徒然なる戰藻錄

WoTとWoWSをプレイしているところなのです

『浦波』とその仲間たち

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

予想に反してE-1で、あっさりさっぱりポン酢風味に『浦波』を確保・回収できてしまい、ずるずる引っ張っていくネタがなくなってしまったので、今回は『浦波』とその僚艦について簡潔かつてけとーにご紹介していこうと思います。


◆『磯波』
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横濱港を出港する第一九驅逐隊の『磯波』(昭和5年9月5日撮影)

『磯波』は『吹雪』型第9番艦として、浦賀船渠にて建造されました。
『磯波』は9番艦ながら、『吹雪』型でイの一番に竣工した艦で、昭和3年6月30日に竣工しました(1番艦『吹雪』は同年8月10日竣工)。
ちなみに起工は大正15年10月18日で、『吹雪』より4箇月遅い起工でした。

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碇泊中の『磯波』(昭和5年ごろ撮影)右遠方の艦は同型の『薄雲』

『吹雪』型驅逐艦は合計で24艦が建造されましたが、その第1グループであるネームシップの『吹雪』から始まる10艦は、最後の10番艦を除き、外観上の特徴として第一煙突両舷に煙管型の罐室給気口を設けています。

下画像のブッキーが背負っている機関系統の艤裝を見るとよくわかります。
海水の流入を防ぐため、口が進行方向ではなく艦尾側を向いているのも特徴です。
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『吹雪』型の機関系統は艦首側から第一~第三罐室、両舷に二分された前部機械室、補機である後部機械室の順となっています。
主罐はロ號艦本式重油専焼罐が4基で、第一罐室に一號罐、第二罐室に二號と三號罐、第三罐室に四號罐が置かれ、一號と二號罐が第一煙突、三號と四號罐が後部煙突から排気する形になっています。

主機は艦本式ギアード・タービン2基で、2軸推進で5萬馬力を発揮し、満載2,200噸のこの艦体を最高38節(時速約70.4粁)で疾驅させることができました。
『吹雪』型は日本驅逐艦で初めて巡航タービンを搭載した驅逐艦でもあります。

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碇泊中の『磯波』

『吹雪』型驅逐艦の艦尾艦内は1層、途中から2層となっていて、洋上に浮かんでいるときは艦尾部分がそれほどの高さをもっていないことはわかりません。
艦尾部分には、第四と第五兵員室が置かれ、その後方に第三運用科、第一機關科、第二水雷科の各倉庫が置かれました。
第五兵員室の下には水雷火藥庫、小銃彈藥庫、第二機關科倉庫が置かれています。

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第二艦隊第二〇驅逐隊時代の『磯波』
『磯波』は昭和6年12月に第一九驅逐隊よりのぞかれ、翌年11月まで『吹雪』、『東雲』とともに第二〇驅逐隊を編成しました


『吹雪』型驅逐艦は軍縮条約によって主力艦による決戦が厳しくなったことを反映して、魚雷による敵主力撃砕を目的として、魚雷兵裝を強化して登場しました。
竣工時に『吹雪』型に搭載された魚雷發射管は、兵員が露天状態で操作する一二年式61糎三聯裝發射管改一を3基で、一番聯管が第一と第二煙突のあいだ、二番聯管は第二煙突後方、三番聯管はそのさらに後方に設置されました。
搭載魚雷は予備を含めて18本。予備魚雷は第二煙突両舷に3本ずつ。三番聯管用の予備魚雷は後部甲板左舷の格納筐に3本が用意されています。

次發裝填裝置はなく、クレーンを使って發射管に装填しました。
洋上行動中にクレーンを使う装填に危険を感じるかもしれませんが、『睦月』型などの古い驅逐艦に装備されていた甲板軌道運搬車で運ぶよりは、はるかにはやく装填できたといわれています。

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上画像の『長月』が脚部につけている水雷艤装のように、一二年式61糎三聯裝發射管は、3つの發射管が水平に並んでいるのではなく、中央の發射管が左右より若干高い位置にかさ上げされています。
このようなかたちになったのは、魚雷の直径が61糎と大型化したため、發射管の装置の巾を少しでも狭めておこうという配慮だといわれています。
發射管は人力と機械併用で旋回させることができ、360度旋回に機械なら23秒、人力だと35秒かかりました。

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昭和4年12月ごろの『磯波』

艦これの『睦月』型、『吹雪』型は防楯裝備の發射管となっていますが、竣工時は防楯をもたない兵員操作部がむき出しとなった發射管でした。
これだと、高速航行時や荒天下では激浪を水雷科員が浴びることとなり、最悪の場合は波にさらわれて海に投げ出される危険がありました。
現場から波浪防禦用の防楯取り付けの要望が出され、運用評価のためベニヤ板を用いた仮設防楯が装着されました。運用評価は高く、その防禦効果は十分なものでした。
最初の防楯は愛知時計が製作したジュラルミン製のものでした。これは軽量ではありましたが、海水に曝される艦上では腐食することがわかり、その後、鋼鉄製に改められました。

防楯の改良はその後も続き、機銃弾から兵員と装置を守るため厚さ3粍の鋼鈑を用いた特殊製鋼製防楯を備えた下画像のようなタイプが正式に採用され、『暁』型4艦に建造時点から搭載されました。
ほかの『吹雪』型20艦も、昭和7~8年ごろから順次、改装されていきました。
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◆『綾波』
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昭和6年8月ごろの『綾波』

『吹雪』型驅逐艦は以後の日本驅逐艦の基本形ともなったクラスであり、艦の指揮中枢である艦橋構造物もまた、以後の驅逐艦艦橋構造の基本となりました。
『吹雪』型の艦橋は塔型三層構造で、艦橋内の層状は『睦月』型とくらべて変化はありませんが、トップの羅針艦橋に天蓋が設けられ、全周を鋼製板で塞ぎ、窓ガラスが設けられました。
『神風』型までは羅針艦橋は露天となっており、雨天の際は天井にケンバスを被せる仕様となっていました。『睦月』型は天井以外は鋼製板を設けていましたが、天井はケンバス製でした。
ケンバスでは荒天時、海水が浸入し戰鬪指揮、操艦に支障を生じることがままありました。

艦橋が大型化したことで、重心の上昇を防ぐため、軽量化を狙ってジュラルミンなどの軽合金が用いられました。大正末期から昭和初期にかけて、この種の素材を艦艇に用いるのは画期的なことでしたが、海水による腐食が著しく、改裝で順次、鋼鉄製に改められていきました。

『吹雪』型の第一グループの10艦の艦橋内は、下層の船首楼甲板部に艦長室、その後方に予備室。中層に前部電信室、その後方に海図室兼射撃指揮通信中継所、無線電話室。上層には左右に大きく張り出した構造の羅針艦橋、發射發令所、その後方に艦長休憩室があり、その後方には露天の信号所があり、前檣基部があります。
羅針艦橋の左右天井にハッチがあり、そこから羅針艦橋天井部に設置された手旗信号台にあがることができます。
羅針艦橋の上は射撃指揮所である上部艦橋で、測距儀や方位盤が置かれていました。上部艦橋は前面と側面に鋼鈑製の板とガラス窓を備えていましたが、天井はケンバス製でした。


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横濱港で出港準備中の『綾波』と『敷波』(昭和6年9月5日撮影)

上の画像でもわかるように、『吹雪』型の艦尾両舷には丸みを帯びた張り出し部が設けられています。
『吹雪』型は設計当初、8組32個の連携機雷と、艦尾に大掃海具2基を装備する予定でした。機雷関係裝備は搭載見送りとなり、爆雷裝備のみが搭載されました。
艦尾のこの張り出し部は大掃海具搭載の名残で、掃海具裝備の可能性を考慮して設けられたといわれています。

艦尾端には八八式三型改一發煙罐4基が搭載され、發煙展張器2本が舷外へ突き出て装備されていました。
煙幕を展張しつつ敵主力に肉薄し搭載魚雷を放つ―――
そういった魚雷戰を想定しての裝備でしょう。


◆『敷波』
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昭和5年ころの『敷波』

『綾波』からはじまる10艦は、『吹雪』型第2グループに属します。いわゆる『綾波』型と称するタイプで、改『吹雪』型驅逐艦です。
外観の特徴としては、第1グループの特徴でもあった煙管型給気口を廃止し、第一、第二煙突基部にお椀型の給気口を設けた点です。このお椀型給気口は以後の日本驅逐艦の特徴となり、『秋月』型8番艦『冬月』以降の艦と戦時量産の『松』型、『橘』型以外の驅逐艦に装備されました。

『吹雪』型第2グループ9番艦の『漣』には空気予熱器を備えた罐が搭載されました。これはエア・プレヒーターとも呼ばれ、主罐から発生する余熱を利用して、炉へ供給する空気を熱するもので、省エネをはかるために採用されました。
『吹雪』型のほかの驅逐艦にも、改修などの機会を利用して順次、装備されていきました。

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昭和6年ころの『敷波』と右遠方の艦は『綾波』

第2グループは射撃関連装置の更新も行なわれ、それに伴って艦橋構造も第1グループに比べて大型化しました。
艦橋の外観は、第1グループが丸みを帯びているのに対し、第2グループはやや角ばった形状となりました。
艦橋内の配置はほとんど変化はありませんが、上部艦橋には大型の円筒構造物が置かれ、ここには方位盤照準装置が設置されました。
第1グループは2米測距儀と方位盤のみが搭載されていましたが、『綾波』以降の第2グループは方位盤照準装置が搭載されたため、射撃指揮所と方位盤照準装置は別個に配置されました。

以下に、略図ですが第2グループの基本的な艦橋内配置図を載せます。

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イ:手旗信號台
ロ:魚雷戰方位盤
ハ:發射指揮盤
ニ:12糎双眼望遠鏡
ホ:方位測定用従羅針儀

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舞鶴沖で全力公試運転中の『敷波』(昭和4年11月13日撮影)

『吹雪』型以降、『夕雲』型までの驅逐艦に搭載されたのが、50口径三年式12糎7二聯裝砲です。一部の艦には單裝砲型も搭載されました。
第2グループ以降の『吹雪』型に搭載されたのは、B型と称するタイプです。
これは對水上だけでなく、對空戰鬪も考慮したもので、砲身の仰角は75度にまで引き上げられました。主砲による對空射撃は、昭和2年ごろに開かれた軍備制限研究委員会での答申によるもので、同じころには『高雄』型巡洋艦の主砲も對空射撃用に仰角の増大が検討されました。
B型砲は後述のA型砲と比べ、砲塔形状がやや平たくなっています。

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砲塔の左側に半円形の突起があり、ここに鎧戸式のシャッターが設けられ、高角照準を目的としていました。上の画像は『敷波』の艦首1番主砲で、砲塔左側に半円の突起があるのがわかります。
B型主砲は昭和10年頃に、半円の突起をフラットな平板に改め、鎧戸式シャッターを引き戸式の窓覆いに改修されています。
これは第四艦隊事件による砲塔や照準孔の強度不足に対する措置とみられます。

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『綾波』改二でこのB型砲を見ることができます。
裝備図鑑の12.7cm聯裝砲はデフォルメされすぎて使い物にならず、むしろ砲塔上面をのたくるパイプのようなものの配置から、A型單裝砲に似た形状で参考になりませんでした。

B型砲塔は毎秒6度の角度で旋回可能で、俯仰速度は毎秒20度で砲身を上下させることができます。


◆『浦波』
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昭和5年ころの『浦波』

『浦波』は『吹雪』型第1グループの最終艦で、特Ⅰ型に属している艦です。ですが、いくつかの改良が行なわれており、Ⅰ型改とも呼ばれます。
最大の特徴が、第1グループの外観上のポイントであった煙管型給気口がお椀型になっていることです。

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『浦波』中破画像でその点も確認できます。
艦橋構造については変更はありませんでした。

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主砲3基すべてを右舷に指向し砲身に仰角をかけている『浦波』

前述したとおり、『吹雪』型には50口径三年式12糎7二聯裝砲が装備され、第1グループの10艦にはA型砲が採用されました。
この主砲は当初、その口径を秘匿するため12糎砲と呼ばれていました。
『睦月』型や『神風』型に搭載された12糎砲は装薬をつめた薬莢と砲彈が一体化した莢砲式でしたが、三年式12糎7砲は砲彈と装薬を分離してそれぞれを砲身に装填する嚢砲式になっていました。

砲彈重量は23.5粁で、装薬は常裝、弱裝、減裝の3種類がありました。
砲身は最大仰角40度、俯角は7度で、旋回速度は毎秒6度、砲身の俯仰速度は毎秒12度で、砲1門あたり毎分10發の發射が可能でした。

砲彈の初速は毎秒910米で、射程は仰角5度でおよそ7,200米、10度でおよそ1萬米、20度でおよそ1萬4000米、30度でおよそ1萬6600米、最大の40度の際は1萬8200米となります。

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砲塔はB型と違って四角い箱型をしており、ひとめでB型砲との区別がつきます。
戰艦の主砲塔は敵主力艦の砲彈を弾き返すだけの厚みを持たせていますが、驅逐艦では砲塔に耐彈・抗彈性能は全くありません。
驅逐艦の主砲が砲塔形状をしているのは、艦首から甲板上に突っ込んでくる波浪に砲操作員がさらわれることがないようにとのことからです。
なので12糎7砲彈どころか格下の3吋砲彈ですら貫通できます。初速のはやい機銃弾なら、たやすく貫通する程度の薄い裝甲厚しか持っていません。

砲塔の側面に3本のレールが走っています。
これは砲塔が激浪に叩かれて破損しないようにするための補強フレームで、A型主砲の特徴でもありました。

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上の画像は昭和6年9月5日、本牧沖を横須賀へ向かう第二水雷戰隊の驅逐艦群で、中央の艦は第一九驅逐隊『浦波』。続航艦は同隊の『敷波』。
遠方の2艦は第一一驅逐隊『吹雪』、『白雪』、『深雪』、『初雪』のうちの2艦です。



壁|'-')ノよいお年を。
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天空の女神すら欲しがる、艦娘という愛の秘薬

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

艦これアーケード鎮守府への移籍とリアル仕事によって長期にわたって放置していたブラウザ鎮守府。
秋のイヴェントがはじまっているので出撃することにしました。

でもその前に―――

我が艦隊には長期にわたって未着任となっている艦がおりました。

それが、吹雪型驅逐艦の『浦波』。

2-4などのいくつかの海域で捕捉できるとのことでしたが、いままで邂逅することすらなく、「あれ? もしかしてこやつ未実装じゃね?」と思ってもいました。

その『浦波』が―――

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E-1本土近海で捕捉可能という噂を聞きました。
捜索艦隊を派遣し、『浦波』を拿捕、回航すべきであるといふ結論に達するのは当然のこと。

なので以下の艦隊を編成し、『浦波』奪還の特命を与え、出撃させることにしました。

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空母を含まないので、T字不利を引いたら、またの御来航をお待ちしておりますという結果になりますが...
ここの敵旗艦はチタンをふんだんに使った旧蘇維埃のアルファ級SSNばりに頑健なので、兎にも豚の角煮も對潜制圧力を高めるべきという判断で、空母を外してハンター・キラー5艦態勢としました。

さすがは對潜特化仕様の戰鬪艦隊です。
道中のks忌々しい潜水艦部隊も―――

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戰鬪開始前に藻屑ってました。

對潜裝備フル搭載状態ですが、道中の敵水上部隊も撃破可能。たまに気の抜けた艦娘が直撃弾を喰らって撃破されますが、往々にして敵水上部隊は藻屑ります。
アーケード版では、ぜかましちゃんが爆雷を蹴り飛ばしている演出がありますが、ここでの水上戰鬪も、爆雷を敵艦にぶっつけているのでしょう。
いつから対水上戰鬪を砲雷撃でしか実行できないと錯覚していた?( ゚ω゚ )

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ここまで平穏無事に来れたら御の字です。
索敵値?
南へ逸れる?
そんな南の海へ行きたがる艦隊なんて実在するんですか?

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索敵値に愛されてやまない我が艦隊は常に針路北。
サイコ→にかわいい『清霜』を旗艦にすれば、針路を誤るなんてことはありませんよ。

海域突破中に南へ逸れたことがありますが、あれはおそらくボールシフトによって世界が南北逆になった結果なのでしょう。それ以外にあの南進を説明づけることは何人にもできやしませぬ。

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こやつの撃沈はほんと大変ですよね。
T字不利ではまず不可能。
反航戰でも打撃が鈍れば撃沈できないですし...

冷戦時代に、核魚雷や核爆雷といふシリアスな兵器が実在していたのですが、それを用いればこやつをT字不利状態でも撃沈に持ち込めることでしょう。

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第一次『浦波』捜索では、『五十鈴』が水上部隊との戰鬪でカルい被害を受けたほかはさしたる損害もなく、潜水棲姫をふるぼっこで撃沈してS勝利。
ドロップは『愛宕』。

第二次『浦波』捜索では、『皐月』中破、『五十鈴』と『ビスマルク』が輕い被害を受けたものの、前回同様、姫にお歳暮と称して爆雷をありったけ贈ってS勝利。
ドロップは『妙高』。

せめて空母系なら近代化で對空値を上げることができるのに...

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對潜水艦戰鬪が主体のE-1は小笠原諸島の父島近辺が舞台になっています。
潜水艦、父島―――
このふたつの言葉から、太平洋戦争末期のある出来事が思い起こされます。

昭和19年(1944年)9月2日、米空母USS『サン・ジャシント』CVL-30を飛び立った艦上攻撃機TBF/TBMアヴェンジャー4機は、父島の日本軍施設を攻撃し、對空砲火によって撃墜されました。
撃墜されたある1機は、搭乗員3名のうち、機長のみが脱出に成功し、ほかの2名は戦死しました。
脱出した機長を捕獲せんと日本軍は舟艇を出動させましたが、友軍機により撃退されました。
機長は付近の海域を航行中だった潜水艦USS『フィンバック』SS-230に救助されました。

この救助された機長の名は、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ。
1988年に第41代大統領に就任した人物です。もし、このとき、同乗者もろとも戦死していたり、日本軍の捕虜となって処刑もしくは病死していたら、2001年に第43代大統領になるジョージ・ウォーカー・ブッシュ(1946年7月生まれ)もこの世に存在しなかったことでしょう。

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第三次『浦波』捜索で『皐月』中破、『巻雲』損傷輕微の被害と引き換えに、無事、『浦波』の身柄を確保。本土に回航しました。

E-1で見つからなかったら、イヴェント終了後に新艦娘を伴って、育成がてら2-4詣でを………と思っていたのですが、さっくりと鹵獲回収できてよかったです。

『浦波』回収にかかった出費は―――

燃料:360
彈藥:261
鋼材:110

艦隊の過半が驅逐艦だから、意外と出費が響きませんでした。

これで『浦波』系統の任務がこなせる...はずです。
『敷波』と『磯波』を建造すれば、ですが...



壁|'-')ノよいお年を。
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艦これ&艦これアーケード他

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

季節も文月。
猛暑でもうしょわけありません、と平身低頭しちゃう盛夏の候、いかがおすごしのことでせう。

艦これブラウザ版。
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『朝潮』改二丁、改裝完了。
改二にしたあと、見た目が『霞』や『大潮』の改二よりもくろちゃん的によかったので、改二丁と改二の2艦を保有しようと決意。
現在、改二予定の『朝潮』の錬成を実施中。


艦これアーケード。
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ここ最近、建造や海域におけるドロップ運がダダ下がり気味。
『高雄』なんかすでに8枚。
建造で、2-3、2-3追撃と3連続ででてきたときは思わず苦笑いでした。

アーケードは毎回のプレイにそれなりに100圓玉をぽこじゃか投入するのと、プレイ時間がないのでどの艦も万遍なく育てるのは至難。
なので一等巡洋艦では現在、『愛宕』を主軸にしているんですね。
なお『愛宕』は改やホロ、中破どころかノーマルすらここ2週間ほど来ない模様。


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6月追加艦5艦のうち、『綾波』をのぞいて4艦がきました。
『足柄』、『敷波』は使いたい艦だったのでうれしいことこれしきり。

『足柄』は被弾時に、「うにゃっ」って言ってました。
『敷波』はイラストでピースしていることから、母港でツンツンしてるとさりげなくピースサインしてましたね。
ブラウザ版では育成どころか保有すらしてないけど、アーケードではめがっさ可愛いから現在、旗艦配置で鋭意育成中です。


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アーケードでは『大和』型2艦以外の日本戰艦10艦が実装済みですが、くろちゃんの艦隊にはその半数しか着任していません。
『金剛』、『榛名』、『霧島』、『山城』、『長門』のみ。
そして『榛名』は上画像のように現在5枚。ほかの4戰艦は各1枚。

このドロップの偏り具合はブラウザ版以上にヒドいと痛感している盛夏の夜でございマス。

アーケード版では『金剛』と『山城』の動き具合が可愛いのでサイコ→です。


World of Warships。
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8日よりアルペジオ・コラボでついに我らがヒロイン・アシガラ嬢が参戦。

アシガラは原作、劇場版ともにタカオと並んで好みの霧の艦艇なので、今回は本気で取りに行きます。
コンゴウやヒエイ、キリシマ、ハグロのときはスルーでしたが、アシガラ参戦とあってはこれを放擲することは許されません。


アルペジオもいいけど、はいふりとのコラボもやってほしいですね。
まぁ、艦長をどうするかが問題ですが...


最後に―――
先日、貞子vs伽椰子を観てきました。

面白かったですよ。

怖いんじゃなくて、面白かったですよ。

胡散臭い女霊媒師の、
「除霊する(`・ω・´)キリッ」

「失敗シター( ゚ω゚ )」

死亡。

そのあとに出てきたアウトロー気取りの男性霊媒師は―――
「バケモンにはバケモンをブッつけるんだよ(`・ω・´)キリッ」

「失敗した。封印するためどっちかひとりに犠牲になってもらう」

草不可避の展開でした。
しかもそのあとすぐに死んでるし( ゚ω゚ )

後半の貞子vs伽椰子のバトルも痛烈でした。
迫りくる貞子の上半身にいきなり伽椰子が飛びついたときは笑いが出ましたね。もちろん、自分含めてそこここの観客から。

制作サイドの予想
伽椰子が貞子にとびかかる

観客「キャー!!!」

現実
伽椰子が貞子にとびかかる

観客「wwwwwwww」


リングよりも呪怨シリーズが好きなので、貞子についてはあまりわからないのですが...
劇中で貞子が自慢の長い黒髪を駆使して伽椰子を爆裂させたり、ヴィデオを観た人に髪を垂らしたりしていました。

髪を使うのは伽椰子じゃないかな~と思ったんだけど、違うんですかね。

あと、俊雄がヒドかった。
呪怨の俊雄は子供っぽさが残ってましたが、今回の作品の俊雄はただの池沼でしたね。

まぁでも、去年見た劇場霊が料金返せレヴェルの出来だったのに比べ、貞子vs伽椰子はなかなか楽しませてもらいました。イイ作品でしたヨ?



壁|'-')ノよいお年を。
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WoWS 神風プレイ動画

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

先日、WoWSで『神風』で海戰に臨んだところ、なかなかにイイ戦績を残せたので動画うpしました。

今回の戰鬪の勝因は、

1.敵の驅逐艦が1艦だけだった
2.敵驅逐艦がこちらの捜索に専念しなかった
3.味方艦が敵驅逐艦を迅速に処理
4.敵空母機がこちらにほとんどこなかった

といったところですかね。
敵驅逐艦は米驅逐艦なので、『神風』では砲撃で太刀打ちできない相手なので、敵驅逐艦がこちらの捜索そっちのけで味方の戰艦などとやりあって、そのまま沈んでくれて助かりました。

最後まで残った敵空母から、「poor kamikaze」とステキな言葉を賜りました。
魚雷を外したことから、「下手糞めw」ということなのでせう。

まぁ、戰鬪時間終了と同時に魚雷ブチこんで沈めてやりましたがね( ゚ω゚ )




壁|'-')ノよいお年を。
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いろいろもろもろ

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

28日よりローソンでハイフリのキャンペーンの一環として、オリジナル菓子の販売が開始。
なので艦これアーケードやった帰りに立ち寄ってみました。

店頭在庫は5箇しかないので、全部買わせていただきましタ。

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色紙5種類中4種を入手。
のこりはもえか武蔵艦長のみ。

この最後の1種のみを引き当てるのが至難なんですよね...

ハイフリは………まぁイロイロモロモロ言われてますが、くろちゃん的には良い作品でした。
なにより、登場キャラの大半がかわいい。
30人以上いる『晴風』クルー全員が可愛い。1作品でこれほど多数のキャラをイイネ☆ミ と思った作品はいままでなかったです。
第二期やってほしいし、ガルパンのようにOVAや劇場版というのもお願いしたいところでありマス。


艦これブラウザ版ですが―――

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ケッコ→時間がかかりましたが、ようやく『那珂』ちゃんとの婚姻が成立しました。
『那珂』ちゃんは我が艦隊で最初に配備された二等巡洋艦。当時は弾着観測も連撃もなにもない、巡洋艦にとっては厳しい時代でしたが、そのなかで昼戰に、夜戦にと活躍してくれました。
その後は遠征部隊配備となり、地方巡業の日々。改二実装後もそれは変わらずでしたね。

『川内』、『神通』よりも優遇してここまできました。
これからは遠征のみならず、イヴェントでも活躍してくれることでせう。


艦これアーケード。


月末に『妙高』型3艦をふくむ5艦の新規追加。
『敷波』と『足柄』はぜひとも我が艦隊に迎えたいですね。

『敷波』はブラウザ版では一切使っていない艦ですが、アーケードでの3Dモデルにおけるしばふ艦の可愛さは有頂天の極みですので、ぜひともお迎えしたいことこれしきり。

『足柄』はもちろん………
被弾した時の、「うにゃっ」を聞きたいがため―――

30日から2日までゲーセン行くひまがないので、REVISION2実装後の初プレイは7月3日になりそう。日曜だから、はやめに家を出ておかないといかんですね。

ここ1週間ばかり、我が艦隊の建造運もドロップ運も劣悪の一語に尽きる状況。このマイナス補正がかかった状況は、追加艦ドロップのための布石に相違あるまい。
ちょっと期待しちゃいます、はひ。


最後に―――

戦前、日本は大陸に進出していました。大陸には揚子江、黄河といった日本では見られない広大な河川があります。揚子江には支那方面艦隊が配備されていました。この艦隊は聯合艦隊の指揮下にはない、支那での活動のみに限定された艦隊でした。
この艦隊には砲艦や水雷艇、砲艇などが配備され、在留邦人の保護や日本権益の維持にあたっていました。

揚子江に碇泊する艦艇は、川の流れに押されないよう錨をおろしていますが、流れが速いために錨や錨鎖はあっというまに流れてくる砂泥に埋まってしまいます。
そのため、この方面の日本艦艇は1日1回、錨を上げて掃除して入れなおす検錨を行なっていました。
この作業はなかなかに厄介で、前後の錨を交互に上げ下げして掃除し、入れなおすため、艦艇をそのたびに前後に動かして碇泊位置から大きくずれないようにしました。

なお―――
排水量が500噸にも満たない河用砲艦は、この方面における日本という國家の顔という立場であり、艦首に菊の御紋章をいただく軍艦に属していました。
小さく古い艦ながらも菊の御紋を付けたこの砲艦に対し、揚子江を行きかうより大きな外國艦船は國際儀礼にしたがって、砲艦に掲げられている軍艦旗に敬礼していきました。

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香港海軍工作部の砲艦『須磨』/昭和17年10月3日。
『須磨』は1916年に竣工した英國海軍625噸級砲艦『インセクト』級の1艦『モス』で、太平洋戰爭開戰時は香港で修理中でした。修理要員の現地人が逃亡したため戦列復帰できないまま、12月25日の香港陥落を迎えます。
日本軍は『モス』を浮揚修理し、昭和17年7月1日付で軍艦『須磨』として佐世保鎮守府に籍を置きました。
昭和20年3月19日、機雷に触れて沈没。

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『勢多』型砲艦『比良』。
4艦建造された『勢多』型で最初に竣工した『比良』は、排水量330噸と小さいながらも艦首に菊の御紋をもつ軍艦籍の砲艦。
支那空軍機による空襲を警戒して、艦上構造物の上に13粍聯裝機銃が増設され、8糎高角砲は最大仰角をかけられています。
画像は戰鬪中ではなく、整備のために岸壁に横づけするところです。
艦尾の吸気口のような2つの箱型は厠です。



壁|'-')ノよいお年を。
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6月15~16日の防空戰鬪

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

すでにたっぷり日数も経過しておりますが、6月15日、16日は全日本的にB-29本土初空襲の日です、ごきげんよう。

といふわけで、今回の四方山話は昭和19年(1944年)6月15日から16日にかけて戦われた、本土防空戰における初の対B-29戰鬪についてご紹介します。

艦これ基地航空隊で、空母機でない陸軍機の三式戰が登場しているので、今後も陸軍機の追加はあると予想できます。
ifイヴェント的に、本土空襲をもくろむ深海棲艦高々度爆撃機に対する邀撃戰鬪。その策源地である飛行場姫への突入撃滅。敵が基地化をもくろむ島嶼部への逆上陸戰―――
そういったことも期待できますね。

実行はされませんでしたが、昭和19年6月の米軍サイパン島上陸に応じ、海軍は増援兵力および物資を載せた艦隊をサイパン島に送り込む計画を立てていましたしね。

それでは、本土防空戰についての駄文拙文、流し読み程度にでも目を通してやってくだしあヾ('ヮ'*)ノ


◆電探情報

蒸し暑さを感じ始めた昭和19年6月15日、この日も山口県下関市の小月飛行場(現:海上自衛隊小月基地)に展開する飛行第四戰隊では、ちかい将来予想される米軍新型爆撃機による本土空襲に備え、1800時より夜間訓練を開始していた。
第四戰隊は昭和15年から北九州の防空任務に就いており、昭和19年の5月からは夜間専任部隊に指定されてもいました。

第四戰隊の裝備機は、双発複座の二式複座戰鬪機35機。
川崎航空機の開発した長距離侵攻用戰鬪機で、機体番號キ45改。屠龍の名でも知られている。
新基尼(ニューギニア)方面で戰鬪機や爆撃機として使用され活躍していたが、本機がその真価を発揮するのは本土防空戰においてでした。
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飛行第四戰隊第二中隊の二式複戰甲型/昭和19年春ごろ

本機は發動機を2つ備えた関係で出力が單發機より大きく、重武装を実現している。
その最たるものが、歩兵砲を改造した37粍機関砲ホ203で、このほか斜め上向きに20粍機関砲を2門搭載している。
この上向き砲は、操縦席の前席と後席のあいだにあった燃料槽を撤去し、30度の角度をつけて搭載し、大型爆撃機の下方を平行飛行しながら射彈を送り込むことを狙ってのもの。
海軍の夜間戰鬪機《月光》が同様の斜銃を装備し、南方戦線でB-17を相手に大きな戰果を挙げている武裝であった。

米軍の新型爆撃機が本土を襲うとなると、進撃途中で見つかりにくいうえに、目標付近の對空警戒が鈍く、戰鬪機が活動しにくい夜間になることが予想された。
昭和19年当時、日本陸海軍戰鬪機隊の機上電探は開発途上にあり、頼りになるのは空中勤務者の肉眼だけであった。
しかし、操縦員のほかに機上通信を担当する同乗員を載せられる二式複戰では、地上からの無線指示を受けて活動することが可能で、さらに簡単な航法も行なえるので、当時は夜間戰鬪にうってつけの機体であった。

ちなみに―――
海軍ではパイロットなど航空機に乗り込む乗員を搭乗員と呼ぶが、陸軍では空中勤務者と呼んでいた。

2200時ごろには夜間訓練を終えた二式複戰が、翼端燈を点けながら1機また1機と小月の飛行場に帰還してきた。
飛行場の一角には、夜間の緊急出動に備えて、濃緑の斑迷彩を施した二式複戰8機が並べてある。これは警急中隊と呼ばれ、夜間戰鬪可能な伎倆甲の認定を受けた熟練勤務者が交代で搭乗する。
この日の警急中隊の指揮官は第一隊長小林公二大尉と第二隊長佐々利夫大尉で、佐々大尉は戰隊本部の待機所仮眠室で仮眠中。小林大尉は飛行場営門ちかくの空中勤務者用宿舎で、南方の戦況に気をもんでいた。

南方の戦況。
それは―――
6月15日未明、空母機による大空襲と艦砲射撃のもと、米海兵隊の大部隊がマリアナ列島のサイパン島に上陸。
夕刻1730時には本州、四國、九州に警戒警報が発令され、陸海軍の各基地の緊張は高まっていた。
サイパン侵攻を援護するため、米機動部隊が本土近海に進出することが予想されたほか、この年の春ごろから大陸奥地に進出が始まったと伝えられる米軍新型爆撃機による攻撃の恐れもあった。

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昭和19年当時の本州太平洋岸對空監視体制/地図はクリックで拡大可

米機動部隊の北上に関しては、海軍が本土南方に索敵機を繰り出しており、その動向を把握できる体制が整いつつあり、空母9艦を主力とする第一機動艦隊も"あ"號作戰に基づいて行動を始めていた。

大陸からの爆撃機については、大陸に展開している陸軍第五航空軍および支那派遣軍が逐一、情報を内地に送る手はずになっていた。

2331時、福岡市にある西部軍司令部に無線連絡が入る。
それは済州島南西部に位置する摹瑟浦(もしっぽ)の電波警戒機乙からの緊急電であった。

『彼我不明機290度60粁および120粁付近を東進中』

西部軍司令部は緊張に包まれた。
ほぼ西方から済州島へ向かっているので、もしこれが大陸奥地を飛び立った爆撃機であるなら、北九州が目標の公算が大きい。
もちろん、友軍機の可能性もある。
長崎県大村基地の海軍哨戒機が、帰還時にとるコースに似ているからだ。

この夜、当直にあたっていた羽場光中佐は第一報を受けて、海軍機ではないかと考え、済州島付近で活動中の航空機があるか関係各部隊への照会をはじめた。
15分後、摹瑟浦から再度の入電。

『彼我不明機 済州島北50粁』

非常事態の可能性があるため、西部軍参謀長の芳仲和太郎少将ら幕僚も司令部に集まってきた。
この探知目標が米軍機であれば、九州空襲の恐れがある。
日本本土は開戦から間もない昭和17年4月18日の、ジェームス・ドゥーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機による帝都空襲以後、今日まで空襲を受けたことがない。
この探知目標が米軍機であれば、それは新型爆撃機もしくは長距離仕様の既存の爆撃機であり、ただちに邀撃態勢を整えねばならない。
敵爆撃機による攻撃意図を鈍らせるには、第一回目の邀撃戰鬪で大きな戰果を挙げる必要がある。

空襲警報を出すべきと主張する幕僚がいるが、問題があった。それは北九州最大の最重要防護目標である八幡製鉄所。
空襲警報を出せば、決まりにより溶鉱炉の火を落とすことになる。しかし、もし誤報であれば………
炉を再稼働させるために莫大な費用と時間がかかり、國内銑鉄生産量の3割を担う製鉄所の機能は再稼働まで失われてしまう。

西部軍司令部が空襲警報発令に慎重になっているあいだにも、済州島の電探基地からは情報が次々に送られてくる。
日付がかわり、6月16日0008時に、

『済州島東20粁に4箇編隊』

0015時に入電したのは、

『済州島西方150粁から170粁に探知目標。一部は旋回中』

電波兵器の要である真空管の性能の劣悪さから、精度の高い観測は不可能な陸軍の電波警戒機乙だが、これほどの探知情報から不明機は相当数にのぼっていると予想された。
西部軍司令部ではまだ警報発令に二の足を踏んでいた。

大陸から飛来する爆撃機については、支那派遣軍から事前に情報が入るはずだった。しかし、大陸からは一切の情報が来ない。
大陸奥地を飛び立った爆撃機は、どうやっても支那派遣軍の活動域上空を通過しなければならない。当時はまだ、多数の航空機へ燃料を給油する技術と空中給油機は存在しないため、爆撃機は自前の燃料でやりくりする必要があった。そのため、支那派遣軍占領地を大きく迂回してやってくることはできない。
漢口を中心に11箇所の電探基地を持つ支那派遣軍と、常時偵察機を出し、敵の無線通信を傍受する特種情報部を持つ第五航空軍から連絡が来るはずなのだ。

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昭和19年当時の九州對空監視体制/地図はクリックで拡大可

0015時には済州島以外の電探基地からも目標捕捉の情報が入り始めた。
長崎県平戸~対馬の厳原~五島列島の福江を結ぶ電波警戒機甲からの情報。

『不明機の干渉音を認む。東進中なり』

0020時には、済州島の電探基地は捕捉目標の飛行速度の算出を行ない、時速400粁程度と伝えてきた。
この速度は哨戒機が哨戒中や帰還時に出す速度ではない。

このころには、九州や朝鮮の各基地への照会も終わり、捕捉目標は友軍機ではないという結論に達していた。
捕捉目標は米軍機であり、大陸奥地を飛び立ち、支那派遣軍と第五航空軍の警戒監視網を突破した爆撃機であるのは間違いなかった。
0024時、西部軍は空襲警報を発令した。

※電波警戒機甲
昭和15年に陸軍が開発した電波兵器。ドップラー効果を応用したもので、送受信所間に流された電波の直接波と、空中目標に当たって戻る反射波との干渉により唸りを生じさせ、侵入機を探知する。
唸り―――干渉音―――は、航空機が送受信所間を結ぶ線(警戒線)に近づくか横切るかしたときに出て、その音にちなんでワンワン方式と呼ばれた。
目標までの距離が測れないので、正確にはレーダーではないが、実用価値はそれなりにある兵器であった。
量産型は4型式が生産され、最大のものは出力400ワットで警戒線長350粁、最小は出力10ワットで警戒線長80粁。
探知範囲が狭く、目標の位置や規模を知ることは不可能で、また取り扱いも不便で設置場所も限られるため、海軍は試作にとどめ、おもに陸軍が主として運用した。

※電波警戒機乙
昭和16年10月に陸軍が完成させた、指向性アンテナを用いてパルスを応用したメートル波レーダー。海軍が千葉県勝浦に設置したメートル波レーダーである一號一型電波探信儀と同じ要地用對空捜索電探で、昭和17年6月に千葉県銚子に第一號機が設置され、運用が始まった。
Aスコープと呼ぶブラウン管上に送受信パルスと距離目盛が映り、距離と目標の大小を判断でき、方向探知はアンテナを回転させて感度の最も高い位置を見つける最大感度方式を採用している。
探知距離はおよそ300粁で、精度は高いとは言えないが、しかし実用に足る性能を持つレーダーであった。


◆第四戰隊出撃

北九州の防空を担当するのは、防衞総司令部西部軍管区の指揮下にある第一九飛行團で、南方帰りの古屋健三少将が指揮を執っている。
飛行團は小月基地に司令部を置き、おなじ小月基地に展開する飛行第四戰隊と飛行團司令部偵察中隊、福岡県芦屋基地の飛行第五九戰隊を掌握している。
第四戰隊は昭和15年から防空任務に就いていたため戰鬪損失の被害もなく、裝備する35機の二式複戰も常時25機が稼働状態にあった。
空中勤務者についても、夜間戰鬪可能な勤務者15名をふくむ相当数の熟練勤務者をかかえ、南方で鹵獲したB-17を用いた対大型機襲撃訓練を重ねるなど、その錬度は内地の飛行戰隊でも指折りであった。

一方、第五九戰隊は地獄の新基尼戦線から戻ったばかりで、実戦経験を持つ勤務者はマラリアなどの療養中で、若手を中心に部隊は再建途上にあった。新鋭の三式戰を25機装備していたが、發動機の不調から稼働機数は10機に満たず、夜戦可能な勤務者と機体はわずか4機しかなかった。

九州方面にはこのほか、新編成の第一六飛行團指揮下の飛行第五一戰隊が山口県防府基地、飛行第五二戰隊が福岡県芦屋基地に展開していたが、両戰隊は最新鋭の四式戰鬪機を裝備しているものの、南方派遣へ向けて錬成途上で、防空戰鬪命令は受けていなかった。

九州地域には西部高射砲集團が展開し、主力の31箇中隊が北九州に展開していたが、裝備するおよそ150門の高射砲の大半は旧式の八八式7糎野戦高射砲(実口径75粍砲)が大半で、この砲は最大射高9,100米、有効射高およそ7,300米と性能が振るわず、野戦防空としては有効ではあったが、対B-29用としては明らかに性能が不足していた。
射撃用レーダーである電波標定機もわずか5基ほどしか配備されておらず、訓練も十分には行なわれていなかった。

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飛行第四戰隊所属の二式複戰丙型
機首から突き出ているのは37粍機関砲ホ203


空襲警報発令を受け、古屋飛行團長は0027時、飛行第四戰隊長の安部勇雄少佐に戰鬪機発進を命じた。
安部戰隊長はただちに警急姿勢―――全機がすぐに発進可能な状態―――への移行を伝え、飛行場各所に取り付けられた拡声器からは警急中隊発進が伝えられる。

警急中隊の8機の二式複戰には整備員がとりつき、燈火管制のためヘッドライトに赤い布をかぶせた始動車が、發動機のスピナーに始動機を接続させ、プロペラを回転させている。
小林大尉はすでに機上の人となり、発進準備を素早く済ませる。
樫出勇中尉は同乗員の田辺軍曹に無線の調子を確かめさせている。
佐々大尉は操縦席に飛び乗っているが、同乗者がやってこない。夜なので佐々機を見つけられないのかもしれない。胴体下面の20粍機関砲の弾倉装着は後席でなければできない。
発進までもう時間がない。佐々大尉は地上員に合図し、代わりに弾倉を装填してもらう。
警急中隊の8機は0052時までに小月基地の滑走路を離れた。夜間訓練を重ねてきただけあって、暗夜の緊急発進にもかかわらず、全機が無事、離陸していった。

中隊は4機ずつの2隊にわかれ、1隊は小林大尉が、もう1隊は佐々大尉が指揮を執った。
訓練時には点燈している翼端燈と尾燈は警戒のため消してある。そのため、いつものような編隊飛行は無理だった。各機ごとの單機行動を採らざるを得ない。
出撃機の操縦員は小林大尉、佐々大尉、樫出中尉、木村准尉、内田曹長、森本曹長、村田曹長、藤本軍曹と、夜間飛行可能な腕っこきばかりであったが、それでも夜間の編隊行動は困難であった。

飛行高度は2,000~4,000米。待機空域は小林隊が倉幡(小倉・八幡)方面、佐々隊が関門海峡東側と決められている。

上空から眼下をみやれば、燈火管制のため墨一色。どこにも明かりは見えない。
月があればある程度判別はつくのだが、今夜の月の出は0055時と遅い。わずかな星明かりと、これまでの訓練で覚えてきた土地勘だけが頼りだ。
さいわい、風はあまり強くないので機体が流されることがないのが救いだ。

そのころ、小月基地に1輛のトラックが突っ込んできた。
トラックから飛び降りたのは西尾准尉。この夜は非番で外出していたのだが、空襲警報を聞いてあわてて帰隊したのだった。
熟練者が多い第四戰隊でも夜間戰鬪可能な勤務者は少ない。ひとりでも欠ければ戦力に響く。
自身の待機空域は把握している。細かな情報は飛び立ってから聞けばいい。
西尾准尉は夏服の上に飛行服を羽織り、待っていた同乗員の原田曹長とともに昼間用の二式複戰に飛び乗り、先発隊のあとを追ってただ1機、小月の滑走路を飛び立っていった。


◆会敵

佐々大尉は関門海峡方向へ機体を上昇させていく。緊急発進で基地を飛び立ったため、僚機はどこにいるか判別がつかない。夜間ゆえに水平飛行を維持する目安が見つからず、飛行姿勢の保持に苦労する。

『来襲機は対馬東方海上上空を旋回しあるもののごとし』

飛二號無線機に一九飛團司令部からの情報が断続的に入ってくる。
日ごろから無線機の整備に力を入れているおかげで、この夜の出撃でも無線機の感度、明度は良好だ。
本当に敵機は来るのか………そんな疑問が頭から離れない。
旋回しつつ上昇することしばし―――
突如、無線機の受聴機にジャズ調の軽快な音楽が流れてきた。
深夜の放送は行なわれていないし、このような敵性音楽を流すことは禁じられている。
敵編隊から流れてくるのか、敵の基地の放送だろうか?
佐々大尉は感じ取った。
今夜は本当に敵機がやってくる、と。

一方、倉幡地区上空の小林大尉、樫出中尉らは、一定の高度まで上昇すると海の方角へ機首を転じ、37粍機関砲の試射を行なった。
搭載弾数はわずか15發しかないので、試射は1~2發にとどめる。弾丸は貴重だが、イザというときに故障で発砲できなければ意味がない。この機関砲が搭載され始めたころはよく故障していたのだ。
引き金を引くと、ドンという音とともに機首から青白い炎が噴き出し、機体が一瞬止まるような反動を受けた。その反動の強烈さこそ、複戰乗りにとって頼もしい衝撃だった。

今夜、出撃した8機のなかで、実際に敵機とやりあったことのある勤務者は樫出中尉しかいなかった。
ノモンハンでの空戦経験を持つ樫出中尉以外の、小林大尉をはじめ第四戰隊の勤務者のほとんどは、連日連夜の猛訓練で実戦未経験というハンデを補っているにすぎなかった。

一九飛團司令部からの情報が、目標機の接近を的確に伝えてくる。敵機群は意を決したかのように要地へ向かって進撃している。

『六連島北方に爆音』

六連島は倉幡地区からおよそ10粁。あとわずかで敵機は侵入してくるはずだが、いっこうに照空燈が光らない。
照空隊はなにをしている! 樫出中尉は焦りを感じていた。目視のみではとうてい敵機は捕捉できない。

関門海峡の東側で、佐々大尉は旋回を続けていた。
海峡上空で待機しないのは、照空燈を誘導する聴音機の聴測をジャマしないためだ。

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聴音機は爆音を捉えて方位と高度を測定する

敵機接近中の情報に続いて、地上にいる安部戰隊長の声が入った。

『命令。敵機は要地上空に侵入。各機は攻撃すべし!』

その瞬間、夜空を切り裂いて、150糎照空燈の光が走った。光の線はみるみる数十条に増えていく。その光芒のなかに、1機の大型機が浮き上がった。
日本軍本土防空戰鬪機隊が初めてB-29を捕捉した瞬間であった。時に6月16日0111時。

おあつらえむきに、敵機の高度は佐々機より1,000米以上低い。
2本目、3本目の照空燈がこの敵機にからみつく。位置は小倉北方。

「佐々、アカ発見!」
アカとは敵機を意味する符牒。ほかにも四戰隊は松屋、高度はヤマ、八幡は饅頭、下関を雲丹などと決めてあった。

敵機の進行方向を見定めると、佐々大尉は發動機を全開にして機首をめぐらし、降下接敵に移った。地上から撃ち上げられる高射機関砲の曳光弾が噴水のように押し寄せてくるが、みな、途中でタレてしまう。怖いのは高射砲による味方撃ちだ。高射砲弾に曳光弾はないので、いきなり炸裂するから避けようがない。
佐々大尉は20粍機関砲の上向き砲攻撃に決めて、敵機の後下方にもぐりこもうとした。
操縦席を覆う風防硝子の頂上にポッと光の輪が点る。上向き砲用の照準環で、計器盤上についた一〇〇式射爆照準器から反射投影させているものだ。
二式複戰はいきおいよく降下して敵機を追う。しかし意外にも敵機の速度の方が速く、ともすれば引き離されがちになる。これでは十分に射撃距離を詰めることができない。このままぐずぐずしているとこの敵機を取り逃がしてしまう。

「佐々、ただいまより第一撃!」
意を決した佐々大尉はそう地上へ送信するや、操縦桿に付いた上向き砲發射釦をグイと押した。
敵機の尾部から曳光弾がサーッと向かってくる。佐々大尉は二撃、三撃と撃ち続けたが、どうしても距離が縮まらず、ついに照空燈圏外へ抜けられてしまった。

しかし、この敵機を別の照空隊が八幡南方で捕捉した。
すかさず攻撃に入ったのは、1機だけで遅れて離陸した西尾准尉だった。准尉が高度をとったとき、すでに敵機は北九州上空にあった。
西尾准尉は小倉南から敵機に向かってまっしぐらに突進。機首裝備の37粍砲を発射した。照空燈の明かりを反射する敵機の外鈑を目にして離脱する。
撃破か? 西尾准尉がそう思うと同時に、左耳の伝声管から後席の久保伍長の声。
「敵機、照明弾を投下します!」

ひとつ、ふたつ………
敵機の腹の下から投下されたまばゆいばかりのフレアが、いくつもゆっくりと地上へと落ちていく。それまで明かりひとつ見えなかった倉幡地区が、一気に浮かび上がった。
敵機は照明弾を投下後、南西方向へ去っていった。この敵機は爆撃編隊に先行して侵入し、照明弾で目標を照らすパスファインダー(先導機)だった。
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◆深夜の防空戰鬪

佐々大尉は攻撃後、待機空域の関門海峡東側へ戻ろうとしたが、若松上空に差し掛かったあたりで、六連島方向から侵入してくる敵機2機を発見した。その敵機は、間隔を大きく開けて飛行しており、編隊を組んでいるようには見えなかった。
今度こそ! と巧みに機を操って後下方にもぐりこみ、ふたたび上向き砲からの射撃を浴びせた。
二式複戰のオレンジ色と敵機の青い曳光弾の流れが夜空に交差する。
数秒後、敵機の右翼内側發動機から細長い火焔が噴き出した。火は見るまに広がっていく。
佐々大尉は火焔に浮かび上がる敵機を観察した。写真でよく見知っているB-24によく似ている。
もう一撃、と思い至ったが、敵機は照空燈の光芒から逃れていってしまった。
「佐々、1機撃破。八幡北方、高度2,000」

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米陸軍爆撃機コンソリデーテッドB-24リヴェレーター

手負いの敵機は門司南方上空にいた森本曹長の目に留まり、小倉付近で攻撃を行なったが、またも照空燈の照射圏外へ脱出していった。
森本曹長は小月の戰隊本部に、「敵機はB-24なり」と報告を送った。

遭遇し、しかし取り逃がしたり撃破にとどまっていた戰鬪も、0140時ごろについに初の撃墜戰果が挙がった。

最初に撃墜を報じたのは、芦屋南方で待機中の木村准尉であった。
木村准尉は八幡上空を飛ぶ敵機を確認し、距離200米にまで接敵し、37粍砲の射撃を開始した。
ドン………ドン………と間をおいて発射される37粍砲。照準器からたちまち巨大な胴体があふれだす。木村准尉はさらに肉薄し、目測50米ほどにまで接近した。
そのとき、敵機は逃れるためか、急な角度で上昇に移った。
木村准尉は追躡し、さらに37粍砲を撃ち続ける。發射速度の遅さがもどかしい。
ぎりぎりまで食い下がって急反転し、下方へと避けた木村准尉は、敵機が大きく傾き、すぐに機首を下げてコントロールを失ったまま落下していく姿を確認した。
「木村、木村、1機撃墜 敵は錐揉み状態となって落下中!!
この無線電話は第一九飛行團司令部、第四戰隊本部だけでなく、在空の二式複戰全機に響きわたった。

木村か、よくやった―――
八幡上空にいた小林大尉はこれを聞いて、いっそうの戦意がみなぎるのを感じた。小林大尉はいましがた、西尾准尉と1機ずつ攻撃したばかりだった。
照空燈の照らす範囲は限られており、そのうえ敵機の速度が大きいので、後方から追いかけての攻撃では致命傷を与える前に照空燈圏外へ逃げられてしまう。
第2の目標を探していると、おあつらえむきに照射を浴びた敵機がいた。
「あいつをやるぞ!」
伝声管で後席の田川准尉に伝え、小林大尉は後上方からまっすぐ降下して敵機の腹の下に潜り込んだ。その勢いで機首を上げてぐっと近づき、50米の至近距離から左主翼付け根に37粍砲彈を撃ち込んだ。
一瞬、体当たりかと思うあたりで急旋回し、後方を振り返ると乗機はまばゆい閃光につつまれた。
どうやら燃料槽を直撃したようだ。敵機は大爆発を起こし、空中分解した。いくつかの炎の塊になって、敵機は北九州の大地へと落ちていく。

敵機の爆撃が始まった。
倉幡地区の各所に火の手が上がった。
そのまわりから、照空燈の白熱色の帯が放たれ夜空をはしる。
上空で断続する敵味方の射撃音をかき消すように、高射砲、高射機関砲がうなりをあげる。
そのなかを、各機から發する電波が飛び交う。

「樫出、アカ発見。大型4發機。若松上空、高度4,000」
「藤本、八幡上空。ただいまより第一撃!」
「樫出、1機撃墜! 遠賀川上空、敵尾翼マークはFなり」
「西尾、下関上空。高度2,500、アカ発見」
「洞海湾上空の高射砲の射撃は止め!」
「西尾、敵左發動機に有効彈。追撃中」
「木村、これより帰還」
「西尾、1機撃墜確認! 蓋井島上空」

やがて燃料、彈藥の欠乏した二式複戰は、0200時ごろから1機、また1機と小月基地に着陸し始めた。
滑走が終わらないうちから整備員が駆け寄り情況を尋ね、すぐに補給・整備作業に取り掛かる。
同時に、待機していた板倉中尉、小松准尉、野辺軍曹らが戦力の不足を埋めるべく舞い上がっていく。

その後も敵機の侵入は続いた。
編隊を組まず、六連島、藍島方向から單機ずつ数分おきにはいってきたため、防空戰鬪は0300時をまわっても続行された。
ようやく敵機が姿を消したのは、戰鬪開始から2時間以上たった0330時ごろだった。

敵編隊の引き揚げていく様子は、来襲時と同じく、各地の電波警戒機から報告された。
対馬南端の豆酘から、

『西方に脱出する敵を捕捉』

玉之浦からは、

『済州島南150粁、脱出する敵を捕捉』

済州島の摹瑟浦からの、

『脱出する9目標を0500、西方150粁まで追跡す』

を最後に、以後は感知不能になった。


◆B-29の日本本土初空襲

この夜、北九州に姿を見せたのは、ケネス・B・ウルフ准将が指揮をとる第20爆撃兵團第58爆撃航空團に所属するB-29であった。
支那大陸奥地の成都には昭和19年6月15日の時点で83機のB-29が展開しており、このうち作戦行動可能な75機すべてが日本本土初空襲に動員された。
記念すべき日本本土直接攻撃を取材するため、8名の従軍記者とカメラマンも同乗した。

発進は6月15日1516時。
パスファインダー任務の2機のB-29を先頭に、B-29はおよそ2噸の爆彈を機内に抱いて離陸を開始した。
しかし、順調にはいかなかった。
7機は故障により離陸中止。
離陸には成功したものの、4機が故障により基地に引き返した。
離陸直後には1機が墜落した。
最終的に、北九州へと到達できたのは63機であった。

米軍にとって幸運であったのは、飛行ルート上の地上の天候が悪化していたことである。
日本陸軍第五航空軍が司令部を置く漢口一帯は激しい雷雨に見舞われており、日本側は上空はるかをB-29が飛行しているなど思いもよらなかった。
ただ、少数の米軍機が各地に飛来していたため、空襲警報は発令されていた。しかし、米軍機は雲下にはおりてこず、雲上を飛び去っていった。

目標の八幡に近づくにつれて、B-29搭乗員たちの顔がひきつっていく。日本本土初侵入に対する恐怖と闘志がまじりあい、機内には緊張感がみなぎっていた。誰も、ほとんどしゃべらない。
燈火管制で闇夜に沈む目標の上空にパスファインダーが入ろうというとき、地上から一斉に光の矢が放たれた。
爆撃針路に入る後続のB-29も光の束につつまれる。機内が真昼のように明るくなる。高射砲弾がそこかしこで炸裂し始めた。
地上は明かりひとつないうえに、煙霧に覆われている。
目視爆撃は不可能。レーダー照準に切り替える。
下方をついとかすめていくのは、日本の夜間戰鬪機だ。1秒が1分に、1分が1時間にも感じられる。

各機は爆弾を投下後、スロットルを全開にして戦場離脱にかかった。
B-29は照空燈から逃れようと必死の機動を試みる。上昇し、下降し、左右へ旋回する。
やがて―――

機内がもとのほの暗さに戻ると、機長の弾んだ声が搭乗員のレシーバーにひびいた。
「ついに逃げ切ったぞ!」
東支那海にでた。もう安全だ。
あとは成都の基地へと戻るだけだ―――

B-29による本土初空襲は、しかしその成果は微々たるものでしかなかった。
出撃した63機のうち、3機は航法ミスで目標に到達できず、7機は爆撃システムの故障により、海上に爆弾を投棄した。
目標の八幡製鉄所に投彈できたのは47機のみ。このうち32機は燈火管制と煙霧のためレーダー爆撃を実施した。
爆撃高度は2,400~3,000米、5,200~5,400米の二層だった。
邀撃に出た日本機により5機が撃墜され、最終的な損失は計7機。戦死者は55名。
出撃機に対する損失率は10%を超えた。この損害は決して少ないものではなかった。

6月18日、米軍は高々度写真偵察を実施し、爆撃判定を行なった。
その結果にウルフ司令官ら幕僚は失望した。
製鉄所はたった1箇所が破壊されただけで、生産に打撃を与えたと言えるものではなかった。

それでもウルフ司令官は、「日本産業機能の組織的破壊の幕開け」との声明を出した
華盛頓(ワシントン)ではこのニュースが上院下院で読み上げられるあいだ、國会の議事は停止された。
本土攻撃を伝える新聞の全段抜きの大見出しは、ノルマンディ海岸の獨逸軍陣地突破を伝えるニュースと同等の扱いで全米に報じられた。
ノルマンディを訪れていたヘンリー・アーノルド大将も声明を出した。
「B-29による第一撃は真に全世界的な航空戰の開始である。米國は航空兵力としてまだ知られていなかった、最も大きい打撃を与えることのできる、きわめて精巧な最も恐るべき航空機を持ったのである」

しかし、こういった強気の声明とは裏腹に、B-29の大規模本格空襲はつづけて実施されなかった。
成都に蓄積した燃料と彈藥は不足しており、成都への輸送・補給もままならなかったからである。
成都のB-29が次に活動を始めるのは半月後の7月7日であり、しかも出撃機はわずか18機でしかなかった。

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成都近郊にある新津、彭山、広漢などの基地拡張に支那人労務者延べ33萬人が動員された


◆第五航空軍の追撃

6月16日0430時ごろ、漢口の第五航空軍司令部は、内地からの北九州空襲の連絡を受けて、激しく揺さぶられた。
大陸奥地のB-29の動きを察知し、急変があれば支那派遣軍を通じて、ただちに陸軍中央へ伝達するのが役目であったからだ。とりわけ、西部軍とは互いに連絡を密にし、敵機の侵入前・侵入後の対処を十分に行なうという協定も結んでいた。

B-29の帰途を迎え撃つべく、そのルートや在空状況を把握するために第五航空軍は一〇〇式司令部偵察機を発進させた。同時に、一式戰鬪機に発進準備、敵の不時着基地破壊のために九九式雙發輕爆撃機に爆裝を命じた。

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飛行第六四戰隊の一式戰鬪機二型/戰隊長・宮辺英夫大尉機とその列機

一〇〇式司偵はそれぞれの目標を求めて索敵し、一式戰の一部も情報を得たのち、B-29の帰還コースへ向かったが、華中方面の天候は悪化しており、邀撃も索敵も失敗に終わった。
ちなみに、一式戰は日本軍機で最初にB-29と交戦した機体である。
北九州爆撃前の昭和19年4月26日、成都へ向かうB-29を緬甸(ビルマ)方面で活動中の飛行第六四戰隊、第二〇四戰隊の一式戰12機が捕捉。このうち、六四戰隊長・宮辺大尉率いる6機が攻撃に参加し、およそ45分間で12回の攻撃を仕掛けたが撃墜には至らなかった。

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飛行第七五戰隊の九九式雙發輕爆撃機二型

湖北省老河口方面へ向かった独立飛行第五五中隊の一〇〇式司偵は、さらに北方へと足を伸ばし、河南省内郷基地へと向かった。
0930時ごろ、滑走路上に銀色の4發機を発見した。
一〇〇式司偵は飛行場を一航過して写真を撮り、急いで漢口に戻った。現像してみると、あきらかに不時着した米軍新型爆撃機である。
漢口に待機していた一式戰と九九式雙輕は内郷へ向けて急遽、発進した。

この捕捉したB-29は、エンジンをやられて不時着したロバート・ルート大尉の乗機であった。
飛行場の支那兵は日本軍機がくると騒ぎ、ルート大尉は機体を隠そうとしたが、内郷飛行場にはB-29を隠せる掩体壕はなかった。
日本軍機が来る前にエンジンを直して離陸しようとしたが、間に合わなかった。
来襲した日本軍の戰爆連合はB-29が炎上するまで銃爆撃を繰り返した。
搭乗員と、同乗のタイム誌の記者はB-29が完膚なきまでに破壊されるのを見ることしかできなかった。

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最高速度時速630粁と日本陸海軍の採用機で最速を誇った一〇〇式司令部偵察機三型甲

第五航空軍はこの攻撃でどうにか一矢報いたが、支那派遣軍総司令官・畑俊六大将は陸軍中央に対する面子を失った。
畑総司令官にきびしく叱責された第五航空軍・下山琢磨中将は、「千秋の恨事」と慨嘆した。


◆防空戰鬪 その後

苛烈な2時間もの戰鬪で、小月基地に帰還した空中勤務者たちは激しい疲労を感じていた。
古屋第一九飛行團長、安部第四戰隊長、参謀らが並んで出迎え、質問攻めにあった後、戰隊長がねぎらいの祝い酒をふるまった。

一休みののち、敵来襲状況、作戦行動などを検討するため、出撃した空中勤務者を中心に小月基地で会合が開かれた。
まず、来襲機の機種が問題に上がった。
大陸方面からの空襲に対しては、新型爆撃機が本命とされていたが、視野が狭く視認時間を十分にとれない夜間戰鬪では、はっきりわかるのは4發大型機ということだけで、B-24だと思った勤務者も多かった。
B-29については陸軍中央で性能の推測が行なわれた程度で、写真も想像図もなく、正確な形状は不明だった。

「4發の大型機には間違いないが、いったいなんだったんだろう。あれがB-29かな?」
小林大尉の発言に佐々大尉は、
「後下方から迫ったとき、情報室にあるB-24の写真とよく似ていたようですよ。しかし速度はずっと速かった」
樫出中尉も、
「それにしては、垂直尾翼が1枚しかなかった。B-24は2枚のはずですが」
結局、これといった結論が出ないため、一応B-24とB-29の混成ということに落ち着いた。
話題は攻撃方法や戰果、高射砲や照空燈との連携邀撃などに移っていった。

一方、撃墜機の多くは海没していたが、2機だけが折尾と若松に墜ちた。
ただちに陸軍航空本部調査課をはじめ研究機関の担当者が現地に向かい、海軍からも技術将校が派遣された。

折尾に墜ちたB-29は、墜落時に爆発炎上しているので見るべきものは少なかった。
若松に墜ちた方は四散してはいるものの、發動機や翼など各部の名残をとどめているものが多かった。そしてなによりの収穫があった。
残骸のなかから、搭乗員が撮影したと思われる、未現像のフィルムが見つかったのである。
すぐに現像室に持ち込まれ、処理されたネガはプロジェクターで印画紙に焼き付けられた。
現像液にひたされた印画紙が、ぼんやりと黒ずみはじめ、やがてくっきりと像が現れた。
雲海上を飛ぶ巨大な4發機の姿だ。いくコマにわたり、角度を少しずつ変えて写っていた。おそらく、大陸の基地を発進後、日本本土爆撃を記念して撮ったものであろう。

丸い流麗な機首部。細長い胴体と主翼。大きな垂直尾翼。發動機や銃塔の配置までよくわかる。
B-29がそのすべてを日本側にあらわした瞬間であった。

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墜落機から見つかったフィルムに写っていた第468爆撃航空群のB-29

第一九飛行團はB-29との初戰鬪の結果をまとめた。
戰果は撃墜7機、内不確実3機。撃破4機。
木村准尉の3機撃墜を筆頭に、小林大尉、佐々大尉、樫出中尉、西尾准尉ら、いずれも飛行第四戰隊の勤務者による戰果であった。
第五九戰隊は戦力再建途上であり、空中や着陸時の第四戰隊との混乱を防ぐためもあり、結局は出撃を命じられないまま16日の朝を迎えた。

来襲敵機はB-29とB-24の混成およそ30機と推測された。初回の邀撃では、半数以上を撃墜して敵の戦意をくじく方針であったが、出撃機数を抑えたためもあり、予定戰果には達しなかった。
第四戰隊は使用機12機で延べ24機を出撃させ、常時在空はわずか8機にとどまった。

とはいえ、第四戰隊に撃墜された二式複戰はなく、損害は被弾1機のみであった。
この損害に対し、B-29撃墜撃破11機の戰果は大勝利であった。
理由としては、出撃した空中勤務者の錬度が非常に高く、北九州の空に慣熟していたこと。
事前に来襲の情報がはいっていたこと。
B-29が編隊を組まず、二式複戰が活動しやすい2,500~3,000米の高度で、單機ずつ侵入したこと、などが挙げられた。

武裝については、機首の37粍機関砲がもっとも効果を発揮した。
上向き砲による後下方からの攻撃は、照空圏が狭くて高速のB-29を射撃する時間がないため、あまり有効ではなかった。

一方、西部高射砲集團、北九州防空隊の高射砲は、照空燈が捉えたB-29を次々に狙い撃ったが、冷静さを欠いて乱射状態に陥り、またB-29の大きさと速度に惑わされ、高度や位置の判定を誤りがちであった。戰鬪に慣れるにしたがって至近弾が見られるようにはなったが、およそ9,000發の發射弾数に対し確実な撃墜戰果を得るには至らなかった。
むしろ、二式複戰の行動を妨げる結果になり、第四戰隊の唯一の損害である被弾機は、高射砲の破片による被害であることがのちに判明した。

済州島などの電波警戒機は効果を発揮はしたものの、敵機の飛行高度をつかめず、電波高度測定機の併設と増備が望まれた。
二式複戰は照空燈の照射圏外に逃げた敵機は追えないため、機上電波標定機の不備が痛感された。

八幡製鉄所の被害は軽微で、製鉄所を含めた八幡市内で炸裂した爆彈は500ポンド爆彈5發だけであった。鉄道も一部不通になる被害を受けたが、物的損害はたいしたものではなかった。それでも、死傷者数は軍民あわせて数百名に達した。

日本國内で北九州空襲はさほど報道はされなかった。
日本側の新聞紙上を大きく飾ったのは、米軍サイパン上陸の報であった。

昭和19年6月15日―――
この日をもって、終戦までつづく1年2箇月間のB-29との熾烈な攻防戦が幕を開けたのであった。



壁|'-')ノよいお年を。
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艦これアーケード

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

本家ブラウザ版よりもノメりこんでハマっておりますアケ版艦これ。
今日は雨でしたが、有給とって朝からアケ版やってました。

有給とってゲーセン入りびたりとか終わってんな………という自覚はあるようでないです。
まぁ、有給消化するヒマがなかったりするし、梅雨時の蒸し暑い時期に遠出するのも億劫ですしね。なら冷房の利いたゲーセンで、画面のなかで動き回る艦娘相手にニヨニヨしていたほうがいいじゃないですか。

という自己弁護もそこここに………

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高速戰艦『霧島』に、5月実装艦の『古鷹』と『睦月』がようやく加わりました。

現在、次期うpデートに向けての公試中ですが、それによると、次期うpデート後は低速艦運用にやや難があるかもしれないとのことで、アシの速さがウリの『金剛』型4艦をそろえるのがいいカモ、などと風の便りで聞きました。

ウチの艦隊ではまだ『比叡』が未着任ですけど、育成中なのは『金剛』のみなんですよね。
戰艦は『金剛』、『長門』、『山城』が主体ですから。低速艦が混じっているけど、まぁ気にせず育成継続です。
海域突破を無傷で………というのはたしかに資材節約の点からは重要でしょうが、多少の被害に目をつぶり………艦隊の損害を最小限に抑える運用を心掛ければいいかな、と思う次第。
MVPとったときの『金剛』可愛いし、母港での『山城』も捨てがたいし、『長門』はアケ版での着任戰艦第一號なので愛着がありますからね。

一等巡洋艦は『愛宕』育成おんりーですので、『古鷹』は裝備の20糎砲を頂戴して、予備艦編入です。

『睦月』は『如月』とペアで育成予定ですが、魚雷發射管とりわけ酸素魚雷の開発が難航しているので、いましばらくは予備艦です。


こんな感じで可愛いので、はやく『如月』とペア組ませて出撃させたいです。
うちの艦隊は『如月』ちゃんが驅逐艦の筆頭、いわば嚮導ですね。ただ改はまだの模様。ドロップしません、なかなか( ゚ω゚ )



筐体によっては動画が撮影できるとのことですが、自分のいきつけの店ではないっぽいorどれがそうなのか気づいていないだけっぽいです。
スマフォとかで録画………はさすがにできないです。


『如月』ちゃんのもとに、あたらしく驅逐艦を2艦、編入しました。
それが―――

160616ka2

先日、レア驅逐レシピをまわして着任した『島風』。
2-3通常戰でドロップした『秋月』。
今日、再度2-3通常戰で『秋月』2枚目がドロップ。

ほしかった艦娘がふたり来てくれてうれしいことこれしきり。





この2艦は艦娘そのものだけでなく、連装砲ちゃんの動きを見るのも楽しいんですよね。
連装砲ちゃん可愛いなぁヾ(>ヮ<*)ノ



壁|'-')ノよいお年を。
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戰前のころ 其の參

ウェーイヾ('ヮ'*)ノ

艦これアケ、我が艦隊の陣容もだいぶ整ってきました。

現在、我が主力は『如月』を旗艦とし、水雷戰部隊として『暁』、『北上』、『大井』、『愛宕』。
敵に戰艦や空母が複数配備されている海域突破には、旗艦『如月』に空母『赤城』、『蒼龍』、戰艦『金剛』、『榛名』、『山城』を配して出撃しています。

ここ数日間の出撃で、『蒼龍』、『榛名』に加えて―――

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『金剛』、『愛宕』、『北上』、『大井』の改を順次、編入することができました。
『島風』や『秋月』といったレア艦はまだだけど、少しずつ少しずつ、艦隊の戦力は向上しつつあります。

問題は―――
裝備開発が難航していること...


気を取り直して―――
戦前~戦中の画像や小ネタをご紹介していく《戰前のころ》第3回、これで最後となるので、艦これとまったく関係がないですが、流し読み程度に御閲覧くだしあ。


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夜店の金魚売り
東京の江戸川下流域は、愛知県弥富町や大和郡山市とともに、金魚の三大生産地でした。
ですが昭和16年には金魚の需要が減少し、さらに業者も食用の黑鯉の生産に転換していったため、金魚の生産量は大きく減少しました。


16061302
浅草の土産物
上画像は《ざるかぶり犬》という江戸玩具で、生まれてくる赤ん坊を病気から守るという縁起物で、東京・下町でもかなり人気のあった土産物でした。


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遊園地の落下傘塔
昭和15年6月に、東大の武藤清教授が設計した落下傘塔が、東京二子玉川の読売遊園地(現:二子玉川ライズ)に建てられました。
現在の東京ドームシティにあるスカイフラワーよりも高い70米の落下傘塔で、4人のりの昇降機を備えていました。
昭和16年夏ごろからこの落下傘塔で、陸軍の落下傘部隊が学生を装って空挺降下の訓練を行ないました。


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話題の人に扮して
昭和16年10月、上野の鈴本演芸場で桂一奴が百面相を演じました。上の画像はその時のもので、右から、東条英機、アドルフ・ヒトラー、近衛文麿、喜劇俳優の高勢実乗。
話題の人物の特徴をまねるという一奴の芸は当時はめずらしいもので、かなりの人気を博しました。


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映画会社の統合
昭和16年9月19日、情報局の統制により、劇映画製作会社10社が松竹、東宝、第三会社の3社に統合されることが決定しました。同時に、配給機構の一元化も図られました。
上画像は9月25日の東京日日新聞夕刊に掲載された広告。
なお、第三会社は新興キネマ、日活、大都が合併し、昭和17年1月に大映となりました。


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三原橋のお米電車
昭和16年10月13日、東京府米穀商業組合はガソリン節約に協力するため、米の輸送をトラックから東京市電に切り替えました。
東京銀座の歌舞伎座横の三原橋から下板橋間を1日3往復しました。


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前線へ送る慰問袋
画像は白木屋の女子従業員が玩具や食品の詰め合わせを行なっているところ。
戦地にいる兵隊さんへの慰問袋セットがデパートで販売され、結構な売れ行きになりました。


16061308
キングクレヨン
クレヨンはパラフィン、脂肪酸などを溶かして顔料を加えたもので、王様商会(現:王様クレイヨン商会)が大正7年(1918年)に國産化に成功しました。
上の画像は昭和16年に販売されていた15色入りの学童用。当時の子供たちの憧れは、24色入りに入っていた金と銀の2色でした。
今も昔も、クレヨンや色鉛筆での金と銀は大人気です。


16061309
秋季帝室御賞典(現:天皇賞)が開かれた東京競馬場/11月2日撮影
戦前の競馬ブームは昭和10年ごろから過熱していきました。当時、日本は日中戦争に突入しており、國内は軍需景気にわいていた時期だったため、競馬ブームは好景気を反映しての出来事でした。
昭和16年12月の料金改定まで、中山、東京、横浜、京都、阪神の各競馬場の入場料は1等6圓50錢、2等が3圓、馬券は一人1枚20圓と高額でした。
ちなみに、当時の日比谷スエヒロで供された、わかさぎ唐揚げ、マカロニ、スープの定食の料金が1圓40錢でした。
太平洋戦争の突入と馬券税の導入により、入場者数は急激に減少。そして昭和18年12月、競馬中止が閣議決定されました。


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日本初の三冠馬であるセントライト
小西喜蔵騎乗のセントライトは昭和16年10月26日、京都競馬場での京都農林賞典(現:菊花賞)で勝利しました。セントライトはこの時すでに横浜農林賞典(現:皐月賞)、東京優駿(現:日本ダービー)を制しており、京都での勝利により、日本初の三冠を達成しました。


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非常持ち出し訓練
画像は昭和16年10月26日、大阪の扇町高等女学校での非常持ち出し訓練。当時、防空訓練は隣組や会社、学校などで盛んに行なわれていました。
日本が空襲を初めて体験したのは太平洋戦争のB-29によるものではなく、昭和13年2月23日の中華民國空軍機による台湾空襲でした。台湾の2箇所の飛行場が爆撃されました。
そして5月20日、中華民國空軍機が九州上空に侵入。この時は爆彈ではなく伝單、つまり宣伝ビラをバラまいていきました。


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銀ブラ
昭和16年11月ごろの銀座尾張町交差点。
人々は着飾って銀ブラに出かけましたが、商品は店頭から消えつつありました。


16061313
体力奉公を標語に中学生の國防競技
昭和16年10月31日から11月4日にかけて、神宮外苑競技場を中心に、第12回明治神宮國民体育大会が開かれ、中学生から一般までおよそ3萬人が参加しました。
ホッケーや卓球は今大会から廃止され、滑空や行軍が種目に加えられました。


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貸し切りバスで登院
昭和16年11月15日、第77臨時帝國議会が招集されました。貴族院事務局は、ガソリン不足により自家用車で登院できない貴族院議員のために、貸切バスを省線市ヶ谷駅、同新橋駅から國会議事堂まで走らせました。
初日は満員でした。


16061315
子供用大礼服
産めよふやせよ子は宝、という言葉が流行語になった昭和16年ごろ、神社参拝や七五三参りの子供たちにも、男児は陸海軍将校の大礼服、女児は従軍看護婦姿など軍國調の服装が目立ち始めました。
なお、こういった服は一部の裕福な家庭の子供しか着ることはできませんでした。


16061316
ボール紙のバケツ
金属回収運動により、家庭の周りからどんどん金属類が姿を消していきました。そんな折、ブリキに代わるボール紙製のバケツが登場しました。
この紙製バケツは強靭剤や防火剤を塗ったボール紙にベニア板を裏打ちして作られていました。


16061317
看板が消えた商店
昭和16年春ごろから、看板撤去運動がはじまり、商店は看板を外し、かわりに障子戸に墨で店名を書くなど工夫を凝らしました。
画像は秋ごろ撮影の長野市善光寺の増久金物店。


16061318
熱湯アイロン
電気アイロンの代用品として、昭和16年11月ごろから販売が始まった陶製の三徳アイロン。
大きさは高さ11糎、巾10糎、長さ17.5糎。
熱湯を入れてアイロンとして使用するほか、湯の注ぎ口に穴の開いた栓をして火にかけ、噴き出す蒸気を利用して毛糸を湯のしできるよう工夫もされていました。


16061319
最後の天気予報
画像は12月8日付の東京日日新聞朝刊に掲載された天気予報。
太平洋戦争が始まったこの朝、陸海軍大臣は口頭で、気象報道管制の実施を命じ、以後、防空対策の見地から、新聞、ラヂオの天気予報や気象通報の報道は禁止されました。
気象情報が復活したのは、終戦後の昭和20年8月22日昼のラヂオ放送でした。


◆戰前ミニ事典
重要産業団体令
重要産業に対する國家統制を徹底するため、産業別に統制会を組織させる勅令で、國家総動員法に基づき昭和16年8月30日公布、同年9月1日施行。
全國的産業には統制会、地方的産業には統制組合が組織され、関係会社は強制加入されました。
10月には石炭、原動機、電気機器など9業種、12統制会が指定され、その後も相次いで設立されていきました。
生産目標や価格の決定権などは官庁が握っており、官庁の下請け機関にすぎませんでした。

臨時郵便取締令
昭和16年10月4日に公布施行された、戦時または事変に際しての郵便物の差出禁止、検閲などを規定した緊急勅令。
國防上の秘密が外國に漏洩するのを防ぐのが目的でした。
太平洋戦争が始まってまもない12月11日には改正が行なわれ、米國、英國への郵便物が禁止されるなど、さらに取締は強化されていきました。

行列買い
昭和16年、おおくの生活必需品が隣組を通しての割当配給制となり、回覧板で知らせが来ると急いで配給所や店頭で行列して2時間も3時間も待ちました。
商店、食堂、駅の窓口など物を売る所はどこでも長い行列ができ、人々は行列があると後ろにつくのが習慣となり、後ろに並んでからなんの行列かを聞くといった珍事も多発しました。

箸持参運動
通勤から旅行まで、外出するときはいつでも箸を持参して、飲食店の割り箸は使わないようにしようという運動。
木材資源の不足から、昭和16年6月1日に木材統制法が施行され、大量の木材を消費するうえに使い捨ての割り箸からまず節約しようというものでした。
なお、昭和15年暮れごろから、蕎麦屋の出前などから割り箸は姿を消し始めていました。

ゴミ箱宰相
國民の生活実態を知ろうと、朝の散歩でごみ箱を覗くこともあった東条英機を差した言葉。

奉安殿
御真影―――天皇・皇后両陛下の御写真―――や教育勅語の謄本を保管するために、学校などに建てられた建物。子供たちは、その前を通るたびに最敬礼することを義務付けられていました。
校舎が木造でも、奉安殿は鉄筋というところも多く、災害からの防護は校長の重要任務でした。

國民勤労報國協力令
國家総動員法に基づき昭和16年11月22日に公布され、翌12月1日に施行された、労働力を確保するため、國民をひろく動員して学校、会社などを単位として國民勤労奉國隊を組織し、緊急産業部門に従事させることを定めた勅令。
14歳以上40歳未満の男子と、14歳以上25歳未満の未婚女子は、無報酬で年間30日以内の勤労協力を強制されました。



壁|'-')ノよいお年を。
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