を撃ち込んだ。
一瞬、体当たりかと思うあたりで急旋回し、後方を振り返ると乗機はまばゆい閃光につつまれた。
どうやら燃料槽を直撃したようだ。敵機は大爆発を起こし、空中分解した。いくつかの炎の塊になって、敵機は北九州の大地へと落ちていく。

敵機の爆撃が始まった。
倉幡地区の各所に火の手が上がった。
そのまわりから、照空燈の白熱色の帯が放たれ夜空をはしる。
上空で断続する敵味方の射撃音をかき消すように、高射砲、高射機関砲がうなりをあげる。
そのなかを、各機から發する電波が飛び交う。

「樫出、アカ発見。大型4發機。若松上空、高度4,000」
「藤本、八幡上空。ただいまより第一撃!」
「樫出、1機撃墜! 遠賀川上空、敵尾翼マークはFなり」
「西尾、下関上空。高度2,500、アカ発見」
「洞海湾上空の高射砲の射撃は止め!」
「西尾、敵左發動機に有効彈。追撃中」
「木村、これより帰還」
「西尾、1機撃墜確認! 蓋井島上空」

やがて燃料、彈藥の欠乏した二式複戰は、0200時ごろから1機、また1機と小月基地に着陸し始めた。
滑走が終わらないうちから整備員が駆け寄り情況を尋ね、すぐに補給・整備作業に取り掛かる。
同時に、待機していた板倉中尉、小松准尉、野辺軍曹らが戦力の不足を埋めるべく舞い上がっていく。

その後も敵機の侵入は続いた。
編隊を組まず、六連島、藍島方向から單機ずつ数分おきにはいってきたため、防空戰鬪は0300時をまわっても続行された。
ようやく敵機が姿を消したのは、戰鬪開始から2時間以上たった0330時ごろだった。

敵編隊の引き揚げていく様子は、来襲時と同じく、各地の電波警戒機から報告された。
対馬南端の豆酘から、

『西方に脱出する敵を捕捉』

玉之浦からは、

『済州島南150粁、脱出する敵を捕捉』

済州島の摹瑟浦からの、

『脱出する9目標を0500、西方150粁まで追跡す』

を最後に、以後は感知不能になった。


◆B-29の日本本土初空襲

この夜、北九州に姿を見せたのは、ケネス・B・ウルフ准将が指揮をとる第20爆撃兵團第58爆撃航空團に所属するB-29であった。
支那大陸奥地の成都には昭和19年6月15日の時点で83機のB-29が展開しており、このうち作戦行動可能な75機すべてが日本本土初空襲に動員された。
記念すべき日本本土直接攻撃を取材するため、8名の従軍記者とカメラマンも同乗した。

発進は6月15日1516時。
パスファインダー任務の2機のB-29を先頭に、B-29はおよそ2噸の爆彈を機内に抱いて離陸を開始した。
しかし、順調にはいかなかった。
7機は故障により離陸中止。
離陸には成功したものの、4機が故障により基地に引き返した。
離陸直後には1機が墜落した。
最終的に、北九州へと到達できたのは63機であった。

米軍にとって幸運であったのは、飛行ルート上の地上の天候が悪化していたことである。
日本陸軍第五航空軍が司令部を置く漢口一帯は激しい雷雨に見舞われており、日本側は上空はるかをB-29が飛行しているなど思いもよらなかった。
ただ、少数の米軍機が各地に飛来していたため、空襲警報は発令されていた。しかし、米軍機は雲下にはおりてこず、雲上を飛び去っていった。

目標の八幡に近づくにつれて、B-29搭乗員たちの顔がひきつっていく。日本本土初侵入に対する恐怖と闘志がまじりあい、機内には緊張感がみなぎっていた。誰も、ほとんどしゃべらない。
燈火管制で闇夜に沈む目標の上空にパスファインダーが入ろうというとき、地上から一斉に光の矢が放たれた。
爆撃針路に入る後続のB-29も光の束につつまれる。機内が真昼のように明るくなる。高射砲弾がそこかしこで炸裂し始めた。
地上は明かりひとつないうえに、煙霧に覆われている。
目視爆撃は不可能。レーダー照準に切り替える。
下方をついとかすめていくのは、日本の夜間戰鬪機だ。1秒が1分に、1分が1時間にも感じられる。

各機は爆弾を投下後、スロットルを全開にして戦場離脱にかかった。
B-29は照空燈から逃れようと必死の機動を試みる。上昇し、下降し、左右へ旋回する。
やがて―――

機内がもとのほの暗さに戻ると、機長の弾んだ声が搭乗員のレシーバーにひびいた。
「ついに逃げ切ったぞ!」
東支那海にでた。もう安全だ。
あとは成都の基地へと戻るだけだ―――

B-29による本土初空襲は、しかしその成果は微々たるものでしかなかった。
出撃した63機のうち、3機は航法ミスで目標に到達できず、7機は爆撃システムの故障により、海上に爆弾を投棄した。
目標の八幡製鉄所に投彈できたのは47機のみ。このうち32機は燈火管制と煙霧のためレーダー爆撃を実施した。
爆撃高度は2,400~3,000米、5,200~5,400米の二層だった。
邀撃に出た日本機により5機が撃墜され、最終的な損失は計7機。戦死者は55名。
出撃機に対する損失率は10%を超えた。この損害は決して少ないものではなかった。

6月18日、米軍は高々度写真偵察を実施し、爆撃判定を行なった。
その結果にウルフ司令官ら幕僚は失望した。
製鉄所はたった1箇所が破壊されただけで、生産に打撃を与えたと言えるものではなかった。

それでもウルフ司令官は、「日本産業機能の組織的破壊の幕開け」との声明を出した
華盛頓(ワシントン)ではこのニュースが上院下院で読み上げられるあいだ、國会の議事は停止された。
本土攻撃を伝える新聞の全段抜きの大見出しは、ノルマンディ海岸の獨逸軍陣地突破を伝えるニュースと同等の扱いで全米に報じられた。
ノルマンディを訪れていたヘンリー・アーノルド大将も声明を出した。
「B-29による第一撃は真に全世界的な航空戰の開始である。米國は航空兵力としてまだ知られていなかった、最も大きい打撃を与えることのできる、きわめて精巧な最も恐るべき航空機を持ったのである」

しかし、こういった強気の声明とは裏腹に、B-29の大規模本格空襲はつづけて実施されなかった。
成都に蓄積した燃料と彈藥は不足しており、成都への輸送・補給もままならなかったからである。
成都のB-29が次に活動を始めるのは半月後の7月7日であり、しかも出撃機はわずか18機でしかなかった。

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成都近郊にある新津、彭山、広漢などの基地拡張に支那人労務者延べ33萬人が動員された


◆第五航空軍の追撃

6月16日0430時ごろ、漢口の第五航空軍司令部は、内地からの北九州空襲の連絡を受けて、激しく揺さぶられた。
大陸奥地のB-29の動きを察知し、急変があれば支那派遣軍を通じて、ただちに陸軍中央へ伝達するのが役目であったからだ。とりわけ、西部軍とは互いに連絡を密にし、敵機の侵入前・侵入後の対処を十分に行なうという協定も結んでいた。

B-29の帰途を迎え撃つべく、そのルートや在空状況を把握するために第五航空軍は一〇〇式司令部偵察機を発進させた。同時に、一式戰鬪機に発進準備、敵の不時着基地破壊のために九九式雙發輕爆撃機に爆裝を命じた。

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飛行第六四戰隊の一式戰鬪機二型/戰隊長・宮辺英夫大尉機とその列機

一〇〇式司偵はそれぞれの目標を求めて索敵し、一式戰の一部も情報を得たのち、B-29の帰還コースへ向かったが、華中方面の天候は悪化しており、邀撃も索敵も失敗に終わった。
ちなみに、一式戰は日本軍機で最初にB-29と交戦した機体である。
北九州爆撃前の昭和19年4月26日、成都へ向かうB-29を緬甸(ビルマ)方面で活動中の飛行第六四戰隊、第二〇四戰隊の一式戰12機が捕捉。このうち、六四戰隊長・宮辺大尉率いる6機が攻撃に参加し、およそ45分間で12回の攻撃を仕掛けたが撃墜には至らなかった。

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飛行第七五戰隊の九九式雙發輕爆撃機二型

湖北省老河口方面へ向かった独立飛行第五五中隊の一〇〇式司偵は、さらに北方へと足を伸ばし、河南省内郷基地へと向かった。
0930時ごろ、滑走路上に銀色の4發機を発見した。
一〇〇式司偵は飛行場を一航過して写真を撮り、急いで漢口に戻った。現像してみると、あきらかに不時着した米軍新型爆撃機である。
漢口に待機していた一式戰と九九式雙輕は内郷へ向けて急遽、発進した。

この捕捉したB-29は、エンジンをやられて不時着したロバート・ルート大尉の乗機であった。
飛行場の支那兵は日本軍機がくると騒ぎ、ルート大尉は機体を隠そうとしたが、内郷飛行場にはB-29を隠せる掩体壕はなかった。
日本軍機が来る前にエンジンを直して離陸しようとしたが、間に合わなかった。
来襲した日本軍の戰爆連合はB-29が炎上するまで銃爆撃を繰り返した。
搭乗員と、同乗のタイム誌の記者はB-29が完膚なきまでに破壊されるのを見ることしかできなかった。

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最高速度時速630粁と日本陸海軍の採用機で最速を誇った一〇〇式司令部偵察機三型甲

第五航空軍はこの攻撃でどうにか一矢報いたが、支那派遣軍総司令官・畑俊六大将は陸軍中央に対する面子を失った。
畑総司令官にきびしく叱責された第五航空軍・下山琢磨中将は、「千秋の恨事」と慨嘆した。


◆防空戰鬪 その後

苛烈な2時間もの戰鬪で、小月基地に帰還した空中勤務者たちは激しい疲労を感じていた。
古屋第一九飛行團長、安部第四戰隊長、参謀らが並んで出迎え、質問攻めにあった後、戰隊長がねぎらいの祝い酒をふるまった。

一休みののち、敵来襲状況、作戦行動などを検討するため、出撃した空中勤務者を中心に小月基地で会合が開かれた。
まず、来襲機の機種が問題に上がった。
大陸方面からの空襲に対しては、新型爆撃機が本命とされていたが、視野が狭く視認時間を十分にとれない夜間戰鬪では、はっきりわかるのは4發大型機ということだけで、B-24だと思った勤務者も多かった。
B-29については陸軍中央で性能の推測が行なわれた程度で、写真も想像図もなく、正確な形状は不明だった。

「4發の大型機には間違いないが、いったいなんだったんだろう。あれがB-29かな?」
小林大尉の発言に佐々大尉は、
「後下方から迫ったとき、情報室にあるB-24の写真とよく似ていたようですよ。しかし速度はずっと速かった」
樫出中尉も、
「それにしては、垂直尾翼が1枚しかなかった。B-24は2枚のはずですが」
結局、これといった結論が出ないため、一応B-24とB-29の混成ということに落ち着いた。
話題は攻撃方法や戰果、高射砲や照空燈との連携邀撃などに移っていった。

一方、撃墜機の多くは海没していたが、2機だけが折尾と若松に墜ちた。
ただちに陸軍航空本部調査課をはじめ研究機関の担当者が現地に向かい、海軍からも技術将校が派遣された。

折尾に墜ちたB-29は、墜落時に爆発炎上しているので見るべきものは少なかった。
若松に墜ちた方は四散してはいるものの、發動機や翼など各部の名残をとどめているものが多かった。そしてなによりの収穫があった。
残骸のなかから、搭乗員が撮影したと思われる、未現像のフィルムが見つかったのである。
すぐに現像室に持ち込まれ、処理されたネガはプロジェクターで印画紙に焼き付けられた。
現像液にひたされた印画紙が、ぼんやりと黒ずみはじめ、やがてくっきりと像が現れた。
雲海上を飛ぶ巨大な4發機の姿だ。いくコマにわたり、角度を少しずつ変えて写っていた。おそらく、大陸の基地を発進後、日本本土爆撃を記念して撮ったものであろう。

丸い流麗な機首部。細長い胴体と主翼。大きな垂直尾翼。發動機や銃塔の配置までよくわかる。
B-29がそのすべてを日本側にあらわした瞬間であった。

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墜落機から見つかったフィルムに写っていた第468爆撃航空群のB-29

第一九飛行團はB-29との初戰鬪の結果をまとめた。
戰果は撃墜7機、内不確実3機。撃破4機。
木村准尉の3機撃墜を筆頭に、小林大尉、佐々大尉、樫出中尉、西尾准尉ら、いずれも飛行第四戰隊の勤務者による戰果であった。
第五九戰隊は戦力再建途上であり、空中や着陸時の第四戰隊との混乱を防ぐためもあり、結局は出撃を命じられないまま16日の朝を迎えた。

来襲敵機はB-29とB-24の混成およそ30機と推測された。初回の邀撃では、半数以上を撃墜して敵の戦意をくじく方針であったが、出撃機数を抑えたためもあり、予定戰果には達しなかった。
第四戰隊は使用機12機で延べ24機を出撃させ、常時在空はわずか8機にとどまった。

とはいえ、第四戰隊に撃墜された二式複戰はなく、損害は被弾1機のみであった。
この損害に対し、B-29撃墜撃破11機の戰果は大勝利であった。
理由としては、出撃した空中勤務者の錬度が非常に高く、北九州の空に慣熟していたこと。
事前に来襲の情報がはいっていたこと。
B-29が編隊を組まず、二式複戰が活動しやすい2,500~3,000米の高度で、單機ずつ侵入したこと、などが挙げられた。

武裝については、機首の37粍機関砲がもっとも効果を発揮した。
上向き砲による後下方からの攻撃は、照空圏が狭くて高速のB-29を射撃する時間がないため、あまり有効ではなかった。

一方、西部高射砲集團、北九州防空隊の高射砲は、照空燈が捉えたB-29を次々に狙い撃ったが、冷静さを欠いて乱射状態に陥り、またB-29の大きさと速度に惑わされ、高度や位置の判定を誤りがちであった。戰鬪に慣れるにしたがって至近弾が見られるようにはなったが、およそ9,000發の發射弾数に対し確実な撃墜戰果を得るには至らなかった。
むしろ、二式複戰の行動を妨げる結果になり、第四戰隊の唯一の損害である被弾機は、高射砲の破片による被害であることがのちに判明した。

済州島などの電波警戒機は効果を発揮はしたものの、敵機の飛行高度をつかめず、電波高度測定機の併設と増備が望まれた。
二式複戰は照空燈の照射圏外に逃げた敵機は追えないため、機上電波標定機の不備が痛感された。

八幡製鉄所の被害は軽微で、製鉄所を含めた八幡市内で炸裂した爆彈は500ポンド爆彈5發だけであった。鉄道も一部不通になる被害を受けたが、物的損害はたいしたものではなかった。それでも、死傷者数は軍民あわせて数百名に達した。

日本國内で北九州空襲はさほど報道はされなかった。
日本側の新聞紙上を大きく飾ったのは、米軍サイパン上陸の報であった。

昭和19年6月15日―――
この日をもって、終戦までつづく1年2箇月間のB-29との熾烈な攻防戦が幕を開けたのであった。



壁|'-')ノよいお年を。

戰前のころ 其の參

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

艦これアケ、我が艦隊の陣容もだいぶ整ってきました。

現在、我が主力は『如月』を旗艦とし、水雷戰部隊として『暁』、『北上』、『大井』、『愛宕』。
敵に戰艦や空母が複数配備されている海域突破には、旗艦『如月』に空母『赤城』、『蒼龍』、戰艦『金剛』、『榛名』、『山城』を配して出撃しています。

ここ数日間の出撃で、『蒼龍』、『榛名』に加えて―――

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『金剛』、『愛宕』、『北上』、『大井』の改を順次、編入することができました。
『島風』や『秋月』といったレア艦はまだだけど、少しずつ少しずつ、艦隊の戦力は向上しつつあります。

問題は―――
裝備開発が難航していること...


気を取り直して―――
戦前~戦中の画像や小ネタをご紹介していく《戰前のころ》第3回、これで最後となるので、艦これとまったく関係がないですが、流し読み程度に御閲覧くだしあ。


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夜店の金魚売り
東京の江戸川下流域は、愛知県弥富町や大和郡山市とともに、金魚の三大生産地でした。
ですが昭和16年には金魚の需要が減少し、さらに業者も食用の黑鯉の生産に転換していったため、金魚の生産量は大きく減少しました。


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浅草の土産物
上画像は《ざるかぶり犬》という江戸玩具で、生まれてくる赤ん坊を病気から守るという縁起物で、東京・下町でもかなり人気のあった土産物でした。


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遊園地の落下傘塔
昭和15年6月に、東大の武藤清教授が設計した落下傘塔が、東京二子玉川の読売遊園地(現:二子玉川ライズ)に建てられました。
現在の東京ドームシティにあるスカイフラワーよりも高い70米の落下傘塔で、4人のりの昇降機を備えていました。
昭和16年夏ごろからこの落下傘塔で、陸軍の落下傘部隊が学生を装って空挺降下の訓練を行ないました。


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話題の人に扮して
昭和16年10月、上野の鈴本演芸場で桂一奴が百面相を演じました。上の画像はその時のもので、右から、東条英機、アドルフ・ヒトラー、近衛文麿、喜劇俳優の高勢実乗。
話題の人物の特徴をまねるという一奴の芸は当時はめずらしいもので、かなりの人気を博しました。


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映画会社の統合
昭和16年9月19日、情報局の統制により、劇映画製作会社10社が松竹、東宝、第三会社の3社に統合されることが決定しました。同時に、配給機構の一元化も図られました。
上画像は9月25日の東京日日新聞夕刊に掲載された広告。
なお、第三会社は新興キネマ、日活、大都が合併し、昭和17年1月に大映となりました。


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三原橋のお米電車
昭和16年10月13日、東京府米穀商業組合はガソリン節約に協力するため、米の輸送をトラックから東京市電に切り替えました。
東京銀座の歌舞伎座横の三原橋から下板橋間を1日3往復しました。


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前線へ送る慰問袋
画像は白木屋の女子従業員が玩具や食品の詰め合わせを行なっているところ。
戦地にいる兵隊さんへの慰問袋セットがデパートで販売され、結構な売れ行きになりました。


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キングクレヨン
クレヨンはパラフィン、脂肪酸などを溶かして顔料を加えたもので、王様商会(現:王様クレイヨン商会)が大正7年(1918年)に國産化に成功しました。
上の画像は昭和16年に販売されていた15色入りの学童用。当時の子供たちの憧れは、24色入りに入っていた金と銀の2色でした。
今も昔も、クレヨンや色鉛筆での金と銀は大人気です。


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秋季帝室御賞典(現:天皇賞)が開かれた東京競馬場/11月2日撮影
戦前の競馬ブームは昭和10年ごろから過熱していきました。当時、日本は日中戦争に突入しており、國内は軍需景気にわいていた時期だったため、競馬ブームは好景気を反映しての出来事でした。
昭和16年12月の料金改定まで、中山、東京、横浜、京都、阪神の各競馬場の入場料は1等6圓50錢、2等が3圓、馬券は一人1枚20圓と高額でした。
ちなみに、当時の日比谷スエヒロで供された、わかさぎ唐揚げ、マカロニ、スープの定食の料金が1圓40錢でした。
太平洋戦争の突入と馬券税の導入により、入場者数は急激に減少。そして昭和18年12月、競馬中止が閣議決定されました。


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日本初の三冠馬であるセントライト
小西喜蔵騎乗のセントライトは昭和16年10月26日、京都競馬場での京都農林賞典(現:菊花賞)で勝利しました。セントライトはこの時すでに横浜農林賞典(現:皐月賞)、東京優駿(現:日本ダービー)を制しており、京都での勝利により、日本初の三冠を達成しました。


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非常持ち出し訓練
画像は昭和16年10月26日、大阪の扇町高等女学校での非常持ち出し訓練。当時、防空訓練は隣組や会社、学校などで盛んに行なわれていました。
日本が空襲を初めて体験したのは太平洋戦争のB-29によるものではなく、昭和13年2月23日の中華民國空軍機による台湾空襲でした。台湾の2箇所の飛行場が爆撃されました。
そして5月20日、中華民國空軍機が九州上空に侵入。この時は爆彈ではなく伝單、つまり宣伝ビラをバラまいていきました。


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銀ブラ
昭和16年11月ごろの銀座尾張町交差点。
人々は着飾って銀ブラに出かけましたが、商品は店頭から消えつつありました。


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体力奉公を標語に中学生の國防競技
昭和16年10月31日から11月4日にかけて、神宮外苑競技場を中心に、第12回明治神宮國民体育大会が開かれ、中学生から一般までおよそ3萬人が参加しました。
ホッケーや卓球は今大会から廃止され、滑空や行軍が種目に加えられました。


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貸し切りバスで登院
昭和16年11月15日、第77臨時帝國議会が招集されました。貴族院事務局は、ガソリン不足により自家用車で登院できない貴族院議員のために、貸切バスを省線市ヶ谷駅、同新橋駅から國会議事堂まで走らせました。
初日は満員でした。


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子供用大礼服
産めよふやせよ子は宝、という言葉が流行語になった昭和16年ごろ、神社参拝や七五三参りの子供たちにも、男児は陸海軍将校の大礼服、女児は従軍看護婦姿など軍國調の服装が目立ち始めました。
なお、こういった服は一部の裕福な家庭の子供しか着ることはできませんでした。


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ボール紙のバケツ
金属回収運動により、家庭の周りからどんどん金属類が姿を消していきました。そんな折、ブリキに代わるボール紙製のバケツが登場しました。
この紙製バケツは強靭剤や防火剤を塗ったボール紙にベニア板を裏打ちして作られていました。


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看板が消えた商店
昭和16年春ごろから、看板撤去運動がはじまり、商店は看板を外し、かわりに障子戸に墨で店名を書くなど工夫を凝らしました。
画像は秋ごろ撮影の長野市善光寺の増久金物店。


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熱湯アイロン
電気アイロンの代用品として、昭和16年11月ごろから販売が始まった陶製の三徳アイロン。
大きさは高さ11糎、巾10糎、長さ17.5糎。
熱湯を入れてアイロンとして使用するほか、湯の注ぎ口に穴の開いた栓をして火にかけ、噴き出す蒸気を利用して毛糸を湯のしできるよう工夫もされていました。


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最後の天気予報
画像は12月8日付の東京日日新聞朝刊に掲載された天気予報。
太平洋戦争が始まったこの朝、陸海軍大臣は口頭で、気象報道管制の実施を命じ、以後、防空対策の見地から、新聞、ラヂオの天気予報や気象通報の報道は禁止されました。
気象情報が復活したのは、終戦後の昭和20年8月22日昼のラヂオ放送でした。


◆戰前ミニ事典
重要産業団体令
重要産業に対する國家統制を徹底するため、産業別に統制会を組織させる勅令で、國家総動員法に基づき昭和16年8月30日公布、同年9月1日施行。
全國的産業には統制会、地方的産業には統制組合が組織され、関係会社は強制加入されました。
10月には石炭、原動機、電気機器など9業種、12統制会が指定され、その後も相次いで設立されていきました。
生産目標や価格の決定権などは官庁が握っており、官庁の下請け機関にすぎませんでした。

臨時郵便取締令
昭和16年10月4日に公布施行された、戦時または事変に際しての郵便物の差出禁止、検閲などを規定した緊急勅令。
國防上の秘密が外國に漏洩するのを防ぐのが目的でした。
太平洋戦争が始まってまもない12月11日には改正が行なわれ、米國、英國への郵便物が禁止されるなど、さらに取締は強化されていきました。

行列買い
昭和16年、おおくの生活必需品が隣組を通しての割当配給制となり、回覧板で知らせが来ると急いで配給所や店頭で行列して2時間も3時間も待ちました。
商店、食堂、駅の窓口など物を売る所はどこでも長い行列ができ、人々は行列があると後ろにつくのが習慣となり、後ろに並んでからなんの行列かを聞くといった珍事も多発しました。

箸持参運動
通勤から旅行まで、外出するときはいつでも箸を持参して、飲食店の割り箸は使わないようにしようという運動。
木材資源の不足から、昭和16年6月1日に木材統制法が施行され、大量の木材を消費するうえに使い捨ての割り箸からまず節約しようというものでした。
なお、昭和15年暮れごろから、蕎麦屋の出前などから割り箸は姿を消し始めていました。

ゴミ箱宰相
國民の生活実態を知ろうと、朝の散歩でごみ箱を覗くこともあった東条英機を差した言葉。

奉安殿
御真影―――天皇・皇后両陛下の御写真―――や教育勅語の謄本を保管するために、学校などに建てられた建物。子供たちは、その前を通るたびに最敬礼することを義務付けられていました。
校舎が木造でも、奉安殿は鉄筋というところも多く、災害からの防護は校長の重要任務でした。

國民勤労報國協力令
國家総動員法に基づき昭和16年11月22日に公布され、翌12月1日に施行された、労働力を確保するため、國民をひろく動員して学校、会社などを単位として國民勤労奉國隊を組織し、緊急産業部門に従事させることを定めた勅令。
14歳以上40歳未満の男子と、14歳以上25歳未満の未婚女子は、無報酬で年間30日以内の勤労協力を強制されました。



壁|'-')ノよいお年を。

戰前のころ 其の貮

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

艦これアケでようやく『暁』ホロきました。
『響』とならべて出撃させると、航行中にときおりしゃべりだすので最高です。


嗚呼、『暁』ちゃん可愛いのですーヽ(゚∀゚)ノ

戦前~戦中の画像や小ネタをご紹介していく《戰前のころ》第2回、簡単な解説を交えていきますので、艦これとまったく関係がないですが、流し読み程度に御閲覧くだしあ。


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愛國式防空壕
昭和16年5月に東京・深川の会社が完成させた防空壕。
円筒状で内部は木製。腰掛け式と畳式があり、内部に10人ほど避難・収容することができました。


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助燃器ほのお炭
昭和16年、燃料節約の國策に沿って作られた國策火王炭。
ところどころに穴が開いた中空、卵形の素焼き製で、豆炭や木炭にまぜて使うと真っ赤に熱せられ、少量の炭でも火力が長持ちしました。
何度でも使えることから萬年炭とも呼ばれました。
価格は9箇いり1箱95錢。


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灰の回収
昭和16年5月7日、京都市内での灰回収の様子。
食糧増産に重要な化学肥料不足を補うため、都市部でも木炭の供出運動が始まりました。家庭から出た灰は、隣組組織、町内会に集められ、市集灰組合を通じて農家に送られました。


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黑十字章
昭和16年5月26日、《全國石炭増産強調期間》の表彰式が首相官邸で行なわれました。優良炭鉱2箇所、優秀炭鉱労働者10名に厚相から上画像のような黒十字章が贈られました。


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6月の大阪新世界
大阪・浪速区にある新世界は映画館、演芸場、飲食店が立ち並ぶ歓楽街で、庶民が手軽に楽しめる娯楽場でもありました。
大陸戦線が泥沼の様相を呈し、配給制や物不足が目立つ中でも道行く人の数は絶えることがありませんでした。
中央の塔は通天閣。


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トンボ鉛筆の広告
トンボ鉛筆は昭和16年に準軍需工場の指定を受け、製品の3分の2を軍関係に納入することになりました。納入された鉛筆は慰問品として戰地に送られたほか、占領地での宣伝活動用としても配布されました。
上の画像は雑誌アサヒグラフ掲載の広告。
日に日に変る世界地図/強くて濃い鉛筆が要る/ダンコと折れないトンボが要る


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木製自動秤
昭和16年にはいって東京度量衡会館は、針と發条以外は木製の自動秤を製造しました。
大きさは高さ30.7糎、巾21.3糎、奥行き31.2糎。
目盛板は蝋びきの紙製で、7瓩、2貫(約7.5瓩)までの両表示付です。
終戦前まで家庭用として使われました。


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撤去される東京府庁の鉄門
昭和16年4月1日に官庁、公共団体に鉄鋼回収の布告が出され、東京府庁も6月23日、大小4枚、合計860瓩もの正門鉄扉、およそ100米分の鉄柵を撤去しました。撤去後、木製の扉と柵が設けられました。
東京府庁:東京都の前身で昭和18年7月1日の東京都制施行まで帝都の地方自治を担っていました。


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東京の理髪店
上の画像は東京駅の地下にあった理髪店《荘司》。同店は日本一といわれた店で、一般店がおおむね45錢の料金であったのに対し数倍もしましたが、高級風呂や食堂などを完備する高級理髪店でした。
利用客は若槻礼次郎、松永安左衛門などの政財界の著名人ばかりでした。


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除隊記念の盃
当時、兵役を満期終了した者は、除隊に際して一人ひとりが彩色した盃と徳利をつくる習慣がありました。
上の画像は鉄兜を模した盃で、裏には褐色の地に皇軍の文字を刻み、中央に飛行機を配したもの。


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鉄道旅行自粛を促す広告
昭和16年7月10日、関門海峡海底隧道が完成し、本州と九州が鉄道で結ばれました。
日本の國内輸送力は昭和13年に不足をきたしており、大陸戦線への玄関となる九州への輸送力強化が急務でした。民間旅客・貨物輸送よりも軍需輸送が優先されるようになり、上の画像のような広告が雑誌などに掲載されました。
昭和19年4月1日には、決戰非常措置要綱により、100粁を超える旅行は、警察や統制団体の証明がないとできなくなり、旅客輸送用の一等車、寝台車、食堂車が全廃されました。昭和20年にはいると、鉄道線路、列車への空襲も激化し、定速・定時運行が不可能となり、おおくの犠牲者を出しながらそのまま終戦を迎えました。


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富士山観測所の看板
昭和16年7月22日、台風が関東・東北地方を直撃。そのため、半月おきに観測員が交代する富士山頂の観測所は数日間にわたって交代要員が登ってこれない状況となり、所員は記録を取りつつ、画像のように雑誌の切り抜きの女性を貼り、嘆きを代弁させていました。


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廃品回収代用品展
東京・新宿の伊勢丹百貨店で昭和16年7月19日から28日まで、商工省主催の《資源回収と代用品展》を開催しました。
物不足を補うため、家庭資源の再活用を提唱して、廃品を利用したさまざまな代用品が展示されました。


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愛國煙管
刻み煙草の利用者の増加を受け、昭和16年から代用品の煙管の製造が行なわれました。東海地方では陶製煙管が昭和13年ごろから製造されていました。
上の画像は福島や会津若松駅で販売されていた愛國煙管で、吸い口と雁首は陶製、胴は竹製でした。


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木製バケツ
昭和16年以降、ブリキ製のバケツに代わって木、竹、紙製のバケツが登場しました。
とりわけ、桶造りの技術を応用した木製バケツは耐水性、耐久性に優れていました。大きさは高さ23.5糎、直径29糎(底は22糎)。
乾湿時の膨張率が少ない杉、檜などが使われ、取っ手や箍は竹製でした。


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水豊水力発電所の発電機
昭和16年8月25日、朝鮮北部の鴨緑江に建設された水豊水力発電所の一部が竣工し、満州國の鞍山への送電を開始しました。
画像は芝浦電気製の10萬キロワット発電機の1號機と2號機。満州と朝鮮への営業送電は9月28日から開始されました。
この発電所は2016年現在も朝鮮民主主義人民共和國の主要な発電所として機能していると推測されています。


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事務用糊
明治32年(1899年)に腐らない事務用糊を開発したヤマト糊工業(現:ヤマト株式会社)は、昭和16年から原料の澱粉が配給統制に入ったため、彼岸花の球根粕を使用した代用糊の製造を開始しました。この代用糊は戦後の昭和25年ごろまで製造されました。
画像は硝子瓶いり糊で、販売価格は12錢。


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公演中の松竹國民移動劇団
松竹劇団は歌舞伎出身者が多く、時代物を得意として日本各地を巡業しました。

昭和16年6月9日、日本移動演劇連盟が発足しました。
これは國民演劇を確立し、演劇を國民のものたらしめるため、そして國策に沿った演劇を國民に配給することを目的としていました。
従来の商業演劇、プロレタリア演劇などの新劇を制限し、國民精神高揚の一翼を担う演劇を指導・育成することを狙っていました。
昭和16年にはいると、歌舞伎などから世話物、艶物が制限され、戦争物、伝記物が推奨されるようになったほか、築地小劇場は國民新劇場と改称されるなど、政府による演劇統制は強化されていきました。

日本移動演劇連盟には大政翼賛会、情報局、東京日日新聞(現:毎日新聞)、大日本産業報國会、大日本青少年団などの全國レヴェルの諸団体、東宝移動文化隊、松竹國民移動劇団、吉本移動演劇隊、市川猿之助一座、文学座などが加盟していました。

昭和16年から日本各地の工場、鉱山、農村や漁村、軍などへの巡業がはじまりました。
政府推奨の演目はほとんどが増産奨励劇や戦意高揚劇で占められていましたが、平成の世に比べるとはるかに娯楽の少ない当時は、各地で熱狂的に迎えられました。
そのときのエピソードとして―――

「滅多に芝居など見られないある鉱山で公演をしたら、ちょっとしたことでも歓声を上げ、少し可笑しいだけでも気狂いのように笑い、おそろしいほど熱心で、こちらも神経がクタクタになったけれど、公演してよかったとあとで痛感した」
「移動公演の前に村長さんが村人たちに、今度来る役者たちはただの旅役者ではない。情報局や大政翼賛会から派遣されてこの村を視察するのだから、行儀よく見物しなければならないと告げたため、観客は恐ろしいほど行儀よく鑑賞していた」

このほかにも、掘立小屋みたいな便所を使いづらい女優が2日間ガマンしたり、赤ん坊の貰い手はいないかの張り紙に驚いたりと、役者や関係者は地方巡業のたびに各地で悲喜こもごもの体験をしました。

移動演劇は終戦までの4年8箇月間で、およそ1194萬人の観客を動員しました。

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広島で被爆し死去した丸山定夫氏

昭和20年にはいると、日本各地はB-29や空母機による昼夜わかたぬ空襲に曝され、移動公演自体が困難になってきました。移動劇団は地方に疎開・常駐し、その周辺地域での公演を行ないました。疎開は4月ごろから行なわれ、吉本は宮城県仙台市、文学座は石川県小松市に疎開しました。
疎開先と公演先を移動する際も、國内交通網が機能していないため、橋の下で寝たり、ようやく乗れた汽車が機銃掃射を受けたりと、劇団員は苦しい旅をつづけました。
そのなかでも大きな悲劇は、丸山定夫氏率いる移動劇団櫻隊でした。
同隊は広島市に疎開・常駐し、8月6日の原爆投下で丸山隊長以下9人が犠牲になりました。

丸山定夫氏は築地新劇場時代からスター的な存在で、政府による弾圧後は、徳川夢声らとともに劇団吉楽座を結成。昭和20年に移動劇団櫻隊を率いて広島で被爆、終戦直後の8月16日に45歳の若さで死去しました。


◆戰前ミニ事典
鉄鋼統制会
昭和16年4月26日に設立された機関。初代会長は平生釟三郎日本製鉄社長。
鉄鋼業への國家統制を強め、日本・満州・中國を一環とする鉄鋼増産を目標としました。
國家総動員法に基づく経済団体再編成の最初のもので、資材の配分から価格設定まで、生産・販売のすべてにわたる決定権を付与され、全企業の参加が強制されました。

肉なし日
農林省の指導により設定された、肉を売らない日。
飲食業では毎月8日と28日で、ハムなど肉類の料理が禁止されました。
販売業では毎月2日、18日が加えられ、毎月4回の肉なし日が決められました。
昭和16年5月8日が最初の肉なし日でしたが、このころにはすでに肉類は品不足となっており、闇市での価格高騰と買占めにより、庶民には縁のない日となっていました。

學校報國隊
昭和16年8月8日、文部省は勤労動員適時出動体制整備のため、全校組織の學校報國隊の編成を訓令しました。
学徒勤労動員のためで、大学、高等学校、専門学校で組織されました。
文部省にはこれらを統括するために學校報國隊本部が置かれ、全國10箇所に地方部が設置されました。



壁|'-')ノよいお年を。

戦前のころ

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

艦これアーケードが楽しくてしょうがないくろちゃんです、ごきげんよう。

艦これネタもないので、今回は嗜好を変えて戦前~戦中の画像や小ネタをご紹介していきます。
戦前編、つまり昭和16年12月8日の開戦までを扱います。

数が意外と多かったので、3回にわけてご紹介します。

世間一般に、戦前の昭和16年ごろといえば、國内は戦争一色の灰色の暗いイメージを持たれがちです。
はたして実際はどうだったのか………

簡単な解説を交えていきますので、艦これとまったく関係がないですが、流し読み程度に御閲覧くだしあ。


160605
淑子の防諜
昭和16年10月20日に発行された、スパイ防止を國民に呼び掛ける紙芝居。
販売価格は1圓20錢。
発行の5日前、10月15日に満州鉄道嘱託の中國問題評論家の尾崎秀実が國家機密漏洩の容疑で検挙され、18日には駐日獨逸大使館顧問のリヒアルト・ゾルゲが検挙される、いわゆるゾルゲ事件が起きています。


1606052
木製貯金箱
真珠湾攻撃開始の日付が刻まれた貯金箱で、時間は攻撃開始時刻を示しています。
大きさは高さ12.3糎、巾15糎。


1606053
桃太郎の海鷲
昭和18年3月25日に封切られた上映時間50分の日本初の長編アニメ。
海軍省報道部が企画、藝術映画社が制作した作品で、太平洋戦争における日本の開戦を正当化するために利用された、桃太郎をモチーフとした國策映画。
作画、演出、撮影は瀬尾光世氏。瀬尾氏はおよそ15萬枚におよぶ作画を半年かけて独力で完成させました。
日本のアニメーション技術の向上に貢献した作品として知られています。


16060504
スキー客で込み合う國鐡・名古屋駅
昭和16年1月3日の名古屋駅。鐡道省や私鐡各社は混雑緩和の為、正月旅行の自粛を呼びかけましたが、効果のほどは………上の画像を見ての通りです。
戦時色一色だと思われがちな戦前、スキーなど正月旅行は盛んだったようですね。


16060505
わかもと
わかもと本舗栄養と、のちのわかもと製薬である育児の会は単一酵母剤《わかもと》を発売、栄養補給を主目的とする錠剤として國民に親しまれていました。
画像は昭和16年に発売された陶製容器のわかもと。300錠いりで1圓60錢。


16060506
ワシ目眼鏡
昭和11年ごろ、退役陸軍軍人が、ガラス部を鷲の目の形にして視野を広くした眼鏡を考案しました。それをもとに、三菱電機が偏光ガラスを用いて開発したのがワシ目眼鏡と呼ぶものでした。
偏光ガラスの採用により、水面の乱反射が減って肉眼での潜水艦発見が容易になりました。


16060507
時計付ストップウォッチ
第二精工舎(現:セイコーホールディングス株式会社の子会社)の17型クロノグラフ17石は時計付のストップウォッチで、おもに陸軍で射撃訓練時に用いられました。
軍事用として開発されたので、服部時計店(現:セイコーホールディングス株式会社)から陸軍へ直接納入されました。


16060508
東京家政学院の軍事教練
昭和16年2月に実施された軍事教練のヒトコマ。
東京家政学院では銃を使った軍事教練を行なっていました。銃を使いますが、發射はしませんでした。


16060509
銀座の大衆食堂
昭和16年初頭、食堂のランチはおおむね80錢で提供されていました。
カキフライ、ハッシドビーフといったメニューが並ぶ傍ら、節米や代用食の文字も目立ちました。


16060510
撮影現場の李香蘭
戦前、満州映画協会のスターであった李香蘭は日本や大陸で絶大な人気を誇りました。
中國人女優・李香蘭は、実際は満州で生まれた日本人で、本名は山口淑子。
戦後、結婚して大鷹淑子となった彼女は昭和49年、田中角栄氏の要請で自民党から参議院議員として立候補し当選。つい最近である平成26年9月7日、94歳でこの世を去りました。


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映画・萬世流芳に出演している李香蘭
萬世流芳は阿片戦争を題材とした映画で、抗日・反日気運の高まっていた中國で人気を博しました。
終戦時、李香蘭は日本に協力したとして漢奸裁判にかけられましたが、中國人ではなく日本人であることが証明され、無罪になりました。


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日劇七回り半事件
昭和16年2月11日、李香蘭は東京・丸の内の日本劇場で、紀元節奉祝記念・日満親善と銘打った《歌ふ李香蘭》というショーを開催しました。
午前9時半開演を前に、朝6時から500人ほどが切符売場に並び、8時には数千人の行列が劇場を幾重にも囲むように並びました。
切符を買えなかった群衆が騒ぎ出し、午前10時、丸の内警察署の警官隊と騎馬警官が出動。丸の内署長は群衆に向かって、「忠勇なる将兵は大陸の広野に戦っているのであります。それを思えば諸君、今日のこの有様は………」と制しましたが、最終的に放水などで対応しました。


16060513
新規読者お断りの広告
昭和16年3月8日付の朝日新聞に掲載された誠文堂新光社の雑誌申込お断りの広告。
雑誌用の用紙が不足して増刷が困難になっており、左に掲載されている8誌の新規購読を断ることになりました。


16060514
シバタ大サーカス
両國の國技館で催されたシバタサーカスの3月興行は大盛況で、連日長蛇の列ができ、館内に入りきれない客が出たほどでした。
当時は娯楽が少なかったため、國民にとってサーカスの公演は大きな楽しみでした。


16060515
野戦かまど
野戦かまどは明治のころから使われており、大陸戦線や佛印への進駐といった広範囲での軍の活動においておおいに活躍しました。
鉄板でできた円筒形で、直径86.5糎、煙突の長さ209糎と大きく、持ち運びには車輛を使用しました。
専用鍋は直径88糎、深さ35糎で、およそ200人分の調理が可能でした。
戦後も炊き出しなどで広く利用されました。


16060516
日満定期便
昭和16年3月17日、羽田飛行場から三菱MC20旅客機『白根』が離陸、米子を経由して満州の新京(現:長春)へと飛びました。
これが日本と満州國を結ぶ定期便第一號でした。
4月からは大日本航空と満州航空が週2往復の飛行機便を運航しました。
4月以降は米子経由はなくなり、羽田~新京の無着陸直行便となりました。飛行時間はおよそ5時間。


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高尾山ハイキング
体力増強の國策によるハイキング熱の高まりと、薬王院への戦勝祈願参拝から高尾山を訪れる人は増加しました。
高尾山のケーヴル・カーは昭和16年度、およそ60萬人もの登山客を運びました。


16060518
衣料品配給の点数早わかり表
昭和16年4月1日、食料品の割当通帳制による米の配給が東京、大阪、名古屋、京都、神戸、横浜で開始されました。
昭和17年2月からは、衣料品も総合点数制による切符配給に切り替わりました。
衣料品点数は甲乙にわかれており、甲は郡部でひとりあたり80点。乙は都市部でひとりあたり100点となっていました。年齢、性別、職業による点数の差異はありませんでした。
衣料原料の不足から衣料品の数が少なく、当初は有効期限を1年としていましたが、昭和17年7月には期限を昭和19年1月まで延長する措置を取りました。


16060519
ラヂオ体操
仙台市は青少年の体位、体力向上の一環として、ラヂオ体操を奨励しました。市内およそ340箇所で毎朝ラヂオ体操が実施されました。


16060520
松葉マッチ
マッチの軸木は米國産の泥柳を原料としていましたが、入手が次第に困難となり、國内で松の葉を軸木に使ったマッチが考案されました。
生産工程が少なく、材料はいつでも採取できる長所がある一方、軸が柔らかく、やや使いづらい欠点がありました。


◆戰前ミニ事典
元旦
戦前、1月1日は四方節と呼ばれ、紀元節(神武天皇即位の日/建国記念日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(明治天皇誕生日/文化の日)とならぶ4大節のひとつでした。
この日は小学校で式典が挙行され、子供たちは登校しました。
式典は君が代斉唱、御真影最敬礼、教育勅語奉読、学校長訓話、1月1日斉唱の順で行なわれました。

臨時農地等管理令
昭和16年2月1日公布施行。
食糧の増産を図るため、農地の転用などを規制した勅令。戦争の激化に伴い、工場に転用されたり放棄される耕地が激増したため、転用や譲渡、賃貸借にあたっては地方長官ないし農商大臣の許可を必要とすることや、休閑地の耕作や重要農作物の作付を地方長官が強制できることなどが定められました。

徴用逃れ
昭和15年10月の國民徴用令改正で、徴用は國民登録申告者以外にも広がりました。
徴用されると、未経験工として低賃金での労働を強いられ、徴用期間終了後の就職の保証もなく、家族と離れて遠方へ配置されることもありました。そのため、伝手を頼って、徴用前にちかくの軍需工場に就職するなど徴用逃れが頻発しました。

國防保安法
昭和16年3月7日公布。同年5月10日施行。
國家機密が外國に漏洩するのを防ぐことを目的とした法律。御前会議、枢密院会議、閣議などに付された外交、財政、経済上の議事などの漏洩や探知、治安・経済活動の妨害などを処罰対象とし、最高刑は死刑。また、検事に広範な強制捜査権が与えられました。

生活必需物資統制令
國家総動員法第8条に基づいて昭和16年4月1日に公布施行。
生活必需物資の欠乏から、売り惜しみや買い溜めが横行。消費規制と円滑な需給を目的としていました。
生活必需物資の生産・配給・消費・価格など全般にわたって統制を実施し、これにより、切符制による配給統制が一般化しました。

外食券
昭和16年4月1日から発行。
東京など6大都市で米穀配給通帳制が実施されたことに伴い、外食生活者に対し発行されました。これを持参して、指定の外食券食堂を利用しました。
当初は券がなくとも食事にりつけましたが、食糧事情が悪化すると、券があっても食べられないことが多くなりました。

大日本帝國の総人口
昭和16年4月18日、内閣統計局は昭和15年10月に実施した第5回國勢調査結果を発表。内地と呼んだ日本列島の49道府県、外地と呼ばれた朝鮮、台湾、樺太などの各地域の人口は、内地が7311萬4308人、外地が3211萬1793人で、合計して1億0522萬6101人と、1億人を初めて突破しました。

國民學校
小学校を國民學校と改称する國民學校令が昭和16年3月1日公布、同年4月1日施行されました。
改正の目的は、『皇國ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ爲スヲ以テ目的トス』となっており、天皇を中心とした國家体制のもとで、皇國の道や臣民の道を教え、それに邁進できる人間をつくりだすことにあるとされています。
國民學校の特徴として―――
1.義務教育期間が6年から初等科6年+高等科2年の計8年に延長
2.貧困による就学義務の免除や猶予の撤廃
3.心身障害児童のための特別養護施設の設置

教科は以下のようになります。
國民科
修身・國語・國史・地理

理数科
算数・理科

体錬科
武道・体操

芸能科
音楽・習字・図画・工作
裁縫・家事(女子のみ)

実業科※高等科のみ
農業・工業・商業・水産

太平洋戦争が激化していくと、國民學校の児童には軍事教練、救護・看護訓練、防空訓練などは実施されるようになり、学徒動員や疎開で義務教育は次第に停止していきました。



壁|'-')ノよいお年を。

陸上攻撃機

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

春のイヴェント、みなさま、進捗具合は如何なものでせうか?

今回は新規の艦娘以外にも、裝備系統でイロイロモロモロ登場しているようで...

九六式陸攻に一式陸攻、雷電に三式戰―――

基地航空隊は今後実装予定の通常海域でも使えるようにする布石なのですかね?
そうしないと空母娘に載せられない航空機裝備は宝の持ち腐れですものね。

今回は陸攻系統で簡単に逝きます。
文章少なめ画像多めですので、まぁ気楽に流し読みしてくだしあ。

陸上攻撃機、とりわけ甲クリアした人は野中隊も手に入れていることでせう。

陸攻なんてものがあったのか。爆撃機とどう違うの? といふ人も多いでせう。
まぁ艦これ提督さんのほとんどは知っているので問題はありませんが、艦娘に釣られて始めた提督連には馴染みがないでせうね。

そんな人たちにお勧めしたいのが―――

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松本零士の戦場コミック"THE COCKPIT"から厳選した3本をアニメ化したアニメ版THE COCKPIT。
その収録タイトルの一つ、音速雷撃隊。

1993年製作とはいえ、空戦シーンをはじめメカニックは詳細に描きこまれているので、2016年の今でも必見! とくろちゃんはお勧めしますね。

音速雷撃隊は、昭和20年8月5日~6日を舞台に、架空の日米戰鬪を描いた作品。
日本軍のロケット特攻機・櫻花とその搭乗員である野上少尉、陸攻クルーの戦いを描いています。

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はじめてこの作品を見たときは、子供ながらに打ち震えましたね。
いまでも、6日朝の出撃、そして5日と6日の空戦シーンは食い入るように見てしまいます。

子供のころは、これをVHSに録画し、夏休みに田舎に帰省した時は、家に誰もいないときは大音量で空戦シーンを見ていました。田舎は周囲200~300米は田圃しかないので、東京の自宅ではできない大音量での視聴をやっていました。
田舎とはいえ近所迷惑ですね。

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登場機体は、米軍はグラマンF6F、カーチスSB2C。
日本側は一式陸攻、櫻花、零戰、紫電。

6日の出撃には、護衞戰鬪機40機のうち紫電16機が参加。
航続力がないので、途中で引き返すはずでした。
しかし、5日の出撃で陸攻隊を全滅させてしまったことを戰鬪機隊の搭乗員たちは悔いているのか、紫電隊は進撃続行。
つまり―――
紫電隊は全機、櫻花発進まで護衞を続け、最後は空戦場で全機が散る覚悟ということです。

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米空母發艦のグラマンの新型戰鬪機群が出現。
護衞戰鬪機隊は一斉に邀撃態勢に入ります。
ここからの空戦シーンは必見です。

現実の世界では、昭和20年8月の時点では作品中のやうな大規模な攻撃編隊は不可能で、戰鬪機戦力は来るべき本土決戦へ向けて温存策がとられていました。
搭乗員も訓練不足で、作品中のやうに、米戰鬪機隊を相手に勇戦することは不可能でした。

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陸攻隊にブローニングM2の射撃を浴びせるF6F。
この作品のすごいところが、普通のアニメでは省略されがちな、実写映画やドラマでも省かれることがほとんどの、機銃の薬莢の排莢動作がきっちりと描かれていることです。
上の画像でも、主翼後方の機銃発砲煙とまざって、黒い点々があります。
これが機外に排出された薬莢です。

陸攻の側面機銃手の銃撃シーンでも、同様に排莢はきっちりと描かれています。

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重量級兵器である櫻花を吊り下げているため、陸攻は避彈運動がほとんどとれず、指揮官機を筆頭に次々と被弾、撃墜されていきます。

現実世界でも、櫻花を積んだ神雷特攻隊の陸攻はなすすべもなく米戰鬪機に全機撃墜されました。

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炎上する陸攻。
射撃するF6Fとそれを追尾する零戰。
F6Fの追撃を振り切り、反撃する零戰。

死力を尽くした空戦が展開されます。

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野上少尉を載せた山岡中尉の陸攻は、F6Fの追尾を必死に躱しています。
重い櫻花を積んでいる以上、避彈運動にも限界があります。
右翼内タンクに被弾。燃料が吹き出します。
野上少尉は櫻花を発進させてくれと頼みこみます。発進すれば、敵機は陸攻ではなく櫻花を狙うだろう、そうすれば陸攻は基地に帰還できるかもしれない。
山岡中尉はきっぱりと拒否。
櫻花を切り離すのは敵艦隊が見えてからだと。

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左發動機も被弾、炎上する陸攻。
トドメをさそうと射撃位置にむかうF6F。
そこへ―――

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5日の出撃で負傷しつつも帰還した戰鬪機搭乗員が、F6Fに体当たり。
彼は前日夜、野上少尉に対し、たとえ敵機に体当たりしてでも護衞すると伝えており、それを確実に実行に移したのでした。

そして山岡中尉の陸攻はついに米艦隊に達しました。

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野上少尉の櫻花が発進。
機内で振り返ると、山岡中尉の陸攻が燃え盛りながら墜ちていきます。

彼らの犠牲に報いるべく、野上少尉は米空母めがけて突進していきます―――

20年以上前の作品とは思えない作りです。
DVD、ブルーレイもでているので、興味があれば見てみるのはいかがでせう?


さて―――
これだけではアレですので、今回のイヴェントで報酬として配布される機体群の実際の画像をお届けします。


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海軍の厚木基地の駐機場にならぶ乙種戰鬪機・雷電二一型の集団。
厚木基地には帝都防空の第三〇二航空隊が駐留。海軍防空戰鬪機隊としては、東日本最強の部隊として終戦まで活躍し続けました。


160518m2
三〇二空の雷電。
搭乗員と整備員にくらべ、雷電の胴体の太さ、大きさがよくわかります。
雷電はグラマン戰鬪機のように機体後部が胴体部分と繋がっていて、後方視界の悪さがネックでした。


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離陸して主脚を収納しつつある雷電。
雷電は發動機絡みの振動問題を抱えていましたが、上昇性能は海軍戰鬪機随一で、高度6,000米まで5分50秒で達することができました。
ちなみに、紫電二一型(紫電改)は7分22秒、三號零戰(五二型)では7分1秒かかりました。


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大陸上空を飛行する第一聯合航空隊・鹿屋航空隊の九六式陸攻。
台湾から長距離爆撃に参加し、投彈を終えて帰投するところで、胴体下の爆彈架はカラになっています。
九六式陸攻には胴体上下に引き込み式銃塔が備わっており、この画像ではそれが映っています。


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南京近郊の中山陵上空を飛行する第一聯合航空隊・木更津航空隊の九六式陸攻。
九州から東支那海を飛び越えての、いわゆる渡洋爆撃を実施して世界を驚嘆させましたが、防禦性能に問題を持っていたため被害も続出しました。
航続力の短い艦上戰鬪機が護衞につけないため、アシの長い戰鬪機を! という声が高まり、それが名機・零式艦上戦闘機の開発へと繋がっていきました。


160518q
太平洋戰爭開戰当日、中部太平洋の米領ウェーク島を空襲する千歳航空隊の九六式陸攻二二型。
ぶつらんばかりに機体同士を接近させた密集陣形で飛行しています。この日の空襲で在地敵機の過半を撃破しましたが、わずかに残ったグラマンF4F戰鬪機は後日、驅逐艦『如月』を撃沈する戰果を挙げました。


160518r
松島航空隊所属の九六式陸攻二三型。
台湾海峡周辺の敵潜の跳梁著しく、對潜哨戒の為に台湾・高雄基地へ向けて松島基地を発進するところ。
九六式陸攻は三菱が開発した機体ですが、三菱が一式陸攻の生産に集中するため、中島飛行機でライセンス生産されることになりました。その中島生産モデルが二三型で、412機が製造されました。


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台湾沖で編隊飛行中の新竹航空隊の九六式陸攻二三型。
右主翼端に白い線がありますが、これは編隊を組む際の位置目安線で、僚機はこの線が垂直に見える位置に機体を維持します。画像ではきっちり垂直になっているのがわかります。
昭和18年春以降、九六式陸攻は第一線を退きましたが、船団護衛や對潜哨戒で終戦まで活躍し続けました。


160518t
大陸上空の遣支艦隊司令部付属の九六式陸上輸送機一一型。
大陸での戦火が高まるまで、海軍は大型輸送機の必要性を感じていませんでした。輸送機の需要が出てくると、窮余の策として、当時、高性能を誇った九六式陸攻を改造して輸送機に仕立て上げました。


160518u
ラバウルのブナカナウ基地を離陸する一式陸攻一一型。
画像左端に零戰が発進待機中。巡航速度の違いから、零戰隊は陸攻からやや遅れて発進します。
零戰と陸攻、この組み合わせによる戰爆連合攻撃は画期的な航空戦術でしたが、熟練搭乗員の相次ぐ消耗で部隊の錬度が低下する昭和18年以降は鳴りを潜めてしまいました。


160518v
ソロモン諸島上空の鹿屋航空隊所属の一式陸攻一一型。
昭和18年以降、ラバウルの陸攻隊は戦況悪化に伴い本土帰還、他戦域へと転用され、昭和19年2月の基地航空隊ラバウル撤収まで同地に残っていたのは第七五一航空隊(鹿屋航空隊)だけでした。


160518w
昭和19年5月、富士山をバックに飛行する第七〇一航空隊の一式陸攻一一型。
この陸攻隊は北海道の千歳基地に移動しましたが、すぐに千葉県香取基地に移動。10月から始まる比律賓(フィリッピン)戰に投入されました。


160518x
昭和19年9月、木更津基地の第七五二航空隊の一式陸攻二二型。
二二型は發動機の更新など機体各部の改良が施された性能向上型ですが、防弾性能はほとんど変化がありませんでした。
戦況の悪化と熟練搭乗員の不足に伴い、一式陸攻による昼間爆撃、對艦攻撃はほとんど成果を挙げることができず、少数機による夜間や薄暮、黎明攻撃が主体になっていきました。


160518y
昭和20年4月、鹿屋基地から発進する第七二一航空隊の一式陸攻二四丁型。
胴体下にロケット特攻機・櫻花一一型を吊り下げた神雷部隊所属機で、七二一空は櫻花特攻専門部隊として編成されました。
昭和20年3月21日、四国南方の米機動部隊攻撃で櫻花搭載の陸攻18機が全滅して以降、少数機もしくは単独による薄暮・黎明攻撃に切り替わりました。


160518z1
昭和17年春、ラバウルに進出した横須賀航空隊の一式陸攻一一型。
上の画像でもわかりますが、一式陸攻の搭乗員出入り口は胴体の日の丸部分にありました。
この日の丸をくぐって乗り降りするのが、一式陸攻搭乗員のささやかな、他機種搭乗員に対する優越感となっていました。


160518z
聯合艦隊司令部付属輸送機隊の一式陸上輸送機一一型。
一式陸攻を改造した輸送機仕様で、20名程度の人員輸送が可能でした。性能面ではダグラス輸送機―――零式輸送機より優れていました。
おもに高級将校の輸送に用いられていました。


160518z2
新基尼(ニューギニア)に進出した陸軍航空隊の飛行第七八戰隊の三式戰一型丙。
炎天下での整備作業中に撮影。機体の迷彩などから、前線基地の緊迫感が感じられます。
主翼前縁から突き出ているのが、獨逸から輸入した名銃マウザー20粍機関砲。


160518z3
陸軍・調布基地で弾道試験中の三式戰一型丙(左)と独立飛行第一七中隊の百式司令部偵察機三型乙(右)。
百式司偵三型乙は対B-29用の防空戰鬪機仕様に改修された機体。
この画像の三式戰は、帝都防空を担って昭和19年2月に調布基地で編成された飛行第一八戰隊の所属機。
一八戰隊は防空部隊でしたが、前線の戰鬪機戦力不足を補うために比律賓戦線に投入されて壊滅しました。


160518z4
昭和20年6月、愛知県清州基地の飛行第五戰隊所属の五式戰鬪機一型。
三式戰は液冷發動機の不調と量産遅延から、胴体ばかりがダブつきました。戰鬪機不足に対処するため、空冷發動機のハ一一二Ⅱを試験的に搭載したのが五式戰です。
陸軍ですら予想しなかった高性能を発揮し、日本陸海軍が最後に実戰化した戰鬪機となりました。
艦これ未実装ですが、三式戰の機種更新対象になりそうなので載せました。

五式戰は飛行第二四四戰隊に昭和20年5月から配備が始まり、小林照彦戰隊長をして、「本機をもってすれば絶対不敗」と言わしめました。
昭和20年7月25日、八日市上空で小林戰隊長ら18機の五式戰は、遭遇したグラマンF6F相手に圧倒的な空戦を展開し、12機をたちまち撃墜して五式戰の真価を発揮して見せました。



壁|'-')ノよいお年を。

潜水艦に備えて

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

今回の四方山話は、潜水艦の侵入に備えて、戦前戦中に日本が本土沿岸に設置した設備についての、カルくユルやかな小咄。

海中に潜り、そっと忍び寄る潜水艦は、欧州大戦(第一次世界大戦)、第二次大戦を経て海軍戦備における一大戦力へと進化を遂げました。
21世紀のいま、潜水艦は原子力という神の火を得て無限に近い航洋性を得たほか、昔ながらのヂーゼル・エレクトリック艦も、静粛性の劇的な進歩と攻撃兵器の多様化により、海軍において欠かすことのできない戦力となっています。

港湾や主要航路の近辺には、出入りする艦船をねらって、敵の水上艦艇や潜水艦が港湾口や海峡・水道のあたりをうろつき、時には内部にまで侵入してくることもあります。こういった艦艇がいないかどうかを常時、監視していなければなりません。
しかし、夜間や悪天候のときは電探でもない限りは洋上艦艇すら視認・発見が困難です。ましてや、昼夜を問わず、海中より忍び込む潜水艦の捕捉は輪をかけて困難でした。
海中の潜水艦を捕捉するには、音を用いるか、磁気の変動を探知するかしかありませんが、日本列島は入り組んだ複雑な地形をもち、海峡や湾の数が多く、そのすべてを監視下に置くのは大変なことでした。

周囲が味方の陸地であるため安全であるはずの港湾や海峡、泊地などで潜水艦の攻撃を受けた時ほど、大きな衝撃をもたらすものはありません。
潜水艦戦史上、警戒厳重な泊地に侵入した潜水艦の活躍は数多く、對潜探知能力が向上している今日でさえ、海中深く潜って忍び込む潜水艦の完全な邀撃は勝ち目の薄い勝負となっています。

昭和14年(1939年)10月、獨逸Uボート『U47』は、のちに獨逸潜水艦隊のエースとなるギュンター・プリーン艦長指揮のもと、英吉利海軍の主要根拠地であるオークニー諸島スカパ・フロー泊地に侵入。3萬噸級の英戰艦HMS『ロイヤル・オーク』を撃沈しました。
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スカパ・フローで沈められた英戰艦HMSロイヤル・オーク

港湾封鎖に適した兵器は機雷ですが、これを敷設するために敷設艦を接近させるのは敵に意図と敷設海面を容易に察知されてしまいます。
航空機による機雷投下も同様です。
しかし、潜水艦による隠密敷設であれば、人知れず海域を機雷封鎖することが可能です。
欧州大戦のころには、潜水艦による機雷敷設が行なわれており、『U125』型潜水艦は50個ちかい機雷の敷設が可能でした。
日本海軍は『伊號第一二一潜水艦』型という機雷敷設潜水艦を4艦保有し、太平洋戦争中に4度、機雷敷設作業を行なっています。
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昭和17年(1942年)8月17日、エヴァンス・F・カールソン海兵中佐指揮の海兵隊第2奇襲大隊およそ200名が中部太平洋ギルバート諸島のマキン島に上陸。同地の守備にあたっていた海軍第六二警備隊―――金光久三郎兵曹長指揮の1個小隊64名含む73名と交戦しこれを殲滅しました。
第2奇襲大隊の任務は、ガダルカナル島上陸のカモフラージュ、情報収集、そして将来予想される中部太平洋侵攻時の日本側防備態勢の確認でした。
この作戰で海兵隊の輸送任務に、当時世界最大の潜水艦であったUSS『ノーチラス』SS-168(排水量2,710噸)、USS『アルゴノート』SS-166(排水量2,170噸)の2艦が動員されました。
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USSアルゴノートSS-166
米海軍唯一の機雷敷設潜水艦であった


マキン島奇襲攻撃は一定の成果を挙げたものの、機密書類などの押収はほとんどできず、部隊も30名近い戦死者を出すなど、大勝利には程遠いものでした。
しかも、この攻撃は日本側の防備態勢強化を促し、昭和18年11月のタラワ島攻防戦で米軍を大いに苦しませることとなりました。
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上の画像は攻撃から生還し、奪った日本軍の旭日旗を手にする海兵隊指揮官。
左は攻撃隊指揮官のカールソン海兵中佐。
右は副長のジェイムス・ルーズヴェルト海兵中佐。ルーズヴェルト中佐は当時の米大統領フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトの長男です。

このように、潜水艦による活動は守りを固める側にとっては非常に厄介な存在でした。
潜水艦の侵入に対抗して、まず、港湾や海峡の入口に水中聴音機をならべて、潜水艦の音を捉えることにしました。ただ、海には必ず潮の流れが存在しており、海中に潜った潜水艦は機関を停止し、潮の流れに乗って侵入することもありました。
こういった侵入方法に対し、海底にコイルを沈めておき、潜水艦の艦体がもつ磁気を感知する磁気探知機も併用して設置されました。

ご存知のとおり、艦艇はある意味、大きな磁石です。
なぜかというと、たとえば―――
鉄の棒をほかの磁石がつくっている磁場の中で叩いたり、ひっぱたりしていると、その鉄棒は長さの方向に磁化されて磁石になります。その磁石の方向や強さは、周囲の磁場の方向や強さによって決まります。
艦艇を建造するときは、地球という巨大な磁石の上にある造船所で造ります。船台の向きに置かれた鉄板や鉄材を叩いたり曲げたり、リベットを打ったり溶接したりといろいろな加工をするのですから、完成した艦艇はリッパな磁石となっているわけです。
艦艇が発する磁石の性質は、造船所の場所や船台の向き、造り方や加工の程度によって異なっていました。
三菱長崎造船所製の艦船は艦首がN極、艦尾がS極となり磁力は強くなりました。
神戸川崎造船所製の艦船は艦首がS極、艦尾がN極となり磁力は弱かったそうです。
消磁装置を用いて艦体の磁場を消去する作業が行なわれますが、完全に磁場を消し去ることはできなかったそうです。

閑話休題―――

海中に設置する聴音機は、艦艇に搭載される聴音機と原理は同じで、構造は鳥かごのようなかたちに組んだ架台の中央部に、水平の棚を設け、そこに十数個の捕音機―――マイクロホン―――を直径2米ほどの円周上に上向きで取り付けたました。
これを海底に沈め、捕音機の電線をひとまとめにして、海底電纜で陸上の見張所まで引っ張り、測定装置を設置しました。
こういった設備を海軍は防備衞所と呼び、常時、数名の兵士を観測要員として配していました。

防備衞所は辺鄙な場所に置かれ、しかも港湾や海峡に突出した崖の上などにあり、一方、海底は複雑な地形のところが多く、聴音機の設置、電纜敷設、崖上への電纜の引き上げといった工事は難作業の連続でした。

防備衞所設置工事は昭和15年ごろから、本土各地に増設されていきました。
欧州ではナチスによる周辺國への侵略が始まっており、世界情勢は緊迫の度合いを深めている時期でした。
工事作業は水中聴音機、海底電纜を載せた電纜敷設船を用いて行なわれました。
この電纜敷設船は海軍所属の船ではなく、機帆船をチャーターし、船倉に電纜や電線を収納していました。このほか、架台を吊り上げるデリック、電纜用のガイドやブレーキ、工具、試験装置類を載せていました。
聴音機は團平船に載せ、防水覆いが厳重にかけられていました。

海底電纜は護謨絶縁鋼線裝鎧、ジュート捲きの太さ7~8糎ほどで、心線は捕音機1個あたり2本。補強用の中心鋼線をふくめて60心ほどの、固く重い造りのものでした。
港湾や海峡に敷設する聴音機に用いる電纜ですから、長さは短い時でも数粁、長いものでは10粁にもなりました。

設置作業を行なう場所には、電纜敷設船、聴音機の架台を積んだ團平船とそれを曳く曳船が集結します。
場所は外洋なので波が高いことが多く、潮の流れが速い時は作業が危険および架台を海に落とす恐れがあるため、潮の流れが止まるわずかな時間を狙って作業をしました。
波が高すぎるときや、海面が穏やかでも視界が悪く、陸地がかすんで見えない時は作業が中止となります。とくに陸地の状況がわからないことには、正しい設置場所に聴音機を置けないので、視界の有無は重要でした。

工事はまず、設置海面付近の入り江などの仮泊地で敷設船と團平船を横付けし、團平船のほうに電纜の先端を引き込み、架台についている捕音機に接続します。絶縁処理、防水被覆を施します。
当時、船上で水圧試験を行なう装置はなかったため、水深100米ほどの海底に置くため仕様書は厳格であり、防水作業は慎重に慎重を重ねて行なわれました。電纜の絶縁を調べる性能のいい測定機もなかったため、絶縁状態の点検には熟練を要したといわれています。

天候や潮の流れを見定めて、敷設船は聴音機をデリックで吊り下げて仮泊地を出航、敷設海面に向かいます。
船上から六分儀で陸上の3箇所の固定目標―――山や燈台など―――をねらい、相互の角度を測り、三桿分度器で海図の上に現位置をプロットしながら敷設位置へと移動します。
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逓信省電纜敷設船東洋丸
戦前は海底電纜の敷設は軍民問わず逓信省の管轄であった


敷設海面に達すると船を停止させ、潮に流されないよう操船しつつ、架台を海中に吊り下ろします。同時に、電纜も船上から繰り出していきます。
架台を下ろしていく際に、電纜を引っ張りすぎると架台が傾いたり、最悪の場合はひっくり返ったりします。逆に、電纜を長めにおろしていくと海中でもつれあったりするので、架台と電纜の下ろし作業は時間のかかる難しい作業でした。
当時は徴用した敷設船に搭載可能な測深儀や魚群探知機―――戦後に登場―――のような海底の地形を調べる装置はなかったため、レッドという測鉛を使って海底の深さを刻々測っていました。
測鉛ではこまかな地形の把握は無理で、そして潜水夫を使うこともなかったので、架台を海底に水平に設置するのは苦労しました。
架台の上端には傾斜計がついていて、どの方向へも2度傾くと振り子が振り切れて、警報を出す仕組みになっていました。
この音は捕音機にはいり、船上の聴音機にはいってくるので、警報が出るたびに吊り上げて、位置を慎重に変更して設置しました。当然、何度も繰り返すこともありました。

水平に設置できて、警報がでていないのを確かめたら絶縁を測って、上から電流をおくって電磁石をはたらかせ、傾斜計のなかのピンを突出して、傾斜角をマークさせます。これがあとで引き揚げられ、記録として残るわけです。
架台を吊り下げているワイアに、リング状の錘を抱かせて滑り落としていくと、下端でフックにあたり、架台から傾斜計とワイアが外れます。これを引き揚げて、1つの架台の設置作業はひとまず完了です。

架台を設置したら、電纜をそろそろと繰り出しながら、敷設船を陸地へ向けて動かしていきます。
電纜は船倉から上がってきて、梯子を横にしたような滑り台の上を通ります。この台のところには、十数本の丸太が互い違いに斜めに載せてあり、それぞれに乗員がついていました。これは丸太を用いたブレーキで、当時は最も簡単で、そして専門の敷設艦船以外での電纜敷設では一番安全な方法でした。

電纜は固く重く、しかも海中から引っ張られてもいるので、敷設船の速力と丸太ブレーキのバランスのとり方は難しいものでした。ブレーキを緩めると、電纜はどんどん海底へと延びていきます。逆にブレーキがききすぎると軋んだ音を立てたりしました。

海岸にたどり着くと、ボートで電纜を陸揚げします。
海岸では磯波に洗われて露見しないよう、十分な深さの穴を掘って電纜を埋め、崖の傾斜地にも穴を掘って埋めながら崖上へと引っ張り上げました。
人が足を踏み入れることのない崖や雑木林のなかでの作業ですので、これまた大変な労力を要しました。
ようやく防備衞所まで電纜を引っ張り込んだら、測定機に結線を行ない、各種試験を実施します。それが終わり、聴音機から船のスクリュー音が聞こえてきたら、すべての作業は完了となります。お疲れ様でした。

聴音機は長期間、海中に設置されているので、故障や点検時に引き揚げる必要があります。
このときは錨を海底に下ろして引き摺り、電纜に引っ掛けて引き揚げます。
架台はかなりの重さなので、適当に電纜を引っ張ると破損する恐れがあるので、およそ1粁ほどの長さの防蝕をほどこしたワイヤを架台の頭に取り付け、これを使って引き揚げました。

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津軽海峡で電纜敷設中の敷設船釣島丸/戦後撮影
本船は海軍電纜敷設艇釣島であった


前述の防備衞所や、海峡突破を図る敵艦艇を機雷で撃破するための管制機雷敷設海面を秘匿するため、逓信省に委託するのではなく、独自に敷設する必要を感じ、昭和15年(1940年)に『初島』型電纜敷設艇を4艇建造しました。
『初島』は"はつしま"と呼ばず"はしま"と呼びます。
当初は"はつしま"でしたが、途中で漢字はそのままで"はしま"と改名されたためです。

同型艇は『初島』、『大立』、『釣島』、『立石』で、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各鎮守府防備戰隊に配属されました。
『釣島』をのぞく3艇は戦時中に船団護衛で撃沈されました。終戦時に残った『釣島』は海軍から政府に移管され、『釣島丸』として昭和42年まで海底電纜の敷設や補修で活躍しました。

『初島』型は敷設となっていますが、排水量は1,560噸と『吹雪』型や『白露』型驅逐艦に準ずる大きさを誇っていました。この大きさは戦時量産型の『松』型驅逐艦よりも300噸以上大きいサイズです。
20粁分の電纜や聴音機などおよそ400噸前後の重量物を積むため排水量は大きいですが、全長は76米と小振りでした。
機関は予算の関係上、昭和15年建造時の海軍艦艇として珍しく艦本式呂號水管罐という石炭専焼罐を2基搭載しました。石炭170噸を積み、巡航12節(時速約22.2粁)で1,000海里(約1,852粁)の航続力をもち、最高速力は14節(時速約25.9粁)を出しました。



壁|'-')ノよいお年を。